一市民の現代社会等へのコメント(毎月更新)
フリーライター 永野 俊
22年8月ミニトーク 永野
(1)領網―ネット情報の領域区分
外国からの情報流入規制を行っている。多くの国民は国営放送からしか情報を入手できない。国営放送は戦争の正当性と自国の戦闘成果しか報じない。したがって国民の多くはこの戦争に賛意を持つ。また西側諸国でもロシアの一方的な主張や偽情報が国内に流布されることを嫌って、ロシアとのネット回路を遮断する例がある。いわば領土、領海、領空といった従来の国・領域間の境界に加えて‘領網’という新たな情報境界が生じる傾向がある。
(2)安倍晋三元首相
先ごろ、暴漢に射殺された。この事件自体は言語道断であり、彼の死を悼む。
であるから彼を国葬にするという政府の行動も理解に苦しむ。戦後の没落した日本を立て直した吉田茂以来の国葬であるが、国民の多くは彼に吉田ほどの成果があったとは思わないであろう。その売りであるアベノミクスもアメリカやロシアとの外交交渉などもやっている感だけで成果はゼロまたはマイナスに等しい。(多くのマスコミに同意見あり。)
砂の女―いかに生きるべきか― 2022年6月 永野
‘砂の女’は日本の著名な作家安部公房(1924~93)の小説のタイトルである。1962年に刊行されたこの作品で安部はノーベル文学賞候補にもなり、世界的な作家に押し上げられた。この作品は映画化もされて数々の賞を受け、国内外で高く評価された。
内容は人間の自由とは何か、何に価値を置いて生きるかべきか、を寓話的な物語で問うたものである。我々は人間社会の中で自由に生きていると思っているが、実際は種々の壁の中で制約を受けながら、日々を生きているのである。社会の中で何らかの仕事を持てばその勤めの中での制約があり、家庭を持てばその中での制約がある。我々は平素このことを意識して考えてみることはあまりないと思うが、これは人生を豊かに生きるためにはぜひとも頭に入れておかなければならないことであろう。ちなみに‘砂’は自由の象徴であり、自在に形を変えられるが、それはまた人の意のままにならない巨大な力を持つものでもある。
物語の主人公は学校の教員を職とする一人の男で、趣味は昆虫採集である。学校教員という壁の中で日々穏当な生活を送っているが、その平穏だが退屈な生活から離れ、自由な振舞いを求めて昆虫採集の旅に出る。求める新種の昆虫を探して砂丘のある部落にたどり着く。そこでは砂の大きな窪み(穴)の中に一軒ずつ家がありそれが集まって一つの部落を形成している。その一つの穴の底に住むひとりの女の家に宿を借りる。男はそこから出て元の生活に戻ろうとするが、穴の底と外界をつなぐ縄梯子は部落の管理者によって巻き上げられ、男は穴から出られず、日々家に降り注ぐ砂を撤去する作業に追われる。今まで教員という社会的に確立された地位のもとに日々平穏に暮らしていた自分がなぜこんな生活を強いられるのかという思いから何回も脱出を試みるがすべて失敗し、女との砂底生活を続け、次第にその生活に順応して行く。そんなある日、女が急病に倒れ、男は親身になって女を介護する。そして女は村人によって病院に運ばれてゆく。そのあとには巻き上げられずに残った縄梯子があった。物語はここでおわり、その先は読者の考えに委ねられている。文末には家庭裁判所の文書が示され、男は生死不明の「失踪者」であるとの宣告文が呈示されている。
読者は2つのことを考えるであろう。一つは自由というものの考え方である。民主主義国では人々は自由にものを考え、自由に行動することが出来ると思っているが、それは所詮人間社会に存在する種々の壁の中でのことである。その壁から飛び出せば今まで考えたこともないような別の巨大な壁が存在し、今までの壁の中で想像していた世界とは全く違う別の壁の中で生きなければならないことになる、ということである。もう一つは、人間が何に価値観を置いて生きるかという生き方の問題である。既存の壁の中の価値観で人と人との形式的なつながりを価値あるものとして受け止めているが、そうではなく人と人とのつながりはそれが真にその人にとって親和性のある心休まるものであってこそ価値があると言えるのではないか、ということである。これこそが著者が言いたいことであり、世界の多くの人々の共感を喚起したものなのであろう。
参考:ヤマザキマリ、安部公房‘砂の女’、NHKテキスト100分de名著6月号
高齢をどう生きる 2022年6月 永野
日本人の平均寿命は年々延び現在では男81歳超、女87歳超である。このような高齢化傾向の国々では後期高齢者(75歳以上)がどう生きるかという問題は身近な問題となっている。我々は高齢になるにつれて必然的に病を抱えて生きていくことになる。特にがんは高齢者の多くが抱える病である。日本では死亡の原因の第一位であり、85歳以上の人の体内には殆どがんが存在する。一般にがんは年を重ねると共にその進行が遅くなるので、高齢者では放っておいても大丈夫なものは意外と多いといわれる。がん予防のために、食生活に種々の制限を加えたり、酒、たばこ等の嗜好品を絶って生活することはストレスの原因にもなり免疫力を弱めることにつながるので高齢者は程々にしたほうが良いといわれている。80を過ぎたらがんの手術は受けないほうが良いともいわれる。がんは早期発見・早期治療をすべきものといわれているが、これは60台までの人に当てはまることである。
健康診断では種々の検査をされて、異常な検査値がみつかることがある。特に高齢者では血圧、コレステロール、血糖値などで異常値が見つかることが多い。医者はこれらの値を正常範囲に戻すために、薬を飲むことを勧めるがこれも問題である。医者には総合的な観点から人の健康を見る視点を持たない人が少なくない。血圧を下げれば血液が体の各部に行き渡ることの妨げになり各部の機能低下を引き起こす。脳ではボケや認知症の一因となる。コレステロールは体内の細胞の合成に必要な物質であるからそれを減少させることは細胞合成に支障を来す。免疫機能も低下する。検査値の増加にはそれなりの意味があるので、一律に薬でコントロールすると問題が生じる場合がある。日常生活の改善で数値を抑えるほうが合理的である。1日30分の散歩だけで血糖値が下がったという例もある。まとめとして有名な諺を紹介しておこう:1に食べ物、2に運動、3,4が無くて5に薬。
高齢になるとうつ病や認知症になりやすい。食事の偏りや運動不足、ストレスなどが原因でなることが多い。これらは高齢とともに発症する確率が高くなることは致し方ないが、できるだけ日々楽しく暮らすことが一番である。また家族はこれらの症状に過度に反応するのではなく、本人ができることはできるだけ自分でやらせることが必要である。過保護は一層症状を悪化させることにつながる。明るく陽気な心持ちで過ごし、頭や身体を積極的に使うことがうつや認知症を予防することにつながるといわれている。
参考:和田秀樹、80歳の壁、幻冬舎新書(2022年)、今やベストセラーとなっている。
22年7月ミニトーク 永野
(1)輪廻転生
宗教的な考えの中に輪廻転生という考え方がある。人間をはじめとするすべての生き物は死んであの世に行ってから必ず現生に生き返えることを繰り返す。現生に戻るとき同じ動物に戻るという保証はない。この考えは仏教にもある。
その考え方に従えば人間は生まれ変わったときに過去の世の経験を引きずって生まれることになる。これを宿業という。我々はこの世に生きている時すべての自分の考えや行為は自分自身の責任であると思う。しかし輪廻転生の考えではこの行為は生まれ変わる前の自分の過去を引きずってきていると考える。したがって良くも悪くも自分一人で全責任を持つ必要はない。現代ではこの輪廻転生の考えを信じている人はほとんどいないと思うが、これを科学の進んだ現代の知識に基づいて解釈することは可能である。自分の先祖の種々の特性は遺伝子で受け継がれ自分に伝わっている。だから自分の諸行為は先祖代々から引きついで出てきたものとして解釈できる。それはまた過去の自分の先祖が共に生きた人々の影響も引きずっている。人間は自らの考えや行為をすべて自分の責任として考えるが、これを過去の人々と共有していると考えれば,あまりよくないことに関しては気楽に許容できるし、良いことも謙虚に受け止めることが出来る。精神的により安らぐであろう。
(2)失敗のない人生は失敗である
若い人は将来を考えて、自分は何を目指し将来どのような道に進むべきか悩むことが多いであろう。こういう悩みを聞いた時の助言として適切だと思う言葉が、このタイトルの言である。将来の方向について、いろいろな選択肢がありどの方向が適切かを決めるときは、まず自分が一番興味が持てる方向に進むことである。自分の能力、周囲の思惑、経済状況などいろいろな要因を踏まえて考えているとなかなか決断がつかないことがあるであろう。しかし一番大事なことは、自分が本当にその道に打ち込む気持ちが強いか否かである。失敗を恐れてはいけない。その道で思うような結果が得られないこともあるであろう。そんな例は世の中に掃いて捨てるほどある。しかしその道で精進したことが土台となって人間として成長し新たな道を進むときに大いに役立つものであり、また自分の本当の適性を見出すチャンスを与えてもらうことにもなる。‘7転び8起き’という諺もある。失敗を恐れずに前に進み、失敗の経験を自分の成長の糧とすることが肝要なのである。世の中には過去の失敗の経験から、新たな道へ進んで成功した人は数多くいる。一例をあげておこう。iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥氏は、最初医学部で臨床手術医師を目指したが、手先が不器用でその道を断念した。そして基礎医学の道へ進路を変え大成功を収めたのである。
(3)人類は生物としては失格
ヒトは本来我欲を程々に抑えられない愚かな生き物である。共産主義は官僚の我欲と庶民の怠惰という我欲で滅び、資本主義は他を顧みない物欲で滅ぼうとしている。地球上の生物は自分たち個の欲を本能的に程々に制御してながく存続している。しかし人類は自制が利かず、その住処である地球を食いつぶし、やがて滅ぶであろう。
歎異抄 2022年6月 永野
最近テレビ番組や本の新聞広告で歎異抄を扱ったものを多く見かける。これは現代に生きる人々の行動があまりに我欲に満ちておりており、それが社会を混乱に陥らせていることに対する心ある識者たちの警告と解釈されよう。歎異抄は鎌倉時代の僧侶親鸞を祖とする浄土真宗の教えを弟子の唯円が書としてまとめたものである。歎異抄という題名は、一部の弟子たちが親鸞の本来の教えを間違えて解釈しそれを普及させていること‘異’への嘆き‘歎’ということから来ている。すなわち師の本来の教えを説く書という意味である。
その内容は少々難解である。例を挙げれば、称名念仏―南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できる―、悪人正機―善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや―、などという教えは小生のような凡夫(俗人)には全く理解ができなかった。称名念仏とは誰でも無心に仏の名を唱えることにより仏の心が自らの心に入り込んで虚心坦懐な心境になり、広く世の中の人々の幸せを願うようになり往生できるということである。これは現代風に言えば人間の平等性を説いているのである。
悪人正機はさらに理解しにくい。平たく言えば、善人が極楽往生できるのであるから悪人が極楽往生できないわけがない、と言っているのである。通常我々が持つ考え方は、善人は往生できるが悪人は地獄へ落ちるというものであるが、これと全く逆のことを言っている。この言葉を理解するにはまずここで親鸞がいう‘善人’の意味を正しく理解する必要がある。通常この時代に善人といわれる人は、寺院に頻繁に参拝し、厳しい修行に耐え、また寺の建立などに当たってはその財政的な支援をする人たちである。それらの行為は一見善行のように見えるが、その心の奥には他人はさておき自らの往生を願う気持ちがある。善行といわれるものの多くは我欲という邪心を伴っており、それを批判しているのである。その点悪人は自らの悪い行いが仏には知られていることは十分認識しているから、自らの往生を願う邪心に基づく行動はとり難い。その点で裏表のない心を持つから、そのような人の心には仏のこころが浸透しやすく、心を改めて念仏を唱えれば往生できるというのである。自己中心の貧しい心に対する批判であり、現代社会にも当てはまる批判である。
親鸞がその師法然の思想を受け継いで起こしたこの宗派は宗教改革である。当時既存の宗派(全て大陸由来)は国の認可が必要で権威主義的であった。また当時は人々の身分差別は当然であった。そのような社会状況の中で、万民平等を旨とするこの新しい仏教宗派は異端であるとされ、法然と親鸞は追放処分を科せられ島流しにされた。しかし今では浄土宗(法然)・浄土真宗は日本の最大仏教宗派であり、信者は2000万人を超える。
なお、余談であるが宗教改革というとマルティン・ルターが行った西欧でのキリスト教改革が有名であるが、浄土宗・浄土真宗が起こったのはそれより4世紀も前である。改革の内容も人々の平等性をベースにしている点で共通している。この宗派は既存の大陸由来のものと違い日本で生まれたものである。日本人の思想的先進性を誇りたい。
参考:阿満利麿、歎異抄にであう、NHK心の時代テキスト(2022年)
日本の右傾化を阻止しよう 2022年5月 永野
ドイツの安全保障政策が第二次大戦以来の転換期を迎えている。ロシアのウクライナ侵攻を踏まえて国防費13兆円を緊急拠出する。現政権が左派リベラル系であることを考えるとこれは大きな転換であろう。西側諸国の結束した対ロシア政策の中でドイツは今まで腰を引いた対応であった。とくに重兵器の拠出には慎重であった。これにはナチスによる各国への侵略的攻撃を反省し一貫して反戦の姿勢を貫いてきたドイツの思いがある。また軍事的に積極的になれば国際社会のどう思われるか、という懸念から慎重な姿勢を取らざるを得なかった。この思いは保守派にも共有されたと思う。それだけドイツは大戦の戦争責任を重く受け止め続けているのである。
それに対して日本はどうであろうか。日本もアジア諸国を侵略し、多大な人的・物的損害を与えたにも拘わらず、ウクライナ危機に悪乗りして、軍事面の強化を推し進め、核さえ装備させようという動きが顕在化している。ドイツも日本も大戦では大きな戦争責任を負っているはずだが、その受け止め方は両国では天と地ほどの差がある。これは単に国民性の違いなどという言葉で片付けられる問題ではない。国の政治を預かる者たち、それを選んだ国民の人間としての質の問題である。戦争の実体とその非をしっかり教育するドイツ、それをせずあえて若者に戦争の実体の教育を避ける日本との違いは大きい。この点で日本は大いに考え直す必要があるのだが・・・。大勢追従の悪癖を反省できない国民には無理なことか。
ドイツは大戦の過去の反省教育をしっかり行っている。「過去の克服」と呼ばれる取り組みでナチの過去をと正面から向き合う。次世代にこの過去を伝えることが最重要課題であると考え、学校の歴史教育でその事実を正確に教え、強制収容所などの見学が学習プログラムに組み込まれている。
ドイツでは先人の行った非道な行為を自分たちの歴史の一部であるとして受け止める教育をし、単なる過去の一出来事として扱わない。それを踏まえて自分たちの在り方を考えるという教育をしている。過去の事実を教育で伝え、学生に考えさせることは若者の右傾化も防いでいるという。
日本では加害者であったという意識が欠如している。学校での広島や沖縄の見学は日本人が被害者であるという意識が強調されてしまう側面もあるので配慮が必要である。学校で教える歴史でも戦争については単なる経過を教えるのみで、戦争の一因が日本の他国侵略であることについては言及されない。この教育のひずみが、戦後の日本を担ってきた人々に浸透して右傾化を助長しているのであろう。これが近隣諸国といまだに紛争が絶えない最大の原因であろう。これは、グローバル化の一途をたどる国際社会の一員として諸外国と協調して生きてゆくうえでの大きな障害となっている。ドイツの対応を見習って、過去をしっかり正しく理解し、それを踏まえて国の運営をしていくことが大切である。戦後に育った人々にドイツ国民のような歴史観が醸成されていないことが最大の問題なのである。戦前の日本を肯定し右傾化する政治家の台頭は許されるべきではない。
22年6月ミニトーク 永野 俊
(1)核シェルター
スイスの100%以上を筆頭に先進国は軒並み数十%の国民を収容できるシェルターを備えている。しかし日本ではわずか0.02%の国民しか収容できないという。日本は国民を守る政府の意識が全く欠如しているといわざるを得ない。第二次大戦での実例があるが、日本政府には国民の生命を守るという考えは全くないと言ってよい。なお各国のこれらのシェルターは平時は地下繁華街や劇場などの施設として利用している、という。シェルターは受け身の防御で、核の保持が必要であるという考えもあるが、シェルターの完備は核攻撃抑止の有効な手段であると考えてよい。核攻撃を受けても被害を少なくできるからである。国民の命が保証されることは何よりも大切であると同時に、被害差少ないことは再手に核攻撃の効果を減少出来、相手の核攻撃を思いとどまらせることが出来るからである。
5月3日BSテレ東プラス9での石破茂のコメントより。
(2)高速増殖炉‘もんじゅ’の核エネルギーサイクルはエネルギー保存則(註)に反する??
原子力発電ではウランを使って核分裂を起こし、その際に出るエネルギーを使って発電する。ウランは核分裂しやすいウラン235と分裂しにくいウラン238がある。ウラン235が中性子を吸収すると核分裂反応が起こり熱エネルギーと新たな中性子を放出する。核爆弾ではこの反応が一気な起こり破壊的な熱エネルギーを放出するが、原発ではこの反応をコントロールして一定の量にとどめて適切な熱エネルギーを連続的に取り出すことによって発電が可能となる。
高速増殖炉とはウランに高速中性子を当ててウラン238からプルトニウムという核分裂を起こしやすい物質を生成する。この時のプルトニウムの生成量がウラン235の核分裂で生成されるプルトニウムより多いことから、高速増殖炉はエネルギーを増幅できるといわれる。これはエネルギー保存則に反すると誤解されるが、このプロセスでウラン238を消費しているので、エネルギー保存則に反しているわけではない。
高速増殖炉「もんじゅ」における核燃料サイクルでは消費した以上のプルトニウムが生成されるといわれ、あたかもエネルギー保存則を超えた夢のシステムのように言われるが、これは完全な誤報である。関係者がこのプロジェクトの継続を図るために、このような誤解を招く文言を広めているのである。
(註)エネルギーがある形態から他の形態に変換される場合、エネルギーの総量は不変に保たれるという物理学の基本法則
(3)AIは人間を超えられるか?
近年AIは驚異的な発展を遂げているが、その限界について識者たちは次のように言う。人間は九識(仏教用語)といわれる機能を持つが、そのうち視聴味嗅触の五識(いわゆる5感の機能)においては機械は人間を超えられる。しかし仏教に言うところの人間の九識のすべてを越えることは出来ないであろう。残る四識は意識や意思にかかわるものでありこれらは人間固有のものである。
現実主義に偏重してはいけない 2022年5月 永野
この世界がどうあるべきなのかという根本的な考え方は大別すれば理想主義と現実主義に別れよう。ご存知の通り理想主義は、こうあるべきであるという理想をベースに現実を考え、現実をその理想に合わせるべきであるという考え方である。一方現実主義とは、社会の現状を追認し、その中でその国あるいは個人の利益などを追求して行く立場である。どちらもあり意味で極端な考え方であるが、やはり平和、人類の共存といった理念をベースにする理想主義が本来の考え方であろう。政治哲学者宇野重規は両者がもっと知恵を出し合って種々の問題を解決して行くことが必要であるという(註)が、あるべき姿を踏まえない問題の解決策は意味を持たない。もちろん現実の諸問題を解決するには妥協が必要であり、理想主義的な解決策が実現されることは困難である。それでも、理想主義を踏まえて問題を検討することが、紆余曲折はあってもよい方向へ進む一歩となるのではないか。要は現実にある問題の解決に当たって踏まえるべきことは、その方向性である。
そういう意味では現在の自由主義国の諸対応もそのようにはなっていない、といえる。一例をあげれば、途上国の貧困問題である。食料についていえば、生産量を増やすために収穫量が多くなる遺伝子組み換え作物を奨励する。しかしそれは現地の土地柄や気候に合わず、問題を悪化させてしまうことがある。アマゾンの原生林開発で大豆などを生産させる施策もその開発が気候変動を起こし結果的に国土のバランスが崩れ洪水などが起こり、諸農業や生活の諸側面に悪影響を及ぼす。工業製品の途上国現地生産も労働条件の悪さで現地の人々を圧迫していることもよく知られている。これらは先進諸国が自国の利益のみに関心があり、現地の人々の生活向上に目が行っていないことから起こる。すなわち自国の経済的利益をのみ目標とし、現地の人々の生活向上を考慮していないことによる。
人間は一人では生きられない。世界に多くの人々がいて、それぞれ関係を持ち助け合いながら生きていかないと平和な世界は訪れない。力を持つ国々はその力に奢ることなく他国のことも考えながら国を運営していかないと、結局自らへの悪影響を被るのである。
現実が理想通りには行かないことは当然であるが、だからと言って現状追認を続けていては、世界で起こる諸問題の本質的な解決はできない。理想主義は青臭いとよく言われるが、その青臭さを捨ててしまったら世界は決して良い方向には向かわないと思われる。これまでの世界の歴史を見ても、現状追認主義では多くの問題を解決できないと人々が考えて革命が起こり変革が実現されたのである。理想を頭に入れて、現実問題の解を模索することこそが今こそ求められているのである。
余談ではあるが日本は現状追認形の現実主義が蔓延しているのではなかろうか。
なお、共産主義も一つの理想主義であるが、これは人間が本性として持つ我欲や権力欲をコントロールできず、国民全体が満たされるような社会を実現できないという意味で非現実的であることはソ連の崩壊で実証されている。
(註)宇野重規、理想市議と現実主義、’22年4月17日、東京新聞朝刊
権力は腐敗する 2022年5月 永野
この言葉は19世紀イギリスの歴史家・思想家・政治家であったジョン・アクトンの「権力は腐敗する。絶対的な権力は全体的に腐敗する。」からの引用である。その実例は枚挙にいとまがないが、ここでは安倍信三元総理についてその事実を見てみよう。有名な‘モリ・カケ・サクラ’といわれる権力乱用不祥事以外にも安倍氏とその周辺は種々の不正な政治的行動を行っている。いかに列記してみよう。
米国との軍事協定を強力にする安保関連法制制定(2015)で、事前(2014)に制服組のトップである統合幕僚長が米陸軍の参謀総長と会談し、その進捗状況を報告している。これは日本国憲法に基づく文民統制をないがしろにする大問題である。当初政府はこの会談録は存在しないとしていたが、2017年国側はその存在を認めた。首相たちは国会で虚偽答弁をしたわけだが、これが問題化されていない。その裏で防衛省内ではある省員を漏洩犯人とみなして過酷な聴取がなされている。(漏洩の確たる証拠はみつからなかった。)これは文書が存在しないという答弁と矛盾している。また、安倍はその数か月後に米議会での演説でこの法案の成立を約束している。法案が国会審議を経ていない段階なのでこれは暴挙である。
安保関連法制に関しては、安倍は日本が米国の戦争に巻き込まれることはない、日米安保改定時にもその批判があったが、実際はそうなっていない、と言っているがこれも虚偽答弁である。安保改定後のベトナム戦争で米軍は沖縄基地から飛び立った軍用機により枯葉剤などがまかれ、多くのベトナム人を殺傷している。死者だけで200万人超である。日本は明確に米国の戦争に加担しているのである。安倍は首相として国会で118回もの虚偽答弁そしている。その都度謝罪はするが責任は取らない。この政治家に7年数か月も国の政治を託した日本人は何を考えていたのであろうか。完全に平和ボケしていたと考えるしかないであろう。
検事総長人事の件も安倍一強によるゴリ押しの良い例であろう。政権が自分たちに都合のいいように動くと判断した黒川東京高検検事長を検事総長に着けることで、政権に不利な種々のことをうまく処理しようとしたことである。結果は各方面の反発と当人の不祥事(賭けマージャン)で不首尾に終わったのであるが、このような不条理なことを政権が試みること自体が大問題なのである。しかしこれも政権トップには何らおとがめはない。
安倍首相の下で官邸が一強となり官僚人事を握ることにより、忖度の上手な官僚がはびこり、組織の腐敗が蔓延する。かつての金が飛び交う腐敗ではなく、もっと構造的で陰湿な腐敗が醸成されているのが実情である。もちろんそこには金銭的な問題も絡むが、それよりも陰湿は思想支配(歴史修正主義など)や良識の軽視(憲法・法律を踏まえないなど)が起こる。特定機密保護法、安保法制、共謀罪、改憲などへの蠢きなどがその例であろう。要は戦前との決別がうまくできず、戦前の思想を引きずる動きを消去できていないことが問題なのである。
参考:青木理、情報隠蔽国家、河出文庫
22年5月ミニトーク 永野 俊
(1)老化を防ぐには
生き物の体内にあるサーチュイン遺伝子は長寿遺伝子あるいは抗老化遺伝子と呼ばれ、それを活性化することにより寿命が延びる、といわれる。この遺伝子はカロリー制限で活性化される。この遺伝子は単細胞からヒトまで多くの生き物が持っているが、その長寿への効果はヒトなどの高等動物ではまだ確定されていない。しかしサルなどで食事制限をすると長寿になることが確認されており、これはカロリー制限でサーチュイン遺伝子が活性化したこととの関連があるのではないかと考えられている。昔から「腹八分目に病なし(医者いらず)」とよく言われるが、この諺は当を得ていると言える。
上記のサルの食事制限実験では通常の食糧の70%しか与えなかった、というからサルでは八分目ではなく七分目ぐらいの量を食べると効果が出るらしい。まあ、人間の場合、食べすぎは体に良くない、くらいの定性的な解釈をしておけばよいのではなかろうか。
なお、サーチュイン遺伝子は赤ワインに含まれる物質でも活性化されるが、日常赤ワインを飲む程度では量的に全く不十分で、これを長寿の要因と考えるのは非現実的である。
(2)ネット中毒は麻薬と同じ
ネットでゲームなどに熱中して依存症になることと、麻薬を常用して依存症になることとは全く同じである。依存症になるという現象だけでなく病理学的にも全く同じことであり、その脳に与える害も同一であるという。両方とも脳の快感を感じる部位(註)を過剰に使い、疲労によるその部分の機能低下を招く。それでも快感を求めて、ますます強い刺激を求めるようになる。結果として完全な依存症に陥ってその部位を損なってしまうのである。
(註)脳の機能と構造について簡単な説明をしておく(ご存知の方は読み飛ばしてください
)。脳はその部位(場所)によって担当する機能が違う。例えば見る機能は脳の後頭部にある‘視覚野’が担当し、考える機能は前頭部の‘前頭前野’が担当する、というように・・。
(3)生物に学ぶ
近代は人間の独創的な発想で種々の物質やエネルギーなどが作り出されてきた。それは人類の生活の向上に多くの恩恵をもたらした。しかしすべてが人間の独創的発想で考え出されたものというわけではなく、生物が持つ仕組みに学んで開発されたものも多い。
例を2,3あげておこう。昆虫が羽をたたむための折り方の仕組みを参考にして人工衛星が太陽電池の板を宇宙空間で開く仕組みを開発した。虫の休眠は細胞の活動を止める物質の作用によることからヒントを得て、この物質をヒトのがん細胞に作用させてがん細胞を休眠させ、その増殖を止めることに適用した。この薬品はオプジーボなどの高価な薬品に比べ、安価に作れるので医療費の削減に貢献できる。トンボの羽には細かい縞があり、これが微少な風でも推進力を生じるという。これを風力発電機の羽に利用し、微少な風でも羽が回転し効率よく電力を得ることができる。などなど多くの例がある。
また生物の直接的な利用は枚挙にいとまがない。日本の絹はその典型的な例であるが、アジアの南方の国々にある種の蛾は金色のまゆを作る。これで金糸がとれるという。
長寿の要因は?! 2022年2月 永野
一般に生き物はその大きさに依存して寿命が決まるといわれる。大きいほど長寿である。例えばマウス(ハツカネズミ)は体重10~25gで寿命1~2年であるのに対して、象は体重5~7トンで寿命は数十年である。もちろん比例関係ではなく傾向でありばらつきもある。また例外も数多くある。
例外の典型的な例が人間で、象の約100分の一の体重にもかかわらず、ほぼ同程度の寿命を持つ。また、ハダカデバネズミは十数~数十gの体重で数年~20年以上生きる。長寿で知られるコウモリは体重数g~数十gの小型のもので寿命は約3~5年、オオコウモリでは体重300~500g、寿命十数年である。これらの動物が長寿である理由の研究が進められているが、どうやらそれぞれ異なる理由にもよるらしい。
人間の場合は現代では体重から推定される寿命の4倍は生きる。この理由は何といっても医療科学技術の進歩と食糧・居住環境などの改善であろう。自然の中で生きた古代人の寿命は十数年である。人間が自らの能力で寿命を延ばしたということであろう。
ハダカデバネズミは10g程度~数十gの少ない体重ながら十数年~20年以上生きるといわれる。なぜ長生きなのかということはまだ十分にはわかっていない。ただし、彼らは変温動物(註1)であり、低温ではほとんど動かず、エネルギー消費は極めて少ない。体の諸機能が停止しているのであるから、老化は進まないのであろう。それ以外にも老化耐性の要因があるのであろうがこれは現在研究進行中であるらしい。
コウモリは体重からの推定の4倍以上も生きる。40年以上生きた例もある。中でも小型のコウモリ(数センチ)が長生きであるらしい。寒冷地に住む種類は冬眠するが、これらは温暖地に住む冬眠しない種類のコウモリより長生きであるという。冬眠中は体温が低下し、体全体が休憩状態なのだから、老化の進行も少なく長生きするという。またその食性も長寿に関係するらしく植物を食するコウモリは肉食のものよりも長寿である。餌を取るに要する運動量が関係するといわれる。また、染色体(註2)の両端にありその長さが寿命の尺度になるテロメア(註3)という部分がコウモリでは年齢を重ねても短くならないという。
長寿動物は老化、病気などせずに一生を全うするものが多いらしい。長寿に関する知見がもっと蓄積すれば人間の長寿実現のメカニズムも解明出来るかもしれない。人間については現段階では、規則的に睡眠を十分とり、過食・過飲を避けて体を休ませることぐらいであろうか。カロリー制限が長寿に関係することは人間でも明らかにされている。
(註1)最近の研究によれば変温動物と恒温動物の2種類に分類するのは間違いでその中間状態で生きる動物があるという説が正しい。
(註2)遺伝情報を持つDNAが折りたたまれた組織体で細胞の核の中にある。
(註3)通常の動物では年齢を重ねるごとにテロメアは短くなり、やがてなくなるとその細胞は再生不可能になり死に至る。人間のテロメアは細胞分裂約70回で尽き、細胞分裂機能を喪失する。これが老化の因となる。
生き物はなぜ死ぬのか 2022年3月 永野
我々人間は長生きについては興味があり、その要因についての研究は数多くなされている。また長生きを妨げる多くの病気についても大きな関心があり様々な研究がなされている。しかし人間をはじめとする生物の死の本質的な要因とその意義についてはあまり関心がもたれていない。宗教的な話は別として、生物がなぜ死ぬかについての科学的議論や研究はあまり多くないのである。どんな生物であっても死は必ず訪れる。人間も生物であるからこの鉄則から逃れることはできない。ここではこの鉄則がどうして起こり、どんな意味を持つのかを素人なりに解説しておこう。
そのためにはまずこの地球上に生物が誕生した経緯について知っておく必要がある。宇宙は138億年前にビッグバンによって誕生したといわれるが、それ以降46億年前に太陽系が誕生し、地球はその系の一惑星として誕生したといわれる。誕生当時の地球は溶岩が噴出し、強い放射線、紫外線などが存在して種々の化学反応が起こりやすい環境であった。その結果様々な有機物が生産され、それをベースにして偶然に生命が誕生したと考えられている。この生命を持つ最初のものがバクテリアである。生命の基本的な要件(註)である自己複製すなわち子孫を残す機能は遺伝子の受け渡しによってなされる。この受け渡し時には遺伝子にある程度の改変(ランダムな変化あるいは交配による変化)が伴う。これが子が親とは異なった特性を持つことを可能にする。この改変が生物の進化につながる。地球の自然は時間的にも空間的にも変化するから、たまたまその変化に適合した機能を持った子孫が生き残り、増えることとなる。環境の変化に適応できない個体は消滅する。
さて、生物が死する機能はどのようにして獲得されたのであろうか。これもまた遺伝子のランダムな変化よる。もし生物が死する機能を持っていなかったらどうなるであろうか。その生物種は増殖を続け、個体数は増加の一途をたどる。それは資源が有限なこの地球上でこの生物種が存続できない決定的な要因となる。生物種が存続して行くためにはその生物種の個体の遺伝子に死の機能が組み込まれ、自然に適合したほど良い数の個体が存続することが必要なのである。繰り返すが死の機能もまた遺伝子の受け渡し時にランダムに生じた変化によりもたらされたものである。なお、死の機能を持たず、かつ子孫を残す機能も持たない生物が誕生する場合もあり得たと考えられるが、これは地球上で起こる様々な自然変動や天敵の存在などによりやはり長期の存続はできない。死と自己複製の両方が備わった生物種だけが長期にわたって存続できるのである。この意味では科学技術を発展させ人口増加を続ける人類は地球上での生存は長くは続かないかもしれない。
生物全般について言えることであるが、親は子孫を残したら子より早く死ぬべく進化の過程でプログラムされている。それがあるからこそ生物はこの地球上で種として生きながらえることが出来るのである。
(註)生命って何だろう?:月報2018年12月永野のホームページhttp://t-nagano.net/
参考:小林武彦、生物はなぜ死ぬのか、講談社現代新書、2021年4月
’22年4月ミニトーク 永野
(1)地蔵の意味
江戸時代の初期に生きた円空(今月の別稿参照)という僧侶・仏師の研究者研究者に長谷川公茂という学者がいる。彼は昔から田舎の道端にたたずむ地蔵について独特の見解を持っている。地蔵の持つ意味は、地面の中にはお蔵のようにいろいろな宝物があるということである、という。地面は人が立ち、歩く場を提供する。また人々に作物を栽培する場所を提供し、その生活を支える。自然の美観を与え、生物を育み、微生物の住処で生命のサイクルを実現する場所である、という。今度道端に地蔵があったらば、敬意を表して手を合わせ拝むことを心掛けたい、と思っている。
(2)一流学者も時々変なことを言う
国分功一郎(哲学者)と大沢真幸(社会学者)という東西の一流識者の対談があった。アフガニスタンの混乱に対する議論の中で大沢さんは、アフガニスタンにおける中村哲さんの仕事は立派だが、これは彼でなくてもできたという。中村さんはアフガニスタンに溶けこんだ中であの仕事を成し遂げられたのだから、もともとアフガニスタンに住んでいるアフガニスタン人にもそれはできたはずだ、という論旨である。国分さんも彼の意見に賛同していたが、小生はこの意見には少なからず疑問をもった。やはり中村さんだからできたのではないかと思う。決してアフガニスタンの人々が劣っているということではなく、彼らには中村さんのような考え方で行動できるだけの余裕がなかった、ということである。アフガニスタンは貧しく、戦闘も日常茶飯である(註)。‘貧すれば鈍す’という諺があるが、アフガニスタンのこのような状況では先を見通した深い思考はできなかったのではないかと思う。
(註)永野、タリバンのアフガニスタン支配、本コラム21年9月号。なお、アフガニスタンをタリバンが統治していたころ(2001年の貿易センタービルの飛行機突入事件のころ)、同国の民はその統治に満足していたという。厳しい管理で市民の安全が保たれたから。
(3)高速増殖炉‘もんじゅ‘は税金の無駄使い
もんじゅは2016年に原子力関係閣僚会議で廃止が決定された。廃止計画では30年後に廃止作業完了予定である。しかし政府や原子力発電関係者は高速炉(増殖機能なし)開発を進める意図は変わらず、引き続き核燃料の効率的利用の実用化研究を進めるという。
もんじゅは1985年に着工し今まで一兆円の税金が投入されている。もんじゅは夢の原子炉といわれ、原子力発電による核廃棄物の再利用、その害の削減などの利点が謳われていた。しかし現時点でこのどれもが実現できていない。アメリカなどの原子力先進国では1940年代から発電用に高速増殖炉開発を進めていた。だが経済性、危険性などの問題から90年代までに撤退している。先進各国は再生可能(自然)エネルギー利用に方向転換したが、後発の日本だけがこの原子炉の実現を目指し続けた。その施設維持費は5500万円/日もかかる。
原子力先進国がすべて高速炉を断念しているのに、なぜ日本はやめないのか。日本では一度掲げた政策はやめにくいという悪しき政治的風土がある。利益を得ていた原子力事業関係者の画策もある。悪しき風習を絶ち、国民の血税をもっと有効に使ってほしいものだ。
仏師‘円空’ 2022年3月 永野
仏教や仏像に多少なりとも興味のある方なら円空という修行僧・仏師(註1)を御存知であろう。鉈(ナタ)一本での粗削りな木彫の仏像を数多く世に残した僧である。その仏像は「円空仏」と呼ばれ多くの人々に親しまれている。像はどれも何とも言われぬ笑みをたたえ、見る人に心の安らぎを与える。仏の教えについてはよく理解していなくても、この像を見るだけでその心の深さに抱かれているような安どに浸れるのである。まさに百聞は一見に如かず、である。まだご覧になっていない方は一度見てみられることをお勧めする。
円空は江戸時代前半に生きた人で、生まれは今の岐阜県あたりであるといわれ、20代後半に出家し、修行僧として諸国を行脚している。その行程は主に生地から東・北の各地、北海道にまで及んでいる。行脚の過程では岩穴に寝泊まりし、あるいは民家の施しで寝泊まりする場所を得ていたと考えられる。その際、世話になった人々にお礼の意味で仏像を彫って残した。現在発見されているものだけでも5300体以上あるという。推定であるが、生涯に12万体は掘ったであろうといわれている。
村々に残された仏像の多くは貴重なものとして大切に保存されてきたと考えられる。村人が病を得た時には、仏像の持ち主は仏像を病人の家に貸し出し、病回復の祈願に役立てられたという。病人は円空の仏像のほほえみに癒されて病が治癒することもあったのではないかと思われる。
円空の仏像は鉈の一刀彫の粗削りで野性味あふれるところが特徴であるといわれているが、実際は彫刻刀などで丹念に彫られたものも多いといわれる。いずれにしろ、どこでも手に入る木材を利用し、持ち合わせの鉈などの道具で像を彫り、人々との交流を図りながら修行を続けたユニークな行脚僧であったらしい。その心の奥にはやはり仏の教えを人々に伝えたいという熱意があったのであろう。仏教には「無財の七施」(註2)という教えがある。財がなくて金銭的なお布施が出来なくてもいつでもだれでも実行できるお布施のことで、円空の仏像はそのような意味で作られたものと解釈してよいであろう。
(註1)仏像を作る工匠
(註2)無財の七施とは具体的には以下に示す七つの事柄である。この七施は、人間の心の中に巣食う「とらわれ」や「むさぼり」などの毒を捨て去るための修行の土台となる教えである、という。
①眼施:相手をおもう心を伝える優しい眼差しで人に接する。
②和眼悦色施:にこやかな顔で人に接する。いつも笑顔でいれば周りの雰囲気も和む。
③言辞施:優しい言葉で人に接する。こんにちは、ありがとう、などが良い例である。
④身施: 体でできる人への奉仕。体が不自由な人や重い荷物を持つ人などの手助け。
⑤心施:他人の心を慮って、心配りや思いやりを常に心がけること。
⑥床座施:席を譲ることを意味するが、真意は常に譲り合いの心を持つことを意味する。
⑦房舎施:来客をもてなす、休憩所、宿などを提供して人に寄り添うこと。
日本人の良き特性 2022年1月 永野
中国の三国時代(3世紀、魏・呉・蜀が鼎立した時代)日本は魏と交流があった。魏で書かれた魏志倭人伝に日本人の特性が列記されている。それによれば日本人は風俗に乱れがない、盗みはしない、争いごとは少ない、の3点が特徴であるという。当時の魏の国ではこのようなことはよく見られたのであろう。そのほか会合では父子・男女の別なしとも書かれている。父子は長幼の意である。のちの聖徳太子の憲法にも、和をもって尊しとなす、ということが規定されているように日本人は差別なく共に生きるための常識的な振舞いが当時からあった、と考えられる。
また、これらの特徴は戦国時代の16世紀中ごろにキリスト教布教のために来日して2年間滞在したフランシスコ・ザビエルの書にも記されている。さらにそれより約300年後の幕末さらには明治期に来日したヨーロッパ人たちも同じような印象を書き残している。これらの記録を踏まえれば日本人は世界的に見ても極めて優れた特性を備えた民族であり、その特性は長期にわたって維持されてきたと言えよう。
とはいえ日本には石川五右衛門(安土桃山時代)や鼠小僧治郎吉(江戸時代後期)のような大盗賊がいたことも確かである。しかしこの二人とも義賊であり、盗みの対象は権力者であった。特に鼠小僧は盗んだ金品は貧しい人々に与えていたというから、手段は盗みであっても、その動機は責められるものではない。
ところで、7~8世紀に編纂された万葉集(我が国最古の詩集)では天皇,皇族、豪族などの身分の高い人たちの歌だけではなく、下級役人、農民、防人などの一般庶民が詠んだ歌も数多く採録されている。これは歌は身分に関係なく多くの人々によって詠まれ、その評価には身分などは関係しなかったことを表している。中には遊女や芸人などの最下層の人々の歌や当時の政権批判と解釈できるもあるという。歌においては、すべての人が平等であるという考えをだれもが持っていたということであろう。これも日本人の心の豊かさ・大きさを表すものとして特筆されるべきものであろう。
日本にも中国の制度にならった身分制度というものは存在した。大きくは良民と賤民に分けられていた。良民は皇族・貴族・公民・雑色に分けられており、賤民は奴隷的な存在で所有者に売買される身分であった。しかしその身分は固定化されたものではなく、年齢や所有者判断などで良民になることが出来た。このように日本の身分制度は中国や欧州などの諸外国に比べると厳格ではなく、いわゆる人権無視の奴隷制度ではなかった、といわれる。また江戸時代には武士を頂点とする‘士農工商’という身分制度があったが、実際は士と農工商に2分される。しかもこの区分けも厳格なものではなかった。町人が武家の養子になるなどして武士になったり、下級武士が農業や商いを生業として生活を維持することも珍しいことではなかった。このようなことから古来日本社会では人を身分で厳格に差別する風習は弱く、人を平等に扱う良い考えが浸透していたと考えられる。
さて、今の日本では大昔からあるこの良さが失われつつあるのではなかろうか。
22年3月ミニトーク 永野 俊
(1)聞く力には2つある。
日本の現首相岸田文雄氏は自民党総裁選で自らの長所として、‘人の言うことを聞く力’を持っていることであると言って自らを売り込んだ。確かに元首相の安倍氏や前首相の菅氏に欠けていた点であるから、自らの宣伝文句としては有効なものであったと思う。
ところで、聞く力には以下に記す2つのものがあるといわれる。
1.相手の言い分に耳を傾けその意を理解する力。
2.相手の言い分を聞き、時にはその真意を問いただして、相手に適切な答弁や自らの具体的な考えを述べる力。
国会での岸田首相の答弁を聞いていると、1.の能力はあるようだが、2.の能力には欠けていると言わざるを得ない。国民が求めている‘聞く力’とは2.の意味での能力だと思うのだが・・・。
(2)無いものはない
以前(数年前)にもこのコラムで紹介したと思うが、これは島根県隠岐郡海士町の町おこしの標語である。この言葉は2つの意味を持つ。一つは、この町は人々が生活するうえで欠かせないものはすべて賄える、という意味である。すべては自治体と住人が努力と工夫を重ねて自らの手で作り出す、ということで、地域の人々の生活への前向きな取り組みを促すことである。もちろん精神面での激励の意味も含まれている。一例をあげれば、鳥取県にはスタバがなかった。土地の人はスタバを‘スナバ(砂丘)’と言い換えてスナバコーヒー店を開き繁盛させた。今では県内に十数店あるという。
二つ目は、ないものねだりはしない、という意味である。大都会にある豪華な居住環境やぜいたく品などはなくても、自然環境になかでゆったりとした生活を楽しめればそれで充分である、という意味である。今世界中で文明による自然破壊が問題視されているが、人々がこの精神を共有できればこの問題も解決されよう。
(3)ユダヤ人への迫害
ユダヤ人への迫害は大昔から行われているが、なぜ彼らは迫害を受けてきたのか。紀元1世紀ごろユダヤ人(旧約聖書を経典とするユダヤ教を信奉する人々)はローマ帝国の属領地域に暮らしていたが、ローマとの戦いを起こし、それに敗れてユダヤ民族は世界各地へと散らばっていった。これが現在各国にいるユダヤ人の先祖である。各国にはそれぞれ元々別の人種が暮らしていた。人間は自分たちと違う人種には寛容ではないので、これらの国々でユダヤ人はよそ者として差別の対象となった。この典型的な例がホロコーストであるが、これはドイツの領域に暮らしていたアーリア人種が自分たちは優れた人種でそれ以外の人種は劣った人種であると考えていたことに起因する。であるからドイツではユダヤ人以外の多人種も迫害の対象になっていたが、ユダヤ人は自分たちの国土を持っていないのでより迫害の影響を強く受けたと考えられる。現代では各国に散在しているユダヤ民族が優れた科学者や政治家などを輩出しており、世界の発展に貢献していることは周知のことである。
ちょっといい話 2022年2月 永野
日本のある神父さんはポル・ポトの圧政などで政情不安定なカンボジアでキリスト教の布教をしていた。それと同時に難民支援も手掛け、若者の支援を行っていた。彼らのうち何人かを日本に連れ帰り支援をしていたが、ある時その一人がアパートに引きこもり状態になってしまった。部屋を訪れ事情を聞くと、当時(‘70年代末頃)隣国ベトナムとの軋轢があったカンボジアで、彼はベトナム兵を暗殺してしまった経歴を持つ。その過去を償おうにも償えないのが彼の悩みであり、償いのために自分を殺してくれと神父に頼んだ。神父はどう対応したか。彼は「君が死ぬことによって罪は償えるものではない。死んだ兵士が生きていたならば成しえたであろう‘良いこと’を君が生き続けて成し遂げることが罪を償える唯一のことである」と説いてその若者を生き続けさせた。
さて、この若者は何をして罪を償おうとしたのか。神父はなすべき良いことについても彼を導いた。それは神父とともに、カンボジアの崩壊してしまった学校教育を立ち直らせることであった。最初はバラック小屋での一校から始められ、ポル・ポト政権の崩壊にも助けられて、その後19校にまで発展し、カンボジアの子供の教育向上に大きく貢献した、という。神父の言葉が的を射ている。いい話である。
さて、この話をもう少し一般化させて考えてみよう。我々の多くは若いころは短慮で自己主張を前面に出すことが多く、周囲に軋轢を振りまき、迷惑をかけながら生きて来たのではなかろうか。年を重ねるとその反省で心が重くなることが多いのであるが、その悩みの解決は‘恩送り’の心を持つことであると思う。恩送りとは文字通り、自分が受けた恩を後世に送り伝えることである。至らぬところが多い若者を温かく導いてくれた先輩や同僚に直接恩返しをするのは難しいが、後世の人々の役に立つことをすることによって、その恩に報いることはできよう。カンボジアの若者の行為はこのような一般論の中の一例としてみることが出来るのではなかろうか。
余談であるが、この神父は後藤文雄という名の著名な方で現在92歳の高齢である。僧侶の家に生まれたが、キリスト教の信者となり、布教に努めたという特異な経歴の持ち主である。現役は引退しておられるが、東京吉祥寺で補助司祭として今も活動しておられる。彼はユーモアのセンスを持ち合わせた面白い方で、司祭60年のお祝いの席で良寛の俳句(註)をもじって、「裏を見せ、裏を見せつつ散る紅葉」という言葉で司祭引退の心境を言い表した。高齢であの世へ旅立つ時も近いのであろうが、旅立つ時も現世の仕事などをあれこれ考えて悟りきれない身で逝くであろう愚かな自分である、という自嘲的な言葉を語って来賓の人々の心を和ませた、という。 参考;2月5日NHK Eテレ‘こころの時代’
(註)裏を見せ表を見せて散る紅葉
良寛は世渡り下手で世間の人々とはうまく交流できなかったらしい。人は悪い面もよい面もさらけ出して生き、そして逝くものだという意味であろう。周囲に迷惑をかけながら生きてきたが、その償いを済ませて逝きたい、という意味もあるのではないかとも思う。
民主主義再考 2022年2月 永野
我が国では英国に倣い、代表制民主主義に基づいて政治が行われている。良い制度であると思うが、近年次第にその欠点も露見されつつある。一例をあげれば昨年行われた東京オリンピックがある。昨年7月の世論調査では開催反対が過半数を占め、政府の「安全、安心の大会」という喧伝には約70%の人が‘そうは思えない’という意見であった。それでも政府は首相が安心・安全という根拠のない呪文を唱えるだけの中でこれを強行した。結果は第5波のピークの中での開催となってしまった。政府の面子と経済的な理由から強行したのであろうが、国民の大多数の意見を無視して強行できる今の政治制度には大きな問題があると言える。2011年の福島の原発事故後の原発維持などもその例の一つであろう。また、自民党の総裁選でも、一部の有力政治家の勝手な思惑だけで次の総裁が決まってしまった。
この問題は今の日本の政治制度が持つ本質的な欠陥であろう。国会議員も地方議員も数年に一度の選挙で選ばれ、政治の全権を住民から委託される。彼らは選挙では局所的で短期的な視点での政策を打ち出して自らを宣伝することが多い。住民も身近な問題への関心が強いから、そのような演説を受け入れ、賛同して投票する。これでは長期的な問題に対する施策は議論の対象とはならず、現状の成り行きを長期的な視点から考え直し、流れを大きく変えることはできない。したがって気候変動、環境保護のような広域的で長期的な問題は解決の見通しがいつまでたっても得られない。この問題は我々の短期的で近視眼的な思考と行動の積み重ねで生じる一面もある。選ばれた議員たちと住民の双方が長期的な視点でものを考え行動しなければ、問題の解決はできない。しかもその短期的な考えから生じる弊害は、それが多くの人々に実感されるようになってからでは解決することができない問題なのである。あたかも忍び寄ってくる満ち潮によって溺れてしまうかのように・・・。
ではどうすればよいのか。第一に考えられるのは学校教育であろう。現在青・壮年期以降にある人々には気候・環境問題は直接自分たちの生活には関係が薄いから、この問題を自分事として考え難い。したがってこれから社会を担う世代にその問題の重要性を教え、彼らが大人になってから、そのような未来の問題を重視する政治的かつ社会的活動をし、それを重視する政治家を選んで社会を変えてゆくことが考えられる。
しかし、そんな悠長なことでは間に合わない、環境問題・気候変動問題は今すぐ流れを変える行動をしないと間に合わないという識者も多い。おそらく正論であろう。そのためには現在の大人たちが動かなければならない。大人たちの中にもこのことをよく理解している人は少なくであろう。 NPOのような形でローカルには各所で問題が取り上げられているが、それが全体としてまとまって大きな流れを作ることが出来ていない。これを実現させるには、やはり住民投票や国民投票でこのような見識のある住民の意見を吸い上げ、まとまった提言の形にして政府に実行を強いることをもっと容易にできるようにする必要があるのではなかろうか。そのような制度を実現させ、代表制民主主義に直接民主主義的な要素を加えて、民主主義そのものの形を改善して行く必要があるのではなかろうか。
2022年2月ミニトーク 永野
(1)
中国の‘共同富裕’政策
今月の別稿「続・サンデル教授白熱教室」で、習近平総書記が国民の貧富格差是正のために共同富裕政策を打ち出して、国民に高く評価されているという話をした。しかしこの政策は21世紀初期に習近平と中国トップの座を争った薄熙来(失脚)が自分の支配地域である重慶地区で実施し、低所得層への住宅供与や外資導入による地域経済振興などを実現したものである。習氏は自から考え出した施策ではないのに、自分の政策であると主張する。民に益する施策であれば、だれが提案したかは二の次であるが、自身の評価を高めるためのこの行為には疑問が残る。このようなことは政治の世界ではよくあることであると思われるが。メディアを支配してその情報を封印していることが中国の強い独裁政治性を表している、と言えよう。
(2)リーダーの要件
コロナ禍は人々にいろいろな苦難をもたらしたが、オンライン活用の普及は副次的にもたらされた良いことであろう。先日池上彰のオンライン講演を聞いて学んだことを一つ紹介しておこう。アリストテレスが言うリーダーとしての要件はロゴス(論理)、エトス(倫理)、パトス(共感)の3つを備えることであるという。ロゴスは筋の通った見解、エトスはその人の倫理性、パトスは共感する能力である。エトスとパトスはあまり気づかれないが重要であると思えた。公正さと正直さ(エトス)と寄り添いの心(パトス)がないと人々に受け入れられない。リーダーとは牽引車ではなく、まとめ役、寄り添い役である、という。
(3)政治屋と政治家
政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の世代を考える、とある議員(自民党三ツ矢憲生、引退を表明)が21年9月7日付朝日新聞で語っていた。その通りだと思う。政策を実現するには政治家でいることが必要であろうから次の選挙を考えることも必要であろうが、今の議員の多くはそればかりに意識が集中しており、自らが本来やるべき仕事については考えていないように思われる。この国の未来の姿に思いを馳せてこそ本当の政治家であろう。このような政治屋が多くのさばっているのが現状であるが、これを改善しようという国民の気概が見えない。これでは政治は良くならないよね。
(4)SDGs→SWGs
いま気候変動などの環境問題の解決策を追求するSDGs(sustainable development goals)という言葉が大流行であるが、個人的にはあまりしっくりこない。developmentという言葉が経済の量的発展を連想させるからである。経済の量的発展には多かれ少なかれ自然資源消耗が欠かせないから、これは地球の持続性(sustainability)とは両立しない。本来は経済活動の量的発展ではなく、経済活動を定常的で持続可能なものに移行させるという意味の発展なのであろうと思われるが、この意図が人々に伝わりにくいと思う。人々が地球の自然を守りながら経済を回して行き、地球と人類をともに持続させるという意味ではsustainable world goals(SWGs)という言葉のほうが適切ではなかろうか。
続・サンデル教授白熱教室 2022年1月 永野
今年の正月番組にサンデル先生(ハーバード大学教授、政治哲学者)の白熱教室が企画されていた。数か月前にも白熱教室が放映されていて、米中日の学生各6名が討論に参加した。その内容はこのコラム(21年月報9月号)で紹介した。今回は前回にも話題になった教育格差の問題と新たに政府に対するその国の市民の信頼度に関する議論であった。
教育格差については、最近中国が貧富の差によって生じる教育格差(裕福な家庭の子ほど塾や家庭教師などで学力向上の機会が増える)をなくすために、塾や家庭教師を禁止する政策を打ち出したことを問題として取り上げた。この政策の賛否については、中国とアメリカの学生は賛意を示す傾向があるのに対し、日本では反対意見が多かった。これは米中両国では格差が大きく日本では相対的に格差の程度が低いことが影響していると考えられる。また学校での宿題の多さも問題とされた。米中両国では宿題の量が日本に比べてかなり多く、それに多大な時間を要し、それに生活のほとんどが費やされることが問題とされた。中国ではこの点も問題があるとされ、政府による宿題禁止がなされているという。実際朝から夜まで教科学習漬けになっていては若者が心身ともにバランスよく育つことに悪影響がある。特に倫理、道徳など人間のあるべき姿を身に着ける教育がおろそかにされる傾向が出る。また、ともにスポーツや各種クラブ活動などで多くの人々と交流する機会を失うことは健全な人間を育てるうえで障害になろう。
また教育格差はそのまま貧富の格差にもつながる。良い大学→官僚や大企業などの良い仕事→高い収入→子供の教育充実→良い大学というサイクルが固定化し、格差社会が固定化される。塾や家庭教師禁止策はこの弊害をなくすためのものである。これに付随する出来事として当然ながら貧富の差が生じることを解消し、富の再分配をする策として中国は最近‘共同富裕’という政策を打ち出した。具体的には大企業に巨額の支出(資産の強制提供や罰金など)を求めることである。実際多額の利益を得ている企業が多額の寄付を申し出ているという。なお、中国共産党の指導層とその一族はその政策の対象外らしい(ネット情報)。これは大きな問題点であるがメディアもこの点は触れられない。中国の学生はこの政策に賛成であった。この政策は政府が貧富の格差をなくそうと本腰を入れている証拠で政府を信頼していると全員が言う。しかし、党員優遇措置については議論しない。小生の偏見かもしれないが、やはり政府の圧力の影がちらついて見える。米国や日本の学生の多くは自国の政府を信頼していないという。特に日本の学生は信頼していると答えた学生は0である。
中国では最近若者の‘寝そべり主義’が話題になっている。格差固定化により貧者が報われない。これに反発して若者が怠惰を決めこむものだが、中国の学生は社会で相応の働きをするのが国民の務であるという理由からこの運動には賛同しないものが多い。アメリカと日本の学生は、それは個人の自由の範囲だとして許容するものが多かった。
なお、この討論会に出ている学生は3国とも超一流大学の学生で、その中から選ばれたものの意見であることはこの議論の内容判断の際に頭に入れておくべきであろう。
緑の党 2022年1月 永野
ドイツはメルケル引退で、中道左派の社会民主党(SPD)、環境政策重視の緑の党、中道リベラルの自由民主党(FDP)の三党連立政権がスタートした。政策合意までに実に2か月半を要したという。3党の組み合わせを見ると多少左寄りの中道的なニュアンスがあり、合意し易さがうかがえるが、それでも2か月半に及ぶ協議がなされたのであるから、各党が連立前に政権の政策を真剣に検討した証であろう。
この稿ではこの度の選挙で大きく票を伸ばし第3党に躍進した緑の党について少し論じてみよう。この党は前世紀後半に発足した党で、環境保護を前面に出した党であるが、それだけが主張点ではない。環境保護と両立する産業社会の発展、福祉政策の重視、男女平等、教育・知識情報へのアクセスの平等、多文化社会の実現、第三世界との連帯、世界平和のための政策の構築などなど種々の政策を打ち出し、全体としては人間社会の種々の面での公正性の拡充を目指している、と言える。
ドイツの緑の党がいかに地に足の着いた政党であるかを説明しておこう。今回のドイツの新政権では緑の党のベアボック共同党首が外相に就いたが、同党史上最高の得票率を得たのは彼女の働きが大きいといわれる(註)。共同党首という聞きなれない言葉があるが、同党では規約により党首は2人でそのうち少なくとも一人は女性でなければならないということになっている。女性側に政治能力の向上を要求するだけではなく、女性が政治に参加しやすいような枠組みを提供しているのである。現実派と左派が一人ずつ選ばれ、視野の広い党政策の維持を保っているという。このあたりにもドイツ国民がナチスの独裁強権政治を深く反省していることと女性の政治参加を促す姿勢がうかがえる。この共同党首制は他の政党にも広がっているという。このような新しい党制度の導入は緑の党の先見性、懐の深さなどを示すものであり、この党がドイツで確固たる地位を示すようになったことと無縁ではないであろう。またその利点を正しく評価して党を盛り立てたドイツ国民も優れた政治感覚を持っていたということであろう。ドイツの緑の党は観念的な路線を主張するのではなく、党の目指す政策をいかに政権に実現させるか、いうことに主眼を置き、州レベルでは時には保守系の政党とも手を組んで政治を進めることもやってきた。
日本でもドイツに倣って左翼系の政治活動家が80年代前半に緑の党を立ち上げたが、ドイツのように幅広い政策を掲げて組織を発展させる努力を怠り、政治団体として発展することはなかった。環境問題が世界で注目されるようになり、‘緑’ブームに乗って安易な活動をしたに過ぎないと思われる。政治活動家だけではなく日本人の多くが環境問題の重要性を十分認識していなかったことの証でもあろう。国として環境保護、自然との共生の大切さの認識がなく、近視眼的に経済発展を重視したことが原因であると思われる。日本だけでなく世界の多くの国々でも緑の党あるいはそれに類似した名前の党が出現しているが、ドイツのように主要な政党として確固たる地位を築いているものはない。
(註):朝日新聞22年1月9日朝刊3面、‘日曜に想う’
’22年1月ミニトーク 永野
(1)
ドイツの政治
ドイツでは最近名宰相と評価されていたメルケルが引退し、社会民主党のショルツ氏が新首相となった。ドイツは日本と同じ議会制民主主義の国であるが、政治の様相は少々異なる。ドイツは複数政党の連合による政権が多い。多様性を尊重している証であろう。ナチスによる一党独裁の負の遺産を踏まえて、これを避ける仕組みが導入されているといわれる。連合における政策の合意には数か月、時には1年を超える期間が費やされる。それだけ各党が自党の政策に自信を持っているということであろう。議員選出には小選挙区比例代表併用制が採用されている。これは日本の小選挙区比例代表並立制とは異なる。大きな違いは個人名で選ばれる議員と党名で選ばれる議員の比率である。ドイツでは全体の2/3強が党名で選ばれ、日本では2/3弱が個人名で選ばれる。ドイツでは党の政策におもきが置かれていることが表れている。日本は政策よりも個人の人気、地盤などに大きな比重が置かれる。
(2)環境の保全に熱帯雨林はなぜ必要か
最近では地球の自然を人為的に破壊することが人類の生存に悪影響をもたらすことは常識となっており、その抑制が求められている。中でも森林破壊は木々草木の空気浄化機能を失うものとして強く戒められている。森林破壊の代表例はブラジル・アマゾン地域での熱おもきおも帯雨林の開発である。地元民により森林の木々は伐採され、跡地では大豆などの農作物が栽培される。農作物も植物であるから光合成により空気浄化を行う。だから、森林開発は環境破壊にはならないのではないか、と思われるかもしれない。しかしそれは誤りである。農作物に原生林の働きを望むことはできない。原生林の大木は地中深くに根を張り、地下深くの水をくみ上げ、それを木の先端の葉まで運ぶ。木々の葉は空気中に水蒸気を放出するとともに微粒子を放出する。それが核となって水滴を生成し、雨をもたらす。この雨により森林には常時降雨がもたらされ木々を育む。すなわち雨が森を育むのではなく森の木々が雨をもたらす。地下深くの水を大木の枝先まで運びその葉から水蒸気を大気に放出することは畑に植えられた農作物にはできない。熱帯雨林の保護は環境保全には欠かせないのである。
(3)ブレイディみかこ
ブレイディみかこという作家、コメンテーターがいる。 ‘僕はイエローで、ホワイトでちょっとブルー’という本で一躍多くの人々に知られるようになった英国在住の日本人作家である。若いころ単身英国に渡り、人生を切り開いた経験が活躍のベースとなっている。
最近の人気作に‘他者の靴を履く’という著書がある。他者の靴を履くとは、他人の身になって理性的にものを考える、ということである。この内容は以前本コラムに記した‘エンパシー’で紹介した。先日行われた朝日地球会議での彼女に対するインタビューでこれに関してのコメントが印象深かった。彼女は他人の考え理解することは大いに結構であるが、それをやりすぎて自らの考え方を見失ってはいけない。あくまでも自分の靴の感触を忘れてはいけないと。自分の考えはしっかり持っていなければいけないということである。
AIがBIにつながる 20 21年12月 永野
文字遊び的な面白さがある言葉であるが、これが意味するところは人工知能(AI)がベーシックインカム(BI、(註1))を可能にする、ということである。近年AIの発展は目覚ましいものがあり、種々の作業を人間に代わって行うことができるようになっている。これは人間の職業を奪うことにつながり、貧富の差を拡大することにつながる。資本家が生産過程や事務処理などにAIを導入することにより、人件費を節約するからである。結果として資本家はますます豊かになり、労働者は職を奪われて収入が途絶える。近年批判が強まっている資本主義が本来的に持つ悪循環的特性である。
さて、このような資本主義社会が持つ不都合な側面を是正し、貧富の差を解消する方策の一つとして国民全員に一定額(数万円/月規模)を支給するベーシックインカムという制度の導入が話題になっていることはご存知のことと思う。すでに世界の数ヵ所の地域で実験的な支給が行われ、その効果が検討されている。その結果を見る限り、人間の怠惰(註2)を助長するなどの危惧はないようである。自分が働いて収入を増やすことで生活の質の更なる向上が望めるという利点があるからであろう。
この制度の最大の問題点は財源である。AI導入によって得られた莫大な収入の一部をそれに充てるという考えが有力である。しかしそれには資本家に大きな税をかけてこれを徴収しなければならない。これは困難な作業であるが、これを行うのが政治の役割である。社会の不公平を少なくするためにその作業はぜひとも行わなければならない。国の税制を決める政治家には大企業との間に様々な癒着があるといわれる。大企業に有利な種々の法律を決めて、彼らから陰に陽にサポートを受ける仕組みを作ることが出来る。
政治家は往々にして貧者には冷淡である。彼らには最近流行りの自己責任という言葉で対抗し、自助、共助、公助の順で自らの生活を支えてゆくべきである、という。そして最後の安全弁としては生活保護というものが設けられているとして貧しい人々を突き放す。貧者に寄り添うという姿勢は見られない。これでは日本は国民を大切にする福祉の充実した国家であるとは言えない。西欧とくに北欧などの福祉国家を少しは見習ってほしいものである。国家は国民が健全な形で存在することで初めて成立するものであろう。
政府の批判ばかりを述べたが、民主主義国家の一員である日本では、政府は国民が自ら選んだ国会議員をベースに成り立っているのである。したがって大元の責任は国民自らにあるのである。その意味で日本国民は高い政治意識を持っているとは言い難い。投票率の低さなどはその具体的な表れでああろう。
政治家と国民の努力によりAIによるBIの実現が現実のものなることを期待する。
(註1)ベーシックインカム、このコラム2018年7月参照
(註2)共産主義衰退の要因の一つとして人間の怠惰があるといわれている。共産主義は全員の労働の成果を皆が均等に分け合うという趣旨に基づくが、これでは成果に対する個々の貢献の度合いが考慮されず、人々の怠惰を引き起こしてしまうという欠陥がある。
日本は周回遅れ 2021年11月 永野
昭和後半期の日本の経済発展を経験した人の多くは、日本は一等先進国であるといまだに思っているのではなかろうか。しかし現実的には日本は今や完全に二等国に落ち込んでいるというのが実情であろう。家電や自動車などは中国や台湾、韓国などに完全に追い越されているし、産業の転換などでも先進国に後れを取っている。アメリカや西欧諸国はいわゆる工業製品(モノづくり)でアジア諸国がその安い労働力を背景に台頭してくると、いち早く情報通信産業に乗り換えた。GAFAの台頭などがそのことを物語っている。しかし日本はそのような状況に置かれても、旧来の工業製品産業にこだわって、転身を果たせなかった。日本はどうも世界の変遷を先読みすることはもちろんその流れに乗ることも下手なようである。古い話になるが戦争が航空機主体になっているのに相変らず重量級戦艦にこだわって敗戦を招いたこともこの良い例であろう(敗戦自体は良かったのであるが)。
環境・エネルギー問題への取り組みでも同様のことが起こっている。地球上での人間の様々な活動が地球の自然に温暖化、空気や海洋の汚染などの悪影響を及ぼしている。これを改善するために先進諸国が再生可能エネルギーへの移行に積極的であるにもかかわらず日本は相変らず化石燃料と原発頼りで世界の流れに乗り遅れている。太陽光発電技術の開発は日本が先導したが、その利用は中国、スペインなどに先んじられ後れを取った。日本は欧州諸国などに比べれば太陽光、風力、地熱、水力など自然エネルギーに恵まれており、世界有数の自然エネルギー資源大国である。その気になれば世界の先頭を切る再生可能エネルギー大国になっていたはずである。しかし現在日本は再生可能エネルギー発電量は中国、アメリカ、ドイツ、インドに次いで5位に甘んじている。地球温暖化に対する総合的な対策なども京都議定書あたりまでは日本は主要な役割を果たしていたが、それに即した政策の実行は大きく後れ、対応は前向きでない。原発の利用にしても唯一の被爆国であり、また福島原発事故を経験しているにもかかわらず、原発依存の動きを止められていないことは大いに問題である。
環境保全におけるプラごみ問題などが世界で問題視されているが日本は後発的な動きしかできていない。ごみは途上国に受け入れてもらっているのが現状である。医療でもコロナウィルスに対する日本独自のワクチン開発を望む声は大きいが、日本では基礎医学研究の予算を削減したので、日本はそんな能力が育つ環境ではないと専門家はいう。食糧についても自給率は40%を割っており、外国依存が大きく、日本の農家の衰退を止められていない。食料は国民の生命を守る根源的な物資であるから、外国産に頼って日本の食糧産業を衰退させるのは大きなリスクを伴うがそれを是正できていない。政治も国民の関心は低く、政府内の不正(モリ、カケ、さくら、など)をただす機能が働いていない。民主主義を基盤とする他国では政府の失政は厳しくとがめられ政権交代が起きるのに日本にはそれがない。
これらの問題を解決して多くの国民のまともな生活を実現して初めて日本は一等先進国であると言える。今の日本は様々な点で世界の最先端からは完全に周回遅れなのである。
21年12月ミニトーク 永野 俊
(1)社会主義は滅んだ!?
英国にケン・ローチというバリバリの社会主義思想を持つ老映画監督がいる。彼はこの思想に基づいて社会を批判する映画を数多く世に出している。彼は記者会見である無遠慮な記者に「あなたは何故滅びてしまった社会主義思想をベースにした映画を作り続けるのですか」と問われたという。彼は「今までの社会主義は民のためのものではなかった。真の社会主義はこれから始まる。いわゆる労働者自身が会社の運営にも参加できるような参加型社会主義(註)で、これを世界に浸透させることが私の目的である」と。この考え方は現代において賢明な識者たちの多くが賛同の見解を述べている。たとえばその著書‘21世紀の資本’で世界的なブームを巻き起こしたトマ・ピケティや‘人新世の資本論’で世界的に注目されている斎藤幸平などがその代表的人物である。
(註)参加型社会主義の実現方法は?。小生の月報20年11月配信
(2)色川大吉さんにちょっと反論
先ごろ旅立たれた色川大吉さん(歴史家、日本近代史、五日市憲法(註1)発見者)の言葉として次のような主旨の記述が新聞のコラム(朝日、天声人語)にあった。国民の大多数がなぜ、あの無謀な戦争を支持したのか。一人の指導者が引きずったのではなく、民衆が進んで戦争を担い、焦土を招いた、と。色川氏は尊敬する学者の一人であるが、この言については少々批判的なコメントをしたい。
大戦にあたって、戦争に進んで賛成した人は本当に大多数だったのであろうか。当時は帝国主義時代であったから日本が領土を広げ大国になることを願った人はもちろんいたであろうが、家族を兵役に取られ平和な日常生活を奪われることに前向きになれない人々も多かったのではなかろうか。しかし当時は反戦的な言動には日本の指導者たちによる強い取り締まりがあり、反戦などと言えば憲兵に逮捕され投獄されるのが当たり前であったからそのような動きは抑えられた。先の大戦はやはり政権を掌握した軍部が力で主導したものであり、その意味で国民がその責めを負わされるのは誤りであると言いたい。
ただし、先の別稿にも書いたように日本人は周囲の雰囲気に同調しやすい傾向があり、これが災いして大所高所からしっかりした判断ができなくなることがあるということ(石橋湛山氏指摘)はあり、その意味での国民責任はあると思う。このような日本人の性向を揶揄するときによく引き合いに出される小話がある。
客船が難破し乗客が救命ボートに誘導される。このとき優先されるのは女性と子供である。なぜそうされるのかを、イギリス人、ドイツ人、日本人に聞いてみた。イギリス人は‘そうすることが紳士の道だから’、ドイツ人は‘それはルールで決まっていることだから’、日本人は‘皆がそうするから’と答えたという。
(註1)五日市にある土蔵から1968年の発見された民間有志により1881年に起草された憲法案。明治憲法発布(1889年)以前のことである。国民の権利などについて現日本国憲法に近い画期的な内容が含まれており、当時のものとしては高く評価されている。
政治家の手本:石橋湛山 2021年9月 永野
昨今の日本の政治家を見ていると、本当に質の低下を感じずにはいられない。国民無視、憲法の勝手な解釈変更、法律無視、権力の乱用、金銭感覚の汚さ、などなどあげつらえばきりがない。昔から政治家は玉石混淆であったが、今は石ばかりであろう。たまに玉的な人もいるにはいるが、それらの人が日本の政治をけん引することは全くと言っていいほどない。日本の政界は正論が通らない世界なのであろう。
そんな中で唯一といってもいいほどの輝きを持った政治家がいた。石橋湛山である。彼は元々はジャーナリストで東京毎日新聞社に就職し、3年後東洋経済新報社に移り、昭和初期の軍部の台頭とその政治支配を批判し続けた。その批判は巧みで軍部の言論統制をうまく潜り抜けて生き残ったといわれる。彼の基本的な考え方はよく知られるように小日本主義である。台湾、朝鮮などの植民地経営をやめてこれらの国を独立させ、行政コストの負担を軽くし、ともに繁栄しようというものであった。東アジアにおける領土拡張による帝国の拡大をもくろむ大日本主義(当時の支配的思想)の経済的無価値を説いた。これには他民族の国家を支配下に置くことに対する道義的反対思想は陽には述べられていないが、もちろんそれも含んでのことであろう。日本がこの小日本主義政策をとっていれば、第二次世界大戦は当然起こらなかったし、日本を含むアジア諸国の繁栄を早くに実現できたであろう。
戦後彼は政界に入りに第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任した。しかし、吉田首相との考え方には隔たりがあった。吉田は占領期の大半の政治を担ってきたのでGHQの意向をうまく組み入れながら戦後の日本の立て直しを図って政治的な実績を積み上げようとした。これに対し、石橋はGHQに命令されるままに動くことを嫌い、日本における民主主義の確立という考えを前面に出した。具体的には終戦処理費として多額の財がアメリカ側の思うように使われていた。石橋はこれに反発したが吉田はこれはある程度やむをえないものとして受け入れていた。これにより以後の政界で吉田との確執が表面化し、一時は党からの除名、GHQの指示による公職追放などの処分を受けた。
その後吉田の専制的な政治運営に議会が反発し、例の‘バカヤロー解散’で吉田内閣が崩壊した。石橋は後継の座を岸信介と争ってこれに勝ち、内閣総理大臣となって石橋政権が誕生した(1956年)。彼は積極的経済政策と自主外交政策の2つを柱に対米依存から脱却して日本独自の政治を進めようとした。しかし石橋は政権を担ってから2か月後に重度の肺炎を患い、野党を含む多くの人々に惜しまれながら政権を明け渡した。肺炎はその後の療養で回復した。その後も中国などの共産主義国を含めた他国との自主的な外交に尽力し、諸外国との多角的な交流の発展に貢献した。日本はいまだに基地問題や兵器類の購入などでアメリカ従属でその自主性には大いに疑問が残るが、石橋が元気で3年ぐらい政権を担当し、彼の目指す自主外交政策を進めることができたならば日本はもう少し自主性のある立派な国になっていたであろう。後継の岸内閣以降日本の政治の質は劣化してしまった。
参考;保坂正康、‘石橋湛山の65日‘、東洋経済新報社、2021年年4月
台湾の天才プログラマー 2021年10月 永野
天才プログラマーでありディジタル技術を政治や社会に広く活用する優れた能力と見識を持つオードリー・タンという人物が台湾にいることはよくご存じのことと思う。現在は台湾のディジタル担当政務委員(日本のディジタル担当大臣に相当)に35歳という若さで就任し、現在もその任に当たっている。
まず、彼女(註)の天才ぶりを紹介しておこう。IQは180以上で、12歳の時にPerlというプログラミング言語を学び、19歳でシリコンバレーでソフトウェア会社を設立している。中国本土ではインターネットを民衆の監視や制御に使っているが、台湾ではインターネットは国民が政府を監督するツールとして使っているとしてその違いを強調する。‘徹底的な透明性’を重要視し、あらゆる情報はインターネット上で入手でき、政府の要人の考えや行動はすべて国民が把握でき、国民が国家の主人となることをビジョンとして持つ。
そのビジョンに基づいて今回のコロナ禍においては、人々の行動記録の収集と解析やワクチン接種予約などの手続きと情報入手を人々が行いやすいシステムの開発を心掛けた。また人々からのいろいろな要求を受け付ける‘ボックス’を設け、その要求が迅速に満たされるようなシステム開発を心掛けた。そのシステムを民間の人が改良することも受け入れ、よい改良を採用してシステムの機能向上に努めた。民間からの改良案を採用した場合にはその著作権も認めているという。これにより蔡英文政権下でのコロナの抑え込みが実現され世界で高い評価を受けている。
これは一例で台湾では諸事の運営にディジタル技術を用いて全国民が参加可能なシステムが構築されている。上記のボックスはコロナ関係だけでなく政治問題全般について設けられ、国民はあらゆることについて意見を述べることができる。政府は国民からの意見を分析し、それにできるだけ沿えるように政策を練り直す努力を怠らない。まさにディジタル民主主義の手本といってよいものである。情報開示が抑制され国民の意向が政策に反映され難いどこかの国は周回遅れといっても過言ではないであろう。
国の運営にデジタル技術が浸透していることは結構であるが、その技術を扱うことが苦手な高齢者への対策はどうなのであろうか。これについては高齢者と若者のペアリングシステムというものが存在しているという。高齢者と比較的時間的に自由な学生などにペアを組ませ、若者に高齢者のサポートをしてもらっているという。
最後に急速に進展しているAI技術と社会の関係についてタン氏は次のように考えている。AI はあくまで人間の機能を補助するツールとしての役割をはたすべきであると考えている。膨大なデータの統計的な処理や解析などに基づく判断などはコンピュータのほうがはるかに優れている。それをどう使うかはあくまで人間が行うべきであるという。つまりAIはAssistive Intelligenceとして使え、ということである。
(註)自己意識は女性である。台湾では無性別という語を使っている。
参考:朝日地球会議2021、台湾、ディジタル、民主主義 (2021/10/20)
アナキズム 2021年9月 永野
アナキズムというと日本では無政府主義と訳され、自分勝手で暴力を肯定した無法状態を是認する考えとされ、一般の人々にはあまりまともには扱われない。しかし欧米ではもう少し肯定的な意味で、自己の主張を互いに忌憚なく述べ合い、皆で合意点を見出すという意味でも使われるらしい。この意味のアナキズムは先史時代から存在していたらしいが、その後国家などの組織化された階層的な社会体制が確立されたため表には出なかった。しかし20世紀に入る前後で低層労働者階級の開放を求める運動として勃興した。それは社会の在り方に関する一つの思想としての上記のまともな側面を持ち合わせていた。
ところで、人間は国家の統治や平時の秩序が機能しない状態に置かれると相互扶助を始める傾向がある。災害時には他者とともに助け合いながら生きたいという本能的な感情が生じて、人々の連携やボランティア活動が活発になる。これは東日本大震災などの大きな災害で我々が常に見てきた現象である。アナキズムの良い意味での思想はこのような人間の活動の原点ともいえよう。その底流には自らの欲望に忠実になる、すなわち利己的になることがあるが、その中には自己の幸福感を満たすためには他人と互いに煩わせ合いながら共に生きることが必要であるという気持ちがあり、それが相互扶助につながると考えられる。これをユートピア的理想論であると切り捨てられないのは人々が災害などで窮地に追い込まれたときに実際に現れる相互扶助行動で納得されよう。良い意味でのアナキズムにはこの考え方がベースにある。実際人類は互いにケアすることで生き延びてきたのである。
このような考えに賛同する人々が共に暮らすとき、彼らは集まって自らの意見(欲望)を述べ合う。そこでみんなで落としどころを探して決着をつける。そのためには人はみな同等で相互の意見をよく踏まえて考えなければいけないという姿勢が共有されていることが前提となる。この前提が共有されればよいが、現実にはそれは難しいであろう。自己主張ばかりが強く前面に出る人がいて、皆がそれに流されてしまうという事態は通常の社会ではよく起きることである。それがやがては国家の独裁などにつながるのである。米国におけるある調査では現代の学生は他者の考え方に配慮せず自己中心的な考えを持つものが増えたという結果があるそうだ。これは普通に考えるとよくない傾向と思われがちであるが、これは自己の考えが確立している人が増えたという肯定的な解釈も成り立つ。ただしこの場合も学生が皆他の意見も冷静に考慮する能力を備えているということが要求される。
良い意味でのアナキズムは民主主義と相通じるものがある。違う考え方や信条を持つ人たちが一堂に集まって話し合い、落としどころを見つけて前に進むという考えで共通している。しかし今の世界では、この民主主義の本来の考え方はあまり尊重されず、相互の意見交換が軽視され多数決のみで物事を進める傾向が強いことが危惧される。良い意味でのアナキズムの本来の意味は人々が自由に協働し常に現状を疑い、より良い道を探してゆくことである。人々のために機能しなくなった組織を下からボトムアップ的に作り変えていくという考えである。我々はこの考え方をしっかりと踏まえることを忘れてはならない。
エンパシー 2021年9月 永野
英語をよく知る諸氏はご存じだと思うが、シンパシー(sympathy)とエンパシー(empathy)という語は両方とも人の心を慮るという意味を持つ類似語であるが、その内容はかなり異なる。シンパシーは感情移入の意味が強く、相手の悲しみや心配などと同じ気持ちを持ちその人に寄り添う、すなわち同情することを言う。それに対してエンパシーはその人の心の状態だけでなく、思考状態をも推察することを言うという。そこには感情移入の意味合いはないという。シンパシーとエンパシーはそういう意味では全く異なる心の働きを言うといえるであろう。ライター・コラムニストのブレディみかこの言葉を借りれば、エンパシーは‘他人の靴を履いてみる’ことだという。この意味合いを前面に出すときはこの語はコグニティブ・エンパシーといわれる。
他者の気持ちや考えを読み取る能力は相手を理解するうえで必要なことであり、しばしば優れた良き能力であると解釈される。しかしその能力は時には残忍な行為や搾取につながる可能性を否定できない。例えば今日のディジタル情報社会では相手の嗜好や思想などのプロファイリング(註)を行い、それをもとに相手を操作する手段として用いられてしまう。このようにエンパシーはその能力をいかに使うかということをよく考えなければいけないものである。それが社会の役に立つためには多くの人々がこの点をしっかりわきまえる必要があるということである。これは教育の問題であろう。シンパシーはその人の感情に訴えるものであるから割合生得的に身に備わったものであろうが、エンパシーは生後の学習によって形成される能力である。したがってこのような能力の獲得とその使い方についてはしっかりした教育システムによって育まれることが望まれる。日本の教育ではこれが前面にだされていることがないように思える。知識の獲得に主眼が置かれ、社会で人々が相互に理解を深め助け合いながら生きていくこととそのためのスキルの獲得の重要性を学ばせることが必要なのではなかろうか。西欧ではこのような教育をするためのプログラムが実際に行われているそうである。
現代社会ではこのエンパシーが欠如して困ることが多く見受けられる。例えばアメリカの政治家は右はビジネスエリート、左はインテリエリートの集団になってしまい、左右ともエリート集団で、庶民の生活の実態や市井の人々の感覚を理解できなくなっている。それらのエリートは一般の民にエンパシーを働かせる能力が欠如し、彼らの支持を失いトランプ政権誕生の引き金となった。また、サッチャーは人々の自助を推奨し、自らの力で貧困を解消せよ、(肩を寄せ合う)社会などというものは存在しないと説き、多くの貧しい民の窮状にエンパシーを働かせることができなかった。結果として英国史上最大の失業者を出した。
我々はエンパシーというものの重要性を再認識する必要があるのではなかろうか。
(註)個人情報や過去の行動からその人の嗜好や思考、行動などを分析し利用すること。例えば購買履歴から新製品の購買の可能性を分析すること。大本は犯罪捜査から来ている。
参考:ブレディみかこ、「他者の靴を履く」、株式会社文芸春秋、(2021年6月)
日本とドイツ 2021年8月 永野
日本の現状と比較していつもうらやましく思うのが、同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツである。大戦における自らの非を真摯に受け止め、被害を受けた近隣諸国に心からの謝罪をし、その償いとして移民の受け入れの積極的に対応する、自国の原発の使用禁止を打ち出すなどでヨーロッパ諸国を先導した。一方日本は近隣諸国との和解も十分ではなく、移民は極めて少数しか受け入れず、核技術利用については唯一の被爆国であり、福島原発事故を起こしたにもかかわらず、その利用廃絶に関しては消極的である。
ドイツは戦後の経済では日本に遅れをとったが、着実な発展を続け、今ではヨーロッパでトップの経済的地位を確立している。政治的にもフランスとともにEUを先導しその存在感は大きい。コロナ対策でも優れた施策を施している。ドイツの歴代首相は長期的視点からことを進めたが日本の政治家は特に21世紀に入ってからその場限りの経済的な実績のみに力点を置いた。この差は政治家の資質にあるが、その政治家に国を任せたのは国民である。日本国民は広く長期的な視点でものを考える姿勢がかなり欠如しているのではないか。
ドイツはユダヤ人の大虐殺をしたいわゆるホロコーストの罪を国として重く受け止め学校教育でその内容を子孫にしっかりと伝え、2度と同じ過ちを犯さないようにしている。またナチスの行為を連想させる行為を法律で禁止している。例えば片手をあげる行動はナチスの行為を表現するものであるので、これを禁止している。ドイツ国内でこの行為を行うことは法律に触れることとなる。実際、外国旅行者が観光地などで記念写真を撮るときにこの動作を行って逮捕され罰金を取られたということが起こっている。それに対して日本では学校で先の大戦においてアジア諸国に大きな被害を与えたことに対する強い反省教育をしているとは思えないし、その反省のための法整備などもない。それどころか歴代の首相はその非を近隣諸国に心から謝る姿勢を示していない。終戦記念日(‘敗戦’だと思うが)には歴代首相は一応アジア諸国に対する謝罪の言葉を織り込んだが、それも直近の2代の首相の言葉の中には見られなくなった。ホロコーストは600万人もの犠牲者を出しているが、日本がアジア諸国に与えた人的損害はそれよりはるかに大きいのである(アジア全体で2千万人、中国だけでも一千万人を超す)。日本人は過去の出来事を‘水に流す’的な考え方が強いが、これは世界に通用するものではない。きちんとした反省と謝罪が必要なのである。このあたりが日本が世界に信用されるか否かの原点であろう。
この欄で何度も引用したが、前世紀後半にドイツの大統領を務めたヴァイツゼッカ―は「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」と言って、ナチスが犯した罪を2度と繰り返すことのないように警告している。さらに彼は、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き継がなければならない。全員が先人が残した大きな負の遺産に対する責任を負わされているのである、と言っている。日本の菅前首相は先の大戦に対する思いを問われ、自分は大戦時には生まれていなかったので・・・と言って答えをはぐらかしたが、日本のトップがこのような姿勢を持つようでは、国民は大戦時にアジア諸国にかけた迷惑などに思いを馳せることなどできないであろう。彼我のトップの見識の差が如実に表れている。
21年10月ミニトーク 永野
(1)宗教について
宗教はアニミズム→多神教→一神教と進化したと説く学者がいるがこれはキリスト教を他の宗教に優越するものといいたいがための便法に過ぎない(寺島実郎)という。確かにそういう要素はあるかもしれない。しかしそのような動きに影響されることなくなく現在の大きな宗教の中にもアニミズム、多神教的要素は生きている。一例として仏教には草木国土悉皆成仏という教えがある。これは草木や国土のような自然物のものでも成仏する、という考え方で、空海によって日本に広められた。今自然との共生が必要であるということがよく言われているが、この仏教の教えはそれと親和性があるものであると考えられよう。
(2)GDPなど
我々は国の繁栄の尺度としてよくGDPを用いるがこれは繁栄の尺度として妥当なものであろうか。これは国内で生み出された‘儲け’の総量のことで国の真の繁栄は意味していない。少し古い人物であるがJ.F.ケネディの実弟ロバート・ケネディは次のようなことを言っている:GDPには人生の価値を高めるものは含まれてはいない。子供の遊びの喜びや家族のかけがえのなさは入っていない。経済成長は人生の真の目的ではない、と。全くその通りで、国の繁栄とはその国の人々が生きることの喜びを感じているか否かであろう。日本は昭和の高度成長期にGDP尺度で一時世界第二の大国になったが、これは真の繁栄を意味するものではなかった。ある程度の経済的な発展は確かに必要ではあるがそれを無限に追及することは愚の一語に尽きる。日本は経済的に十分成長した段階で、経済発展中心から人々の暮らしを精神的な意味で豊かにすることに主眼を置き、方向転換するべきであった。
(3)日本人的思考の欠陥
日本人はどうも思考がその場主義的・現状是認的になりやすい傾向があるように思える。大戦で戦争一色になり、敗戦後はアメリカ文化にすっかり染まり、テレビの普及で一億総白痴になり、経済発展で物欲の権化となり、今またスマホ社会にどっぷりつかってしまっている。もう少し人間の真の生き方を考えたほうが良いのではなかろうか。
この日本人の思考傾向の欠陥は小生個人の勝手な見解ではない。優れたジャーナリストとしてまた政治家として今も語り継がれる石橋湛山も関東大震災(1923年9月)を経験した後、とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまうという指摘をしたうえで、次のような言を述べているので引用しておく(註1)。
「吾輩の見るところによれば、今我が国民は、全体として、かかる場合にははなはだ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(註2)日本国民は、わつと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いてよく考え、協同して静かに秩序を立て、地味の仕事をするには不適任である。(中略)我が国は今回の災害により、あらゆる方面に人為のさらに大に改良すべきものあるを発見する。と同時にこの災害は、随分苦しき経験ではあったが、しかしこれを善用すれば、いわゆる災い転じて福となすの道は多いのである。」
(註1)保阪正康、「石橋湛山の65日」、東洋経済新報社 2021年4月
(註2)‘畢竟’(ヒッキョウ):つまるところ
格差解消 2021年8月 永野
格差問題は日本に限らず世界的な問題である。これについてはこのコラムで度々取り上げ、グローバル化と新自由主義的な資本主義が問題であることを説き、その奥にある人間の無限の欲望をうまくコントロールしないとこの問題は解決しないと述べた。具体的な解消策については、累進課税やベーシック・インカムなど種々の方策があることも述べた。
こではそれらの方策についてその問題点を明らかにしておこう。
まず累進課税であるが、これは豊かな人ほど多くの税を支払って、それを低所得層の生活の向上に振り向ける、というもので考え方としてはわかりやすく納得がいくものである。ただし、これをその通りに実行するにはいくつかの障壁がある。政治的な方策は富裕層によって支配される側面があることは否定できない。日本では政治家になるためには、地盤、鞄、看板の3大要素が必要であるとよく言われる。企業などからの直接的なサポートは種々の法制で抑えられているが、実際にはいろいろなルートで相互の利益を図ることができる。地盤と鞄はこれに関系することがおおい。日本に限らず多くの国々ではロビー活動が盛んであるが、この多くは政治家と企業や団体の間の利害調整が主であろう。その話し合いで低所得層の援助などが語られることは少ないであろう。そもそも資本主義が跋扈する現代においては豊かな人々に多くの税を支払わせる法案を通すことは容易には実現はできないであろう。例え大きな累進課税が実現されたとしてもそれが低所得層の生活改善などの福祉政策の使われるにはかなりの抵抗を排除して行くことが必要になるであろう。
次にベーシックインカム(註)について考えてみよう。この方策の最大の問題点は財源である。財源確保のために今ある年金制度や医療保険制度といった一切の社会福祉的な制度を廃止する必要があろう。数万円程度の支給となるという試算があるが、これにより低所得層の暮らしが実際的に改善されるが否かは不明である。またこの制度では公平感を保つため国民全員への支給が前提となっているが、これは比較的豊かな人々にとってはあまり意味のないものになる可能性がある。支給の仕方が大きな問題となるであろう。この問題に関連して、‘負の所得税’という考え方がある。累進課税とベーシックインカムを融合させたような方策である。今でも収入の少ない人ほど税は少なくなっており、ある程度以下の収入であれば税はセロである。この考え方を拡張して、収入の少ない人にその額に応じた‘負の税金’すなわち現金支給をするという考え方である。なかなか良い考え方であるが、これを実現するためには、財源として大きな累進課税が必須の要件になることは言うまでもない。
余談ではあるが、藻谷浩介という経済学者は先進国共通の問題である景気の低迷の改善について、預貯金の多い高齢の富裕層の需要を喚起して貯蓄を使わせる、という提案をしている。高齢層は将来の不安から、貯金を抱え込むが、その消費を喚起する代わりに預貯金が尽きたら国が生活、医療をすべて保障するという方策を提案している。これは景気浮揚策であるが、負の所得税と相通じる考え方であり、興味深い提案である。
(註)永野、ベーシックインカム、本欄2018年7月
タリバンのアフガニスタン支配 2021年9月 永野
米軍のアフガニスタン撤退とタリバンのアフガニスタン支配は今年後半の世界のビッグニュースの一つであろう。これによりアメリカの傀儡政権と目されていたガニ大統領の支配は崩壊し、イスラム教の教えを厳格に信奉するタリバンによる政権が誕生した。
この国は1973年年までは王朝国として存在し、その後革命により共和国に変わった。対ソ戦争などいくつかの戦乱(含内戦)を経て20世紀末にはタリバンが支配する南部とこれに反発する北部同盟の対立状態が続いた。そして2001年の9.11事件(ニューヨーク・ワールドトレードセンタービルなど4か所同時テロ)が起こった。アメリカと有志連合諸国は事件の首謀者とされたイスラム国際テロ組織アルカイダのウサマ・ビンーラーディンの引き渡しをタリバンに求めたが、拒否されたため北部同盟と共働してタリバンを攻撃した。これにより国土の大半はアメリカの支援を受ける北部同盟が支配することとなった。アメリカは2011年5月にビンーラ―ディンを殺害(於パキスタン)後もテロ組織撲滅を理由にアフガニスタンに兵を駐留させ、アフガニスタンを支配した。もちろん旧ソ連時代からあるロシアの影響力の浸透を防ぐこともその目的の一つであろうが。
タリバンは対ソ戦争時に現れた組織で、アフガニスタンの各地域がソ連の侵攻を阻止するために団結したことに原点があり、その意味で土着の組織である。彼らの主目的はアフガニスタンというイスラム教を信奉する国を守ることである。したがってタリバンが近隣の諸国を攻撃し、その支配を目指すことはない。その点でタリバンはIS(イスラム国)やアルカイダのようにイスラム教の国際的活動(テロ)を支援するという意図は持たないことが彼らとの大きな相違点である。タリバンは過激派のイメージがあるが、外国への危害を加えることは少ないようである。女性対応は厳格ではあるが、女性に対する庇護は十分でそれを好む女性も少なくはないという。この国もこのグローバル化した世界で存続して行くためには諸外国との交流は避けられず、それらの国と種々の面で折り合いをつけながらの国の運営が必要であろう。その過程で自国民の扱い方も少し幅を持たせる方向に変化して行くことが望まれる。個人的見解であるが、タリバンにはその変容が可能であると思う。タリバンはイスラム教の教義を振りかざすだけのISやアルカイダと異なり、土着の国民の生活を考えることができる集団であると思えるからである。アフガニスタンの住民の自立のために命をささげた中村哲さんの功績をタリバン幹部は認めているし、その殺害への関与も否定している。少なくとも幹部連中は話せばわかる度量は持ち合わせていると考えたい。
今回の米軍撤退はアフガニスタン政府の腐敗にもその原因があるという。アメリカの援助に頼り切り、自国の平和と経済の振興に十分な力を注がなかった。アメリカも欧米流民主主義の押し付けではなく、その国の人々の意を汲んだ政治を誘導するべきであった。民主主義国では国の意を決めるのは国民なのであるが、イスラム教を信奉する国ではそれは神(教義)が決めるのである。
参考:東京新聞ニュース深堀講座(オンライン) 9月16日(2021)
サンデル先生再登場 2021年7月 永野
10年ほど前、マイケル・サンデルハーバード大学教授による‘白熱教室’というテレビ番組が高い視聴率で多くの人々に注目された。講義では人間社会の様々な問題について例を提示しつつ、学生に難題を投げかけて議論を引き出し、また自身の考えを展開した。そのサンデルがいま世界的な問題となっている格差社会について、なぜ格差は拡大したか、それを解決するにはどうしたらよいにか、という問題に対して持論を展開した。
政治体制の良否を論ずる前に、いわゆるエリートたちが謙虚さを養うことが重要である、と彼は言う。米国に限らず多くの国々で能力主義(メリトクラシー)が浸透し、勝ち組の人々を傲慢にさせていることが社会の混乱を導いているという。勝ち組の人々はその成功が自分一人の能力の高さによってもたらされたものであるとし、取り残された人々を見下す意識を持つ。それにより社会の分断が起こる。見下された労働者階級は不満と怒りを持つようになり、それがポピュリズム運動を巻き起こし、トランプ政権のような極端な政権を誕生させ社会の混乱に拍車をかける。勝ち組と負け組の社会的距離は一層大きくなり、両者が交流する場がなくなる。成功者たちが謙虚な姿勢を失うと社会の大勢の人々が集まる文化施設などの公共の場所に集まらなくなる。こうして両階級が接する機会が減り分断は深まる。
成功者はその成果を自分の実力であると決め込み、取り残された人々は自業自得であると考えるが、本当にそうであろうか。その成功は陰に陽に多くの人々や既存の公共文化財によって支えられた結果であり、決して一人の力で達成されたものではない。
アメリカでは最初のころのオバマはこのような分断をなくす方向で政治を行うと考えられていた。が、やはり彼もエリートの範疇から抜け出してはいなかった。オバマだけでなくビル・クリントンもそのような期待とは裏はらであった。ヒラリー・クリントンが大統領選で敗れたのも、その言動がエリート階級的であったことが大きな原因の一つであろう。民主党の支持層は以前は労働者層であったが当時はすでに支持層は高学歴者であった。これが労働者層の反発を買い、トランプを当選に導いたといえる。
では、このような社会の分断状況を改革するにはどのようにすればよいのであろうか。サンデルは言う:政治改革ではなくまずは文化を変えるべきだと。成功者のものの考え方を根本から変えないと改革は進まない。先に述べたように成功は多くの人々の協力と既存の知識・文化の積み上げに依存してもたらされたものであることを理解して謙虚な姿勢を身に着けるところから始めなければならない。すなわち‘能力主義の傲慢’を消し去ることから始める必要がある、と。
このサンデルの見解はアメリカだけでなく、格差の進む多くの国々(含日本)で共有されるべきものであろう。サンデルは共同体主義(コミュニタリアニズム、communitarianism)という政治思想の持ち主である。これは共同体(コミュニティ)の価値を重んじそれを基礎にすえて物事を考える、というものであり、上記の論もこの思想をベースにしている。
参考:クーリエ・ジャポン編 新しい世界:第4章、講談社現代新書2601(2021年)
サンデル白熱教室 2021年7月 永野
先日、久しぶりにサンデル教授の白熱教室が放映されていた。アメリカ、中国、日本の超一流大学学生6名ずつを招いてのオンライン討論であった。テーマは現代社会の種々の問題であったが、そのうち特に興味深い2つの討論について私感を述べておこう。
まずは格差問題であるこれはコロナ以前からの問題であるが、コロナ以降ひときわ大きな問題となっている。貧困層の死亡率は上位の層のそれを大きく上回っている。これは主に衛生面の知識不足や食住環境の貧しさに起因する。同時に仕事面での格差も大きい。上位層の人々は様々な方法で仕事上の感染を回避できる。情報通信機器を使ってのリモートワークなどがその一例であろう。それに対して貧困者の仕事はどうしても感染危機に晒されやすい。デリバリーサービスなどはそのよい例で、金持ちはこのサービスを利用して感染リスクを抑えることができるが、そのサービスを生業とする人は彼らの感染リスクを肩代わりしているのである。サービス精神でこれをやる人は少ないであろう。そういう仕事でしか稼げないのである。(警察、消防、医療などは自らの意思で選ぶ人が多いが)。これも格差によって起こる弊害であるが、これにどう対処するべきか。手数料の値上げでは本質的な解決にはならない。緊急事態では国家の積極的なサポートが必要なのではなかろうか。
もう一つも格差問題に関連する。いわゆる超一流大学に入学して、将来の出世コースに乗るためには受験の高い壁をいかに乗り越えるかが問題である。それは本人の血の出るような努力の賜物であるのか、それとも勉学に打ち込める家庭環境に依存するのであろうか。日本の学生は6/6 が家庭環境であると判断したが中国の学生は全員が自らの努力によるという意見であった。この違いは単なる国民性の問題なのであろうか。個人的にはそれ以前にこの問題をもう少し高い視点で考えることが必要であると思う(サンデルの議論は二択で進めることが多いが)。多くの場合両方の要因が必要であろう。また、本人の適正、自主性などこれ以外のファクターを考える必要もある。いくら親がサポートしても本人にそれだけの能力が備わっていない場合もある。また本人がエリートコースを目指すことに価値を見出さない場合もある。この2つの場合とも本人は苦痛を感じるだけである。回答者の中にはそのレールに乗ってエリート大学生になったが、それに自ら疑問を感じている学生も2,3いた。彼らはもう一度やり直せるなら同じ道は選ばないという。受験勉強により失ったものの大きさに気づいているのである。
そうはいっても現実には、彼らエリートによって社会が動かされる部分は多いと考えられる。それを踏まえてサンデルがいいことを言っていた。君らはこれから社会を引っ張っていく立場に置かれることは間違いない。そこで君たちがよく考えなければならないことは、これからどうやって自分たちが皆が暮らしやすい社会を作っていくか、ということである。この考え方に従って行動できないものには社会を導く資格はない、という考えなのであろう。この言葉は、いわゆる共同体主義者として人々の協力のもとに社会を運営するという考えをベースに論陣を張るサンデルらしい言で、これには大いに賛同する。
ピケティの宗旨替え:その2 2021年7月 永野
ピケティは以前累進課税を促進すれば社会の格差は解消するという考えを持っていたが、それを改め参加型社会主義的な社会システムでないと格差の本質的な解消は実現できないという考えに至った。その具体的な改革案を著書‘資本とイデオロギー’に著している。
この社会システムを構築するためにはまず私有財産の多くを社会化しなければならない、という。フランス革命後に誕生した有産者社会では財産の私有は不可侵なものとして尊重され、現在も多くの人々によって当然の権利であると考えられている。しかし資本主義社会でのビリオネア(億万長者)の誕生は既存の知識、インフラ、公共研究施設などの公共財に依存する場合が多い。だからその財は社会に還元されるのが当然であると考える。
高い累進課税で貧富の差が抑えられていた20世紀中期は栄光の30年と言われていた(米国、西欧)。この時期では中間層が厚く、多くの人々が生活の豊かさを感じていた。しかしこれも一時的なもので、20世紀後半の新自由主義の台頭により格差が拡大しビリオネア誕生と同時に貧困層が増大した。野放図な格差拡大は人間社会を破滅に追い込むのである。
私有財産の社会化はドイツ流の労使共同決定の仕組みを取り入れることで実現される。ドイツでは1950年代からこの仕組みが採用されている。現在はドイツ以外にも北欧諸国などで取り入れられている。この労使共同決定とは次のようなものである。取締役会で従業員の代表が議決権を持つことができるもので、ドイツの場合大企業では議決権の半分が与えられる。スウェーデンなどでは従業員の議決権は30%であるが、この仕組みは規模の小さい企業にも適用されている。この制度を取り入れた国々では経営者の報酬の抑制や従業員の自社投資が実現されやすくなっているという。ピケティは大株主の議決権の削減をさらに強めて、最大でも10%程度にとどめることが望ましい、という。
さらに彼は私有財産規制には財産権の時限化が必要であるという。すなわち人間が持てる資産の額に時間的制約を設けることである。世代が変わったら親族は富の一部を社会に還元すべきであるという考え方である。相続時の税だけではなく毎年資産に累進課税が必要であるという。ビリオネアたちは往々にして資産にかかる高い税を逃れるために、税の安い他国に投資したり、金品を買ったりする。これを禁じるためには租税や規制などに対する国際的な協調と管理が必要になることは言うまでもない。
彼はさらに踏み込んで万人が遺産相続できる仕組みを提案している。私有財産の社会化や時限化で得た税収を一律に若者に配布するという構想である。25歳になったら誰でも1500万円相当の支給を受ける。それにより新たな事業の立ち上げ、自社株の購入による資本参加、住宅の購入による生活の質の向上などが可能になる。
最後に今全地球的な問題となっている気候変動などの環境問題を解決するためにも新たな経済の仕組みへ移行することが必要であるという。人々が安心して暮らせる社会を実現して初めて人々の目を環境問題に向けさせることができる。このことはフランスで炭素税増税が黄色いベスト運動によって阻止された例を見れば明らかである。
参考:クーリエ・ジャポン編、新しい世界―世界の賢人16人が語る未来―、講談社現代新書
21年8月ミニトーク 永野
(1)認知症の早期発見
今月の月報で最近開発された認知症治療薬アデュカヌバブについてコメントを書いたが、それに関連したニュースを紹介しておこう。最近認知症の原因であるアミロイドβの蓄積量を少量の血液で測ることができる方法が島津製作所で開発された。これには田中耕一さんのノーベル賞受賞(2002年)の対象となった技術が生かされているという。新薬アデュカヌバブは初期の認知症に有効に使えるということなので、この手法で早期に認知症の可能性を検出できれば、アデュカヌバブとの組み合わせでより効果的な認知症予防が期待できる。また、脳内のアミロイドβの蓄積は認知症発症の20年以上前から始まるといわれる。中年以降の人々がこの方法で自己の脳内アミロイドβの蓄積状況を把握すれば、食事などの管理でその蓄積が進行しないようにすることが可能であろう。それによって老年期に入ってからの認知症発症を未然に防ぐことが可能になる。その意味でもこのアミロイドβ測定方法の開発は有用なものであるということができよう 。
(2)自然と人間
個人的な話で恐縮であるが、小生は自然の風景が大好きである。外国の風景もよいが、テレビで日本の自然の風景を見ていると心が癒される。テレビで自然の風景の映像を淡々と流す番組をよく観る。例えばテレビ朝日の鉄道旅(木曜夜8時)などである。最近画家向井潤吉の画集「懐かしき日本の風景」を購入して見ているが、茅葺の古い家屋のある風景を題材にした癒される画集である。なぜこのような風景画や映像を好むのであろうか。多分子供のころ田舎の自然の中で過ごしたことが影響しているのであろう。そう考えると今のネット機器に取り囲まれて集合住宅の中で育った子供たちは中高年になったとき、そのような環境に郷愁を覚えるのであろうか。そのようなこともありうることではあるが、そう思えない一面もあるように思える。人間は地球上に現れた何万年も以前から自然の中で生きてきたのである。その影響力はここ100年、200年の間の機械文明との共存とは比較にならないほど大きいということもありうる。やはり自然と人間の親和性は変化しがたく人間の体の中に染みついているのではなかろうか。このようの観点からも自然の大切さは理解されるのではなかろうか。
(3)人間は本来性悪?!
17世紀の英国の哲学者ホッブスは、人間は本来性悪で放置すれば自己中心的にぶつかり合いながら過ごすであろう、という。宗教はみな教祖が善行を説く。キリスト教の愛、イスラム教の喜捨、仏教の慈悲そのほかの儒教などにも類似の教えがある。これは人間は本来性悪だから、人間社会をまとめるために教祖たちが善行を説いたのであろうか。
現代では宗教を忠実に信じてその教えを守る人々は相対的には少なくなっていると思える。しかし我々は人々がある程度協力しあわないと社会の健全性が保たれないことを理解しており、それにしがって社会を維持している。ということは、人間は根っからの性悪ではないともいえるのではないか。相変らず自己中心的な振舞いは多いが・・・。
認知症の新薬 2021年6月 永野
皆様よくご存じだと思うが、最近日米の薬品企業二社(エーザイとバイオジェン)が協同で初期アルツハイマー病の治療薬『アデュカヌバブ』の開発に成功したといわれる。米国食品医薬局ではすでにこの薬を承認している。認知症患者は世界で5000万人いるが、その6~7割がアルツハイマー型認知症である。これに対する治療薬は開発されていなかったが、ついに有効な治療薬が開発されたわけで、それ自体は大変結構なことである。
科学と政治 2021年8月 永野
8月は終戦記念日の月である。今は戦争体験がない人が殆どになって、あの第二次世界大戦の愚かさを実感し反省を新たにすることも少なくなったようである。しかし、人類が決して忘れてはいけない教訓がいくつかある。その代表的なものが科学と政治の関係である。
’21年7月ミニトーク 永野
(1)コロナとの共生
ウィルスは自身で増殖することはできないが、生物細胞の増殖機構を利用して増える、と言われる。その増殖の媒体となる人間その他の生物は進化の過程でウィルスの力を借りているという。ウィルスと生物は太古の昔から互いに協力し合って存在してきたのである。
利他の難しさ 2021年5月 永野
利他とは仏教やキリスト教など多くの宗教の基本理念となっているもので、高僧最澄の言「己を忘れて他を利するは慈悲の究極なり(忘己利他)」という言葉で言われるように、自分を忘れて他人のためにつくすことを言う。極めてまともで人間が持つべき基本的な考え方である。しかし、現実世界において実際にこの教えに従って行動しようと思うと様々な問題が生じてくる。困っている人のためにという思いから生じる行動が結果として当人のためになっていない、ということがよく起きる。例を紹介しておこう。
やっぱり累進課税は必要 2021年5月 永野
資本主義は格差を広げる本質的なメカニズムを持つからよくない、という考えはピケティの‘21世紀の資本’以来主流になっているが、この格差問題の解決策としてはリベラルな経済学者の多くが累進課税(註1)を提唱している。実際、20世紀のある時期累進課税によりこの格差拡大が抑えられたことがあった。アメリカでは1940~1980年代はいわゆる総中流時代と言われ、政府が累進課税を強化したことによりこれが実現された。富裕者は最大90%の税を課せられたことにより、貧富の格差が縮小され総中流社会が実現した。この累進課税強化の契機となったのが第二次世界大戦である。当時は高額の金を払うことにより兵役を免れることができた。一般国民はこの金を払うことができないので、兵役を拒否できなかった。これに反発した多くの庶民が富裕層への多額の課税を要求したのである。
(1)民主主義に対する哲学者国分功一郎の言
(2)人間の多様性
電気自動車は環境にやさしい? 2021年5月 永野
電気自動車はエコである(環境にやさしい)ということで、近年世界の自動車業界は一斉にこの開発を進め、旧来のガソリン自動車から電気自動車への切り替えを推進している。だが、 電気自動車は本当にエコなのであろうか?
反知性主義 2021年5月 永野
今日の日本をはじめとする多くの国々の政治・社会を特徴づける言葉として‘反知性主義’という言葉がある。これはいったいどのようなものなのであろうか。反知性主義とは知的な生き方及びそれを代表するとされる人々に対する憤り、嫌悪、疑惑を持つ考え方である。これは80年代あたりから世界に顕在化してきたネオリベラリズムの流れと民主制の両立を考えるうえで支持者を増やした考え方である。近代の思想を支配してきた啓蒙主義、すなわち人間の知性の限りない発展と追及、高度な知性と豊かな内面性を持った人間という理想像に対する反発から生じた考え方である。彼らは知性の追及こそが現実世界で格差を生んでいると考えているのである。したがってこれは単に知的な事柄に無関心であったり知性が欠如しているという‘非’知性的なものではなく、知性の働きに対して否定的で攻撃的な態度をとることを意味する。まさに‘反’知性的なものなのである。
2021年5月ミニトーク 永野
(1)21世紀を生きる君たちへ―司馬遼太郎―
歴史探偵半藤一利さん逝く 2011年1月 永野
作家半藤一利さんがこの1月にあの世へと旅立たれた。昭和史の語り部としての名声は高く、鋭い歴史眼と豊かな人間観を持つ作家であったといわれる。彼の優れた点は、種々の歴史的出来事を通り一遍の知識で解釈するのではなく、その出来事に関わった人々から直接話を聞き、それに基づいた論考をしたことであろう。
我が亡きあとに洪水よ来たれ 2021年3月 永野
この言葉はフランス王ルイ15世の愛人ポンパドール侯爵夫人の言葉であるといわれる。夫人は戦に敗れた王を励ますためにこの言葉を言ったとされる。この言葉には二つの解釈がなされている。一つは、王の統治が無くなれば国は混乱に陥ってしまうであろう、という意味であり、もう一つは、自分が去った後に何が起ころうとも知ったことではない、という意味である。現代では後者の意味でつかわれることが多い。日本の、後は野となれ山となれ、という言い回しに相当するきわめて無責任な振舞いを言い表したものである。
近年世界を支配してきた資本主義が知識人たちによって、格差拡大や環境破壊の源泉であるとして批判されえているが、その批判によく使われるのが、この言葉である。すなわち資本主義に則って利益をむさぼる資本家たちは、その活動により自己の利益を拡大して自己発展を続け、労働者達からの搾取を繰り返す。また地球にある諸資源を湯水のごとく消費して自然破壊を進めて環境を破壊し気候変動を加速し、地球を人類が棲めなくなるものにしてしまう、という。
‘21年4月ミニトーク 永野
(1)完璧主義の弊害
官僚の忖度 2021年3月 永野
最近の日本の政治では官僚の忖度が横行している、とよく言われる。官僚が政治家の顔色を窺い、その意向に沿うような言動を行っているのである。官僚は常に国民・社会のためになる行動をするべきであり、それが政治家の意向と対立する場合は政治家とよく議論をし、政治家の意向が個人的あるいは特定の組織などの利益に偏っていると判断される場合は堂々と反論すべきである。しかし現実にはそうなっていないことが多いのは、14年に内閣人事局ができたことにより政治家が官僚の人事権を握っているからである。
今の日本は選挙独裁ともいえる政治体制で、政権与党が閣議決定で政策を決め、国会で十分な審議もせずに政策を進めている感がある。安倍内閣での安保改定などその例は数多くある。英国ではこのような流れに歯止めをかける仕組みがある。下院に特別委員会という超党派の委員会が設けられ、ここで政府の監視・チェックなどをおこなう。政府に問題があると調査をして報告書をまとめる。政府はこれに回答する義務がある。回答に対して更なる追及も可能である。この委員会でも与党議員による政府への加担があると日本では考えられるが、英国では一議員として内閣を監視し続けるという自覚が各議員にあり、党派の利害に流されることは少ないらしい。
民主主義が資本主義の後押し?! 2021年1月 永野
昨今世界中で貧富の格差が拡大し、その根本原因が資本主義であるという批判が強まっている。その批判の根拠はどういうことであろうか。
フランス革命は「自由・平等・博愛」という理念のもとに遂行されたが、その実態は‘自由’だけが先行したように思える。それが人々の物欲を刺激し、資本主義に基づく富の獲得競争を招き、その競争に取り残された者たちが労働者となって社会の下層に位置するようになったのである。すなわち人々は自由を勝ち取ったが、それにより格差増大を招いてしまった、ということでる。人々は自由獲得により物欲を前面に出してその欲を満たす行動に走ってしまった。それが資本主義の暴走、格差の拡大を招いてしまったのであろうと思われる。本来人々が自由に際限なく欲望を追求することは他の人々や自然(人間が生きる上での基盤)との共生とは相容れないものである。この欲望の暴走に歯止めをかけるのが‘平等と博愛’である。フランス革命の標語にはこのブレーキ役の重要性がきちんと書かれているのである。それにもかかわらず自由の追求だけにとらわれた人間はやはり愚かで滅ぶべきものなのかもしれない。民主主義は良いが、やはりそれには‘杖’が絶対に必要なのである。
’21年3月ミニトーク 永野
(1)直木賞受賞作‘心淋し川’
聖書の中の仏教的な言葉 2020年12月 永野
旧約聖書の中の知恵文学という編の中にコヘレトの言葉という節がある。コヘレトという知恵者が書いた文であるが、その内容がまことにユニークであり、聖書の中の文書とはとても思えない。冒頭から‘一切は空(くう)である’というまるで仏教書にあるような文言が出てくる。その後も虚無的で厭世的な文言が続く。さらに一転して‘神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見出すこと、これこそが神の賜物である’、と言う。このため彼は虚無主義者でありかつ享楽主義者である支離滅裂な思想の持主であると考えられてきた。キリスト教では反面教師的な役割を果たしているとされ、その内容は高くは評価されてこなかった。キリスト教の聖典では、いつでも喜び、神に祈り、感謝の日々を慎ましやかに送りなさい、それによってこの世の終末(黙示思想)に人々は神によって救われるのです、ということを説いているからである。
(註)小友聡、「それでも生きる」、NHK心の時代(NHK教育テレビ)、NHK出版
AIの効用 2021年1月 永野
昨今コンピュータを用いたAI技術の発展により、人間では困難な問題はAIですべて解決できる、という風潮が強まっている。極端な例では人間の脳の仕組みはすべて解明され、脳の機能はすべてコンピュータにより実現可能である(いわゆるシンギュラリティという考え方)と考える学者も米国などでは多いと聞く。しかし、コンピュータはあくまで人間に使われる道具の一つであり、その利用法も人間に資するもの出なければならない。
2021年2月ミニトーク 永野
(1)ワーカーズコープ
石牟礼道子の世界 2021年1月 永野
石牟礼道子は水俣病の惨状とそれに基づく自らの思いを吐露した優れた作品を世に出した作家・エッセイスト・詩人である。水俣病は戦後まもなく熊本県水俣市で化学工業会社チッソの工業廃水の海洋放流により引き起こされた有機水銀(註1)による海洋汚染である。著作‘苦海浄土’はその惨状とそれに対する彼女の独特の寄り添いを記したものである。水俣市在住の石牟礼はこの惨状を目の当たりにし、患者に寄り添うとともにチッソへの抗議活動にも参加した。その寄り添い方は尋常なものではない。チッソ本社前での患者たちの抗議の座り込みに自らも参加し、毛布にくるまって寒気を凌ぎながら毎日抗議を続けたという。
石牟礼の持つもう一つの特性は自然に対する畏敬の念である。自然豊かな水俣の海、そこから得られる海の幸を糧に、人々は物的豊かさではなく心の豊かさを大事にして生きてきた。チッソがその自然を破壊するまでは。自然との共生を水俣に取り戻すという思いは、本来人間は生き物の一つに過ぎず自然の中でしか生きられないという考えに根ざしている。
環境問題と科学技術 2020年10月 永野
環境汚染の問題に特に関心のない方もレイチェル・カーソンという生物学者の名前はどこかで耳にしたことがあるであろう。彼女は合成化学薬品とくに農薬に使われていたDDTなどの殺虫剤で自然界の生物(主に鳥や昆虫などの動物)が大量死し、自然生態系のバランスを著しく損なっていることを膨大な調査結果をもとに示し、その害の重大性を訴えた(1962年の著書‘沈黙の春’)。彼女のような自然回帰志向の学者に対する業界からの反発は常に起こることであるが、彼女の場合も御多分に洩れず化学薬品工業界から囂々たる批判が起こった。この問題について時の大統領J.F.ケネディは大統領諮問機関に調査を命じ、その結果をもとに環境対策を怠った政府の責任が追及され、DDTの使用が禁止された。これを契機に環境保護運動が世界的に広まっていった。
2021年1月ミニトーク 永野
(1)民主主義
(2)日本の民主主義
(3)学問の独自性
今問題になっている日本学術会議の在り方に関し、科学技術担当大臣(井上信治)が産業界と学会の緊密な連携や、産業界出身の学術会議会員の増員などを検討しているという。しかし、科学技術は‘学術・学問’の一部に過ぎず、その産業界との連携を学術会議内で強調することは大いに疑問である。第二次世界大戦時に科学技術者を積極的・強制的に戦争に参加させたこと(例:毒ガスなどの化学兵器開発)への反省という側面からも学問の独立性は重要であり、政治から切り離して考えられるべきものである。その意味でリベラルアーツ(いわゆる一般教養的な学問)の重要性が再認識されなければならない。安倍政権時にあった一般教養や文系学部の廃止と産業振興に役立つ科学技術教育研究への偏重は避けられるべきである。 地球と仲良く生きていこう 2020年8月 永野
人間がこの地球上でどう生きるかということに対しては諸説があるであろうが、人類が生存し続けることがその根底にあるという考えには異論がないであろう。このことを踏まえるならば、人間が地球の自然というエコシステムの中で生きている生物の一つに過ぎないという大前提を理解しておくことが必要である。
太古の昔、人類は他の生き物と同じく地球のエコシステムの中に完全に取り込まれて生きていた。その状態が狂い始めたのは今から約一万年前人類が農耕と牧畜を始めた時である。しかしこの段階までは自然の包容力の大きさのおかげで問題は生じなかった。人類が自然の包容力を逸脱し、公害という形で自然に害を及ぼすようになったのは産業革命で人類が動力機関を発明してからである。動力を得るために太古の昔にできた化石燃料を消費することで現在の自然が供給するエネルギーの限界を逸脱してしまったのである。この逸脱の悪影響は自然の包容力の大きさのために人間はすぐには気づくことができない。
坂の上の雲 2020年10月 永野
これは日露戦争を題材にした司馬遼太郎の著名な小説(1968~1972)のタイトルである。小説の内容はほとんどの方がよくご存知であろう。ここではこのタイトルに関連して少し論じてみたい。‘坂を上る’ということは、欧米先進国に経済的にもその他の面でも追いつくことを意味する。‘雲’が意味するところは、坂を上りきり、欧米に追い付いてみたらそこには雲が立ち込め、先が全く見えなかった、ということであろう。日本も20世紀後半欧米に追いついた段階でその先の自国独自の道を切り開くべきであった。モノづくり産業で発展を遂げて来た日本は、その後もこの産業形態で発展が可能であると考えて産業形態の改革を怠った。しかし世界はグローバル化の一途をたどり、モノ作りは労働力豊かな途上国に移り、日本のお家芸の時代は終わっていた。欧米はこの流れをいち早く察知し、情報産業を中心とする産業形態に移行したが日本はこの流れにうまく乗ることができなかった。
トップは女性の方がいい!? 2020年11月 永野
世界中で相変らずコロナ禍が続いているが、このようなパンデミック状態では国のトップの力量の差異が際立ってくる。特に目立つのがドイツのメルケル、ニュージーランドのアーダーンなどの女性指導者たちである。メルケルはいち早く国民の移動制限を実行して感染の拡大を防いだ。その制限の必要性についても説明をし、国民の理解を得た。また、アーダーンはコロナ流行の最初期から入国禁止などの強硬措置を実行して、感染を防止した。ニュージーランドは観光立国であるから、この措置による経済への打撃は極めて大きい。それに対する対応も迅速で、同国のGDPの4%に当たる大規模な経済対策を打ち出した。ともに迅速な対応でコロナ被害の拡大を抑えることに成功している。この二人に共通しているのが強硬対策の必要性を国民に納得がいくような言葉できちんと説明をしていることである。すなわち優れたコミュニケーション能力を備えていたということである。二人とも迅速な対応の決断力と国民を納得させる説得力というリーダーに必要な資質を備えていたということである。それに対し、対応が場当たり的で説得力に欠ける代表例としてはトランプ大統領や安倍前首相らがあげられるが、これらのトップはともに男性である。これらのことから組織のリーダーとしては女性のほうが高い資質を持っている、という人もいる。しかし男性でも過去に優れたリーダーは数多くいたのであるから一概にそう結論付けることはいかがなものか。要はその人の資質の問題であって、ジェンダーによる差ではないと思う。ただ、今までは男性社会が通例であったから、女性のリーダーが前面に出ることが少なかったということであろう。これからは男女に関係なく、優れたリーダーの資質を持つ人がその力を発揮できるような社会を築くことが重要であると思う。日本では特にこの男性中心の悪しき風習が根強く残っているし、女性の社会進出が進んでいると考えられる米国でも女性が大統領に選ばれたことはなく、ガラスの天井があるといわれている。西欧では上記以外にも女性が首相をはじめ政治的な重要ポストに就いている例が少なくない。これはクオータ制度(註1)によって積極的に女性の政治参加を推進したことによる。日本もその制度を導入するべきであろう。その必要性の意識は女性議員をはじめ政治に関心のある女性の間に浸透しつつある。今回の首相指名選挙では一人の女性国会議員が他の女性議員に投票したという。女性の政治への意識改革が目的であるという。
森友問題の追及を続けよ 2020年11月 永野
日本の政治は安倍首相から菅首相へと引き継がれた。安倍路線の継承である。これでは安倍政権が残した大きな問題の解決は進展しないであろう(それが菅首相誕生のおもな理由であろうが)。俗にモリ・カケ・サクラといわれている問題はもとより、それ以外にも安保法改定、検察庁法改定などの諸問題の解決が国民に納得されるような形ではなされていない。これらの問題はどれ一つをとってみても、これまでなら内閣総辞職につながる大事件である。ここではその代表的な問題として森友学園への国有地払い下げ問題を見てみよう。
この問題の最大のポイントは絶対にあってはならない公文書の改ざんである。これを実行するように上(大本は佐川理財局長(当時)といわれる)から命じられたのは近畿財務局の赤木俊夫さんである。公務員にとっては上司の命令は絶対である。公文書の改ざんという禁を犯して国民を裏切ることと上司の命令に従わないことの板挟みになって深く悩み、結局上司の命に従って改ざんを実行し、その落とし前として自らの命を絶つことを選択したのである。一般社会での通常の感覚からいうと、上司の命令と公務員に課せられた禁とどちらが大切かといえば後者が大切であると考える人がほとんどであろう。彼自身も‘私の雇い主は国民です’と常々言っていたというから、なぜその信念に従わなかったのであろうか、ということが大いなる疑問として残る。一般に公務員にとっては、上下関係は絶対的なもので、自分が納得いかなくても上司の命であればそれを行わなければならないという。これは公務員となった時点でしっかりと教育されるという。財務省ではこれが特に厳しく、省の不利益になるようなことは絶対に許されないという。
社会的共通資本 2020年9月 永野
宇沢弘文は日本が世界に誇る優れた経済学者である。彼は若いころからアメリカで研究活動をして認められ、日本に帰国してからも独自の視点で経済学を進展させた。その業績は世界の著名な経済学者の多くがノーベル賞に値すると評価している。社会的共通資本の概念は、その代表的な成果の一つである。
マルクスの思想変遷 2020年9月 永野
19世紀ドイツの思想家カール・マルクス(1818~1883)は一般には‘資本論’の著者としてよく知られるが、彼の思想は生涯にわたって3段階の大きな変化を遂げている。特に晩年の考え方は現代の世界最大の問題である気候変動・環境問題に通じるもので、現代社会にも大いに役立つものである。
参考:斎藤幸平、‘人新世の「資本論」’、集英社新書(2020・9)
ピケティの宗旨替え 2020年10月 永野
トマ・ピケティという名前をご記憶の方も多いと思う。フランスの経済学者で、数年前にその著書「21世紀の資本」で世界的な大ブームを巻き起こした人物である。その内容などについては種々の刊行物で紹介されており、このコラムでも紹介した(註1)。この本での彼の主張は、要は資本主義は本質的に格差を助長するものであり、それを是正するためには所得税、資産税、相続税などで累進性の強い課税が必要である;その税収の再配分により格差増大などの資本主義の欠点を是正できる、というものである。これは資本主義的な経済システムを許容し、その中で格差是正のための方策を追求する、ということである。スティグリッツをはじめ他の著名なリベラル系の経済学者も同様な考えを持っていた。
今月の2編の別稿で資本主義の不合理性を説明し、その不合理を解消するには‘参加型社会主義’という考え方を世界に普及させることが必要であるとする識者たちの考えを紹介した。その考え方は十分に分に納得できるものであるが、それをどう実現するかが大問題である。我々は資本主義社会にどっぷりつかり、それが当たり前であると考えている。資本主義システムから脱却せよと言われてもどうしたらよいのかわからないし、現在資本主義的な世界で富と権力を独占している人々からの強い抵抗を乗り越えるのは至難の業であろう。
”‘20年10月ミニトーク 永野 俊
(1)偽という字の構成を見ると、人の為に為すとなる。
人間と自然の支え合い 2020年7月 永野
このコラムで人間社会のあり方について何度も指摘していることであるが、人間は一人では生きられない。よく引き合いに出されることであるが、‘人’という文字は2本の棒が支え合って成り立っている。それは人間社会というものが、人々がお互いに支え合う仕組みを作ることにより成り立っていることを示している。詩人・書家相田みつをは、奪い合えば足らないが分け合えば余る、という言葉を遺している。至言であろう。
ゴリラ社会から学ぶこと 2020年7月 永野
ヒト、サル、ゴリラなどはいわゆる霊長類と呼ばれる。その中でもゴリラとヒトは系統がより近く、その社会を観察することで人間社会のあり方について多くの示唆が得られると霊長類学者山極寿一(京大学長)はいう。
20年9月ミニトーク 永野 俊
(1)強いコロナは流行らない
今回騒動を起こしている新型コロナウィルスをはじめとして、一般にウィルスには興味深い側面がある。ご存知のようにウィルスは自身だけでは増殖できず、人間をはじめとする宿主である生物の細胞を利用して増殖する。この増殖過程でコロナ自身が変異するが、それには宿主生物を死に至らしめる強いものから、宿主にあまり害を与えない弱いものまである。強いウィルスは宿主を殺すから繁殖の母体自身を破壊するので増殖しにくい。一方弱いウィルスは宿主と共存する傾向があるので広く増殖できる。この差で強いウィルスの流行は収まる側面があるという(6月18日Eテレ、サイエンスZERO)。今多くあるインフルエンザウィルスなども一時期は大きな流行を起こして、その後上記のプロセスを経て存続しているものが多いのではないかと考えられている。
民主主義はどのように崩壊するのか 2020年8月 永野
ソ連の崩壊で冷戦が終了し、世界中の国が欧米にならって民主主義国となるであろうとアメリカの著名な政治学者フランシス・フクヤマは予測し、多くの人々もそうなることを期待した。しかしその期待は見事に裏切られ、各所で独裁的政治が台頭した。その背景には民主主義国は自由主義経済で動いており、それが格差を助長し底辺での生活を強いられる人が増えたことがある。これらの人々が強権政治を望んだことともに、宗教問題、人種問題が表面化して対立が起こったことなどもその一因であろう。
黒人問題とアメリカの発展 2020年8月 永野
Black lives matterという言葉とともにアメリカ全土において有色人種差別を批判する運動が広がっている。これはご存じのように白人警察官が些細な理由(註1)で当事者黒人を殺害した事件を発端としている。
’20年8月ミニトーク 永野 俊
(1)コロナで人類絶滅??
(3)一般法は特別法より上位ではない
コロナで人間の生き方は変わるか 2020年7月 永野
資本主義とグローバル化により地球上での人的・物的交流が極めて盛んになった現代では、疫病問題だけではなくあらゆる面で他国、他民族の影響が避けられない状況にある。先にも書いたが、その典型的な例が環境問題・気候変動問題である。大気汚染や海洋汚染などは一国の問題として解決することは不可能で、人類が共有する問題として地球全体として取り組まなければ解決しないものである。大気や海洋は地球全域で繋がっているからである。コロナの流行はこのような人類が共有すべき問題をどうとらえるかということを我々に考えさせるよい機会を与えてくれたとポジティヴにとらえるべきであろう。発生源がどこの国かなど、国レベルで争っている場合ではないのである。これを機にこの地球上で人類が共に生きて行く術を考え、我々の生き方を考え直す機会ととらえるべきである。
このような考え方をベースに人類の生き方を考える上で最大の問題となるのが、いま世界を支配している資本主義に基づく自由主義経済のあり方である。これは世界中で格差を増大させ、貧困層を窮地に陥れる。貧困層はスラム街を形成し、そこでは衛生状態も悪く疫病の温床となっている。多くの国では国民皆保険制度が設けられておらず、このような地域に住む人々はでは医療も十分に受けることができない。従ってコロナ蔓延の温床と化してしまうのである。先進国を自負するアメリカであっても、格差が大きいためにコロナ蔓延が防げていない。コロナ死者数は世界最多であり、スラム街の住人の多くはアフリカ系をはじめとするいわゆるマイノリティであるが、これらの人たちのコロナによる死亡率は白人に比べ圧倒的に高い。
ハンナ・アーレント-人類への愛― 2020年5月 永野
アーレント(1906~1975)はドイツ生まれのユダヤ人で20世紀の最も優れた哲学者・思想家の一人である。ナチ時代のドイツを支配した全体主義システムを分析し、その成り立ちと仕組みに対する独自の考え方を提示したことで知られる。1933年にナチが政権をとり、ユダヤ人を廃絶する動きに出てからは、ヨーロッパ各地を転々とする逃亡生活を送る。最後にはアメリカに亡命し、そこでの文筆活動により次第に名を知られるようになった。
人間の人格の徹底的な破戒を導く全体主義は因果関係といった伝統的な方法で説明できるものではなく、先例のない出来事として考える必要がある。官僚制という誰でもないものによる支配が自動的に社会を動かし、個々人による判断と責任を蔑ろにする風潮を生じさせた。また、人種主義との癒着を誘発し、差別を必然的・宿命的なものとする考えも正当化されていった。アーレントはナチズムやスターリニズムのような全体主義的な支配が今後も起こりうると警告している。これを避けるためには個々の人間が異なる考えを持つことを認め、その差異を認め合うことが重要であるという。一人ひとりの人間の尊厳を保障する社会的空間は死すべき人間の一生を超えて存在しなければならない、という。
最後に彼女のアメリカでの評価を記しておこう。複数の著名な大学で教鞭をとったが、国家における市民の役割と責任を考えさせる講義内容は多くの学生たちの高い評価を受けた。60~70年代のアメリカの政治や社会について学生たちが批判的な側面も含めてよく考えるきっかけとなった。ベトナム戦争反対の運動の盛り上がりと無縁ではないであろう。
(註1)アウシュビッツでのユダヤ人大量虐殺の指揮を執ったアイヒマンの裁判
‘‘20年7月ミニトーク 2020年7月 永野 俊
(1)日本は先進的な住みやすい国?
環境問題では福島であれだけ大きな事故を起こしたにもかかわらず、電力は原発依存を脱せず、再生エネルギーへの転換でドイツなどの欧州諸国に大きく後れを取っている。食品でも問題の多いゲノム編集食品の審査があまく、ここでも欧州に大きな後れを取っている。我々は見かけの状況に満足し、政治に無関心な態度をとり続けているのではないか。日本の政治、経済などの長期的なあり方にしっかり関心を持たないと、静かに押し寄せるあげ潮に気付かず遊ぶことものように、あるいはじわじわ温度が上がる釜の中の蛙のように、気づいた時には手遅れ状態の陥る危険性が大いにある。
情報のフェイク性を確認しよう 2020年5月 永野
AIのディ-プラーニング技術を使ってフェイク画像やフェイク発言(これをディープフェイクという)を作ってネットで拡散させることが頻繁にみられるようになった。選挙などで相手候補を貶めるためによく利用される。拡散も自動的に行える技術もあるそうだ。先のアメリカ大統領選挙ではトランプ陣営がこれを駆使したといわれる。大統領選挙後であるが、トランプ陣営が、オバマ前大統領がトランプ現大統領をののしる映像をこの手法で作成してYouTubeで流したことは有名である。
今はネットにより情報の拡散が容易になっているのでこの種の情報操作は今後急速に増えるであろう。最近売り出し中の哲学者マルクス・ガブリエルが指摘するようにネット情報の信憑性をチェックすることが極めて重要になってきている(註1)。これも技術が必ず持つその負の側面をチェックして歯止めをかける必要性を軽く見た人類のミスであろう。
地球温暖化対策を! 2020年6月 永野
人為的な活動による大気中のCO2などの温室効果ガス増加が地球温暖化を招き、地球の自然生態系に悪影響を及ぼし、人類の生存を危うくする懸念があるということはご存知であろう。この問題に対する取り組みは今から約30年前に国連により始められた。以来温暖化を含む環境問題は種々の形で取り上げられ、対策が検討されてきたが、現在でもその有効な対応は出来ていない。原因は色々あるが、南北問題など国間の貧富の格差、経済中心の世界的傾向、人々の危機感の欠如などが主な要因であろう。
地球の気候変動は大昔からあり、温暖期と寒冷期を繰返してきた。現在の温暖化傾向もその一つに過ぎず、単なる自然現象である、と考える人もいる。しかし自然現象による気候の変動は急激に起こるものではない。何百年、何千年かけてゆっくりと変化するものである。しかし現在起こっている温暖化はここ数十年で急激に起こっているのである。ここ100年で0.74℃上昇している。大した上昇ではないと思う方も居られると思うが、世界全体でこの上昇が起こっているのだから地球にたまっている熱量の増加は膨大である。人類はゆっくり温度が上がる釜の中にいるカエルのようなものでその変化の深刻さに気付いた時にはすでに時遅くゆでガエルになってしまうのである。識者の警告を受け入れて、人類全体がその危険性を認識し、温暖化防止に向かって対応をしない限り人類は確実に滅ぶ。
20年6月ミニトーク 永野 俊
(1) コロナに対する日本の対応
コロナとその後 2020年5月 永野
ご存知のようにいま世界は新型コロナウィルスに席巻されている。世界中で4百万以上の人が感染し、すでに30万人近くの人々が亡くなっている。最近はテレビも新聞もこの話題ばかりでいささか食傷気味であるが、情報はしっかり把握しておかなければならないであろう。それをベースに各国、各地域、各個人はそれぞれの立場でしっかりとした対応をしなければならない。この場合の対応の仕方はあくまでトップダウン的ではないことが重要である。今年の初め(2月)にこのコラムにも書いたが、このような緊急事態の状況は地域によって異なるから、その対応は各地域のトップに多くの権限をあたえるべきであろう。日本ではとかく中央政府が前面に出てくるが、実情を詳しく把握しないままで采配を振るうことは弊害を招くことにつながる。中央政府は各地域の施策が実行されやすいように、人・モノ・金・情報による後方支援に回る姿勢を持つべきである。具体例を挙げれば、都の自粛要請の範囲について政府が細かく口を出していたが、これは本来やるべきことではない。都は政府の細かい指示を受け入れていたが、本来これは知事の裁量で決めて良いことなのである(片山善博前鳥取県知事)。その意味で大阪府の吉村知事の対応は正しい。
メルケルと安倍 2020年5月 永野
ドイツのメルケル首相も日本の安倍首相も長期政権である。しかし、私見ではあるが、二人に共通点は少ないように思われる。メルケルは国民の多くから批判されるような政策は行っていない。常に国民の目線に立った政策を行ってきたように思える。原発廃止に関してはチェルノブイリ事故の影響が国内にも広がり、原発の負の側面を考慮して国民の命を守るためには廃止すべきであるという諮問委員会の結論を受け入れて決定した。メルケルの属するキリスト教民主同盟は原発推進が党是であったにもかかわらず、である。移民受け入れはEU存在意義の確認であり、大戦の償いの意味で国民の多くの思いでもあった。
未来への大分岐I―21世紀の共産主義?!― 2020年4月 永野
グローバル化、資本主義、情報テクノロジーの暴走により世界中で格差や混乱が広まり、この地球上で人類が共生することに暗雲が立ち込めている現代である。この危機的状況を放置すれば、人類の滅亡につながると危惧している識者は少なからずいる。気鋭の経済思想家斉藤幸平が、この事態を憂い高い視点から解決策を模索する3人の世界的な論客と中身の濃い議論を交わした。その内容(参考)をレポートしておこう。
なお、あのカール・マルクスも、社会的な協働とともに地球資源と生産手段をコモンにすることが大切であると言っている。150年も前の時代に地球自然の大切さと生産手段のコモン化に言及しているのはさすがである。
上記のような本来の意味での発展には技術の発展そのものが問題になるという人もいるがそうではない。技術をいかに人間が使うかが問題なのである。経済的利益を得ることだけを目的として技術を活用することにこそ問題があるのである。一般的に、技術にはプラスの側面に伴って必ず負の側面が伴うものである。人間はその点を十分考慮して対応しなければならない。スキルの要らない仕事はAIとロボットに置きかえられていく。そのこと自体は新しい技術を使って人間のためになるコモンを生み出すという意味でプラスの側面を持つが、同時に負の側面も出てくる。たとえば、今まで知識やスキルによってなされていた仕事が情報技術などにより知識・技術を持たない人でもできるようになり、安い報酬で仕事が片付くようになる。もっと極端になればその仕事を全部機械化することが可能になる。このような労働者への圧迫をどう解決するかということも大きな問題である。このようないわゆる‘発展’により得られた利益はその多くが資本家に吸い上げられ、格差助長につながるのである。これはこの地球上で人間社会を発展させることにはならない。
(註2)商品やサービスを提供する企業と利用者が結びつく場所
参考:斉藤幸平編、‘未来への大分岐’、集英社新書(2019)
未来への大分岐II―新実在論とは― 2020年4月 永野
マルクス・ガブリエル(哲学者、ボン大学教授)はフェイクニュースなどのポスト真実(註1)の横行で、現代社会のあり方が大きく歪み、客観的な事実に基づく健全な社会が危機に陥っているという。この危機感は多くの人々が共有するものであろう。彼はこのような社会を立て直すためには現実を踏まえた哲学が必要であるという。‘新実在論’という新しい哲学の考え方を提唱し、それを基に健全な社会を取り戻す活動をしている。
(註1)世論の形成において客観的な事実よりも感情や個人的な思い込みへの訴えかけの方が影響力を発揮している状況(オックスフォード英語辞典の定義)。同辞典の2016年の今年の言葉として選ばれている。
未来への大分岐III―ポスト資本主義― 2020年4月 永野
資本主義に支配され、貧富の格差がどんどん増大する現代社会が問題であることは多くの人々が共有することであろう。その欠点を克服しよりよい社会を築いていくにはどうすればよいのであろうか。この問題について独自の見解を打ち出し、世界的に注目されているポール・メイソン(イギリスの経済ジャーナリスト)の意見を概説しておこう。
資本主義経済は環境問題とも深くかかわる。人間が自然の限界を無視し、その支配を妥当とする考えは我々が棲み家とする地球の破壊につながる。ポスト資本主義への道を切り開くにはこの問題を考えることがカギとなる。気候正義の認識が必須でこの問題に真剣に向きあることがこの地球規模の問題の解決のベースになる。これにはA・オカシオ・コルテスの提唱するグリーンニューディール政策が一つの優れた考えで、これは経済を人間的なものに導くものである。それを定常型経済の形をとるポスト資本主義として実現させるためにはやはり市民が関わる社会運動がしっかり機能する必要がある。ポスト資本主義では人間による技術の管理が必要でありシンギュラリティ(註1)を待望して、それに支配を委ねることがあってはならない。
上記の議論では国家というものの存在意義が薄れていることがうかがわれる。しかし国家は必要である。国家には企業、コモンをベースにした生産システム、協同組合、非営利団体など多様なもので構成される経済・社会を支援する役割が求められる。もちろん国家だけでなく下からの社会的協働が重要であることは言うまでもない。また個々人の意識改革も重要であろう。資本主義化で自由に重点が置かれ過ぎたのではなかろうか。
(註2)斉藤幸平、「気候危機の時代における資本主義vs民主主義」、世界(2020.1);あるいは永野‘気候正義’http://t-nagano .net/ 2020年1月。
‘20年4月ミニトーク 永野 俊
(1)資本主義のブラック化
今月の別稿‘マルクスの資本論’でも指摘したが、いま資本主義社会は資本家の労働者からの搾取が横行して格差が広まり、資本主義のブラック化が起こっている。これを放置すれば資本家による労働者への搾取増大→労働者の生活環境の悪化による非婚化→労働力の再生産の低下→資本主義の崩壊というプロセスが起こることが予想される。これに歯止めをかけるには中間団体(労働組合、協同組合などの非営利団体)が力をつけること、カネを離れた相互依存関係を形成することが必要であるといわれる(註)。社会システムとしては社会福祉政策を重視する後期資本主義が望まれるところである。労働者無くしては資本主義は成り立たないことを資本家はしっかりと理解しておくことが必要である。
イスラム教の創始者ムハンマド(マホメット)も大商人の家に生まれた商人であった。だからイスラム教典には商いについての記述が多い。生産がないから生産のための資金の貸与による利子取得の考えを否定する。この教ええに矛盾しないために、出資者は共同経営者になり、利子ではなく生産による利益の一部を取得する、という。
(3)安倍首相の裏切りは遺伝か?
マルクスの資本論 2020年3月 永野
第二次大戦後世界は資本主義(自由主義)と社会主義(共産主義)という二つのイデオロギーの対立で、東西冷戦の時代を迎えた。この長い対立は1991年のソ連崩壊で決着を迎えた。アメリカのネオコン思想家フランシスフクヤマはその著書「歴史の終わり」で自由主義の勝利を高らかに謳った。しかしその論は安易な楽観主義に過ぎず、その後世界は資本主義の暴走による格差拡大を招き、社会の不安定を生じさせた。この不安定性が共産主義のバイブル的存在であった‘マルクスの資本論’を再び注目させることとなった。
経済学者スティグリッツの正論 2020年3月 永野 俊
スティグリッツはアメリカの経済学者で2001年ノーベル経済学賞を受賞しており、人類の共生に関して筋の通った全うな議論を展開している。彼の言によれば、アメリカが格差拡大で社会システムを歪めているのは富裕層が経済に貢献する以上に稼いでいることに起因する。従って富裕層に対する増税が必要であり、それにより労働者の労働環境改善や福利向上を目指すべきであると主張し、具体的な運動も起こしている。現在の世界経済システムのあり方に疑問を呈し、新自由主義もグローバル化も失敗である、という。グローバル化の一翼を担う規制緩和についてこう述べている。規制緩和によりバブル経済や世界金融危機が引き起こされた。目指すべきは規制緩和などではない。適切な規制はどうあるべきかということが問題なのである。規制の無い社会が機能するはずもない。問題にすべきことはどのような規制がよい規制であるか、ということである。
’20年3月ミニトーク 永野 俊
(1)戦後処理―日本とドイツの差―
この解釈は納得ゆくものであるが、それ以外に国民性の違いもあると思われる。何事も論理的に考え、白黒をはっきりさせる傾向がある西欧に対して、日本はあいまいでグレイゾーンを受け入れ、お上の考えに従順な傾向があることが、戦後処理の曖昧さを引きずっていると思う。これでは被害を受けた国々は納得できないのではなかろうか。曖昧さということは昨今よく言われる多様性を認めることにもつながり、よい側面もあると思うが戦後処理問題に関してははっきりと国の謝罪の姿勢をあきらかにするべきであろう
(2)‘国’は人の人権を守るためにある。
悲しみは癒しのもと 2020年2月 永野
人は肉親などの身近な人と死別すると大きな悲嘆に暮れる。とくに親がわが子を失った場合の悲嘆は大きく、周りの人々がこれを癒すことは不可能に思える。民俗学者柳田國男は子供に先立たれ、悲嘆に深く沈み、死とそれに伴う悲しみというものの本質を考え抜いた。柳田はその思索の結論をつぎのように述べている。悲しみの感情やそれに伴う落涙などの所作は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源となるものである、と。確かに悲しみはそれを負った当人以外には対処しようのないものである。思い切り悲しみ、泣きわめき、その感情を外に発散する。その行為が底しれぬ喪失感を癒し、明日に向かって生きる力を与えるのであろう。周りの人々はそれに寄り添い見守ることしかできない。死んだ人はいかにしても現世に戻ることはないのであるから、諦めよ、忘れよといった安易な言葉は決して当人を癒すことはなく苦しめるだけである。本人は死に別れた近しい人を忘れようとは決して思わない。彼は死者と現世に生きる者とのつながりを‘魂’の存在という形に求めている。自分の中でその死を‘魂’というものに昇華させてその死者との関係を保ち続けたいのである。
自民党の新憲法改正案―問題点その2― 2020年1月 永野
自民党の改憲案には4つの項目があるが、そのうちの①‘9条への自衛隊明記’と②‘緊急事態条項’ 設定は特に大きな問題がある。①についての問題点はすでに本コラムで指摘した(2020年1月ミニトーク)ので、ここでは②についてその問題点を記す。
国家緊急権は災害発生後泥縄式に権力を政府に集中させるものであるが、それはほとんど効果がないと言える。災害対策に関する法律はすでに十分に整備されている。内閣は大災害時には物価の上限や生活必需品の配給などの政令制定権が認められており、防衛大臣には自衛隊や警察の動員権が定められている。要するに既存の法律ですべて対応可能ということである。また実際の災害現場では現場に詳しい市町村が主導して対応を行うべきで、国は上記のような後方支援に徹するべきである。現場の個別事情に詳しくない中央政府が主導すれば個々の災害現場にはそぐわない画一的な施策が強行され現地の住民が混乱に陥る。中央政府は現場の対策を主導するのではなく、人・モノ・金による後方支援に徹するべきである。結論は‘災害をダシにして憲法を変えてはならない’ということである。
‘2020年2月ミニトーク 永野 俊
(1)最後の判断は人間が下す
恩返しという言葉はよく使われるが、この言葉はあるいは耳慣れないかもしれない。しかしこれは社会をうまく機能させるために極めて重要な考え方である。
気候正義 2020年1月 永野
気候正義とは温暖化による気候変動が引き起こす構造的不公正を指摘し、その是正を求めることである。世界のトップ10%の人々による温暖化ガス(CO2など)排出量は全体の半分を占める一方で、下位半分の人々の排出量はわずか10%に過ぎない。世界のわずか100社が全排出量の71%を占めているというデータもある。一部の豊かな人々の過度な物欲と消費が許される現在の社会システムの不合理性は明らかであろう。問題は若者、途上国の人々、先進国の社会的弱者などが気候変動の悪影響に圧倒的に晒されていることが不平等性を助長していることである。気候正義はこのような権力・従属関係が存在する社会のシステムそのものをただすことを求めているのである。
気候変動とグラスルーツ運動 2020年1月 永野
昨年の国連気候変動サミットで16歳のグレタ・トゥンベリ(スウェーデン)が気候変動に対処しない各国政府(特に先進国・新興国)と世界の大人たちを激しく非難して、対策に着手するように求めたことはよく知られている。彼女の言動が注目された背景にはここ十数年世界の若者たちの国境を越えた活動―グラスルーツ運動―があることを忘れてはならない。‘グラスルーツ’とは文字通り草の根民主主義の意味で、一般市民一人ひとりが積極的に政治に参加することを意味する。
20年1月ミニトーク 永野 俊
(1)サイバーセキュリティ
(2)自民党の憲法改正案
人間が棲める地球を―水素社会の可能性― 2019年12月 永野
近年世界中で暴風雨や森林大火災、大干ばつなどが頻発し、地球温暖化がその原因であるといわれる。地球温暖化については1990年末に国連がその防止策検討のための会議を設置し検討が開始された。しかし温暖化防止対策の具体的な進展は見られず、今日まで温暖化の主因であるCO2の排出は増加の一途をたどっている。先進国では削減技術の開発などでほぼ横ばいであるので、非先進国への削減技術移転はその一助となるが,彼らはそれを無償提供しようとしない。温暖化には国境がなく世界中の国々が力を合わせて取り組まなければ解決できないものであるから技術提供に見返りを求めるのは筋違いである。なお、人類の化石燃料消費活動以外にも温暖化による海水や永久凍土などからの温暖化ガス(CO2, メタンガスなど)排出の影響も大きいといわれる。いまや世界での排出量をゼロにするだけでは温暖化は止められず、大気中の既存のCO2を回収する必要があるといわれる。
らある再生エネルギー(風力、太陽光、地熱などなど)技術の更なる開発と普及はもちろん重要であるが、もう一つエネルギー源としての水素の普及も重要である。水素の利用で排出されるものは無害な水のみである。水素を得るには電力が必要であるが、再生エネルギーは多くの場合生成が不安定で天候や時間帯に依存して供給が過剰になる場合がある。この余剰電力を水素の生産に使えばよい。エネルギー源としての電気の電池による貯蔵は長時間にわたる大きなパワー供給が問題点である。このため大型の輸送機器(航空機、輸送船、大型長距離トラックなど)は全てエネルギー源を化石燃料の依存していた。水素はこの問題を解決できる。
より根本的な問題は人類社会のあり方である。人類は産業革命以来地球の資源を食いつぶしながら経済的発展を遂げてきた。いま世界で主流の資本主義に基づく自由主義経済を踏襲することが問題なのである。これが人々に金銭的価値観、物的価値観を植え付け消費経済を進展させてきた。しかしこの道筋の先に未来はない。資源は枯渇し、人類はその棲家である地球を汚染し続けて、そこでの棲息を不可能にしてしまう。地球という天体は残っても人類をはじめとする生物はこの地球から消え去るであろう。人々はこのことを肝に銘じて社会のあり方を変えて行かなければならない。極めて困難なことであるが・・・。
グローバル化とダイバーシティ 2019年12月 永野
この二つの言葉はいま世界での種々の問題を議論するときに頻繁に用いられているものである。この二つは相反する要素を多く持っているので、グローバル化の流れの中でダイバーシティ(多様性)をうまく生かすことは困難なように思える。その問題点と可能性について少し考えてみたいと思う。
ご存知のようにグローバル化とは社会的・経済的に国や地域を超えて世界規模でその結びつきが深まることである。グローバル化には次の3つの側面がある。①帝国主義的側面があり、双方がウィンウィンになるようにはなりにくい、②文化的に異なる背景を持つ地域が交流するのであるからそこには種々の軋轢が生じ、弱い立場の地域の文化の破壊が起こりやすい、③技術や物流の活性化による経済の進展、途上国の文明進展(科学技術、医療など)などのメリットもあるがこれには陰の面が付きまとう。特に経済で先進国支配の傾向が生じてしまう傾向がある。
参考:朝日教育会議‘グローバリゼーションforダイバーシティ’法政大学(‘19/11/30)
中村哲さんの死を悼む 2019年12月 永野
アフガニスタンで人道支援活動をしていた中村哲さんが12月4日に何者かに銃撃されて亡くなった。この惨劇は新聞やテレビで大々的に報じられているが、小生なりのコメントを少々しておきたい。この惨劇の原因については諸説がある。アフガニスタンは政府軍のほかにタリバーンやIS(イスラム国)などの軍事組織が対立関係にありそれに巻き込まれた;用水路の利権をめぐる部族間対立;政府を支援する米国と日本の親密関係に対する反感;などなどである。その中で、政府と対立する軍事組織が戦闘員として若者を勧誘するためには中村氏の活動が邪魔であったという説が信憑性を持つように思える(註)。アフガニスタンは戦乱や旱魃などで荒廃し、都市部へ出てその日暮らしをする若者が増えた。反政府軍事組織(タリバーン、ISなど)はそれらの若者を戦闘員として勧誘する。中村さんらの活動は荒廃した農地に用水路を設けて農業活動を再開させ、若者を農業に戻らせるものである。したがって若者を戦闘員として取り込みたい軍事組織は彼の活動に反感を抱く。
余談であるが、彼には人道支援家としての血が流れていたようである。彼の母方の祖父玉井金五郎は北九州の沖仲仕(港湾労働者)の一組合の長であったが、厳しい労働と貧しい生活を強いられていた沖仲仕たちの生活向上のための運動を起こした。暴力団との抗争で重傷を負いながら戦ったという経歴の持ち主である。中村氏はこの祖父から弱者救済の血を受け継いでいたのであろう。この玉井金五郎の生きざまは中村氏の母方の伯父である小説家の火野葦平によって長編小説として描かれた。タイトルは「花と竜」(はなとりゅう)で、昭和27年(1952年)4月から翌28年(1953年)5月まで読売新聞に連載された。また映画化もされて好評を博した。
(註)師岡カリーマ、‘中村医師が暴いたウソ’、東京新聞本音のコラム(12月第1週後半)
19年12月ミニトーク 永野
(1)徴用工問題―日本の対応の不合理性―
免役療法では免疫細胞(T細胞)にがん攻撃機能を持ち続けさせるようにT細胞の遺伝子を改変する。この操作には従来はウィルスが用いられていたがこの手法では患者1人分の改変T細胞をつくるのに5000万円の費用がかかる。しかし最近日本人研究者により、ウィルスの代わりに酵素を使う方法が開発され費用が10分の一になった。この手法での治癒率は80~90%にも上るという。費用の更なる低下と臨床に応用の認可が待たれる。
眠ることは良いことだ! 2019年10月 永野
人間は一日に数時間の睡眠をとる。夜になると眠くなって睡眠をとり、朝になると目が覚めて頭がすっきりする。睡眠をとらないと頭の働きは悪くなるし、徹夜を繰返せば体調を崩す。であるから人間には睡眠が必要なことはわかるが、睡眠の具体的な仕組みや効用などはあまり知られていなかった。しかし近年その詳しい研究から種々のことが明らかになってきており、認識が新たにされている。
まず、人間をはじめ哺乳類は主に睡眠中に脳内の老廃物の排泄を行う。この脳内掃除は脳脊髄液が脳内で入れ替わることによりなされる。人間の場合一日に3,4回入れ替わり総計約500mlもの脳脊髄液が使われる。睡眠中は脳の大きさが少し縮小し、髄液の流れをスムーズにするといわれる。覚醒時の脳は糖質を消費し、その際アデノシンという物質(老廃物)が生成される。これが睡眠を誘起する物質である。これが脳内にたまることにより眠気が起こるのである。仕事で頭が疲れた状態もこの物質の蓄積が関与する。朝起きると頭がすっきりしているのは脳脊髄液によりアデノシンなどの老廃物が除去されているからであろう。前夜に書いた原稿などを朝起きて読み直すと、誤字・脱字、文の繋がりの悪さ、内容のあいまいさなどの不備な点が多く見つかることが多い。これも睡眠時の脳脊髄液による脳内クリーニングがもたらす効果であろう。なお、睡眠は成長ホルモンの生成を促し、脳や身体の種々の傷みの修復にも関与することも明らかにされている。
余談であるが、夢を見ているときに起こっていることは行動には出ない。行動を抑制する機能が働く仕組みが脊髄のレベルにあるからである。これにより身体を動かす夢を見ていても身体はベッドの上に横たわったままである。しかし稀に夢に中の出来事を行動に移してしまうことが起こる。これは病の前兆であるから早めに治療をする必要がある。
参考:裏出良博、‘聞いて得する眠りの話’東京新聞健康フォーラム、 (‘19/10/5)
Society5.0って何、問題点は? 2019年11月 永野
最近Society5.0という言葉をよく聞くがこれは一体何であろうか。人間社会は様々な形で段階的に発展を遂げてきたが、それは大雑把に分けると、①狩猟採集社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会の4段階であろう。Society5.0はその次に来るであろう社会形態をいう。具体的には現実世界(フィジカル空間)と仮想世界(サイバー空間)を融合させ人間中心の社会を実現することである。スマート社会ともいわれる。第5期科学技術基本計画において日本が目指すべき未来社会として提唱されたものである。具体的にはIoT、AI、クラウド、ドローン、自動走行車、ロボットなどの技術を活用して現社会のいろいろな問題を解決して人間中心の住みやすい社会を実現することである。
目標は立派であるが、従来のモノづくり産業にこだわりディジタル情報社会への転換で世界に後れを取った日本が果たして世界に先駆けてこのような社会を実現できるか否かには一抹の不安を禁じ得ない。
海外ではディジタル情報産業の分野で新しい企業が次々と誕生し、その国の産業を発展させている。米国のシリコンヴァレーなどはそのよい例であろう。いわゆるGAFAと呼ばれるディジタル情報通信企業は全てアメリカから生まれている。日本は従来のモノづくり産業にこだわり過ぎディジタル情報産業分野で大きな後れを取ってしまったが、これもあららしい産業を生むためのヴェンチャー企業をうまく育てられなかったことにある。日本は産業構造における慣性が大きすぎる。新しい産業の発展を阻害する土壌があるようである。あれだけ大きな事故を起こした東電をサポートし企業として存続させるなどがそのよい例であろう。アメリカの場合世界的な金融危機を引き起こした投資会社リーマンブラザースに公的な資金の注入をせず、倒産させている。これは米国史上最大の倒産となった。
’19年11月ミニトーク 永野 俊
(1)プラゴミ問題
シラク逝く―戦後処理のあり方― 2019年10月 永野
フランスの元大統領シラク(1995~2007在任)が天国に召された。偉大な政治家の冥福を祈りたい。第二次世界大戦中フランスはドイツに占領され、ナチスの傀儡政権であるビシー政権が誕生した。この政権下でフランスはドイツに加担し、8万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んだ。戦後フランスはこのことについて国家としての責任を認めなかった。しかしシラクは大統領になった直後、演説で次のようなことを述べた。「この問題はフランスの歴史を永遠に汚し、過去と伝統への侮辱となる。占領者(ナチスドイツ)の狂気の行為を補佐したのはフランス人であり、フランス国家である。多くのフランス市民や官僚たちがユダヤ人迫害行為に対し黙認あるいは加担をした。我々はユダヤの人々に絶対取り消すことのできない負債を抱えている。国家の過ちを認め、歴史の暗部を隠さないこと、それが人間の自由と尊厳を守り、常にうごめく闇の力と戦うことだ。終わることのないこの戦いは私の闘いであり、あなたたちの闘いでもある」、と(註1)。立派である。
ノーベル賞あれこれ 2019年10月 永野
今年もノーベル賞受賞者の一人に日本人が入っていた。物理学賞の吉野彰氏である。2010年代に入ってから毎年のように日本人受賞者が出ている。受賞していないのは2010年から今年まで、11,13、17年の3回だけである。日本人研究者の優れた頭脳を称賛したい。受賞者のほとんどが若い研究盛りの時期に行った業績を認められての受賞である。彼らが若い時に優れた研究を成し遂げた背景には、当時の科学・技術研究に対する官庁や民間企業の手厚いサポートがあったことを忘れてはならない。当時は公的な研究機関も企業の研究部門も研究に打ち込む多くの研究者を正規の職員として雇用していた。彼らは生活が保障されていたので、長期間かかる基礎的な研究に打ち込むことができた。古き良き時代のことである。今は首相の発言にもあるように、基礎的な研究ではなく、すぐ産業に役立ち経済発展に貢献できるような研究を重点的にサポートしていく方針が取られている。この方針では若い研究者は基礎研究には専心できない。事実、彼ら若手研究者はその多くが短期雇用(多くは3年前後)であり、その期間に何らかの成果を出さないと解雇されてしまう。これでは長い期間がかかる基礎的な研究はできず、薄っぺらな研究をせざるを得なくなる。この状況ではノーベル賞に値するような優れた研究成果は望めないことが理解されよう。したがって今後しばらくすると日本のノーベル賞受賞者は減少の一途をたどるであろう。
(1)幸福度
我々が持つ三権の危機 2019年7月 永野
三権という語を聞いて何を想定するであろうか。民主主義国に住む我々の多くは政治における三権分立と憲法で保障される人権に関する3つの権利を考えるであろう。三権分立とは治政における立法、行政、司法の相互独立性を謳うものである。それぞれの業務を担う機関、すなわち国会、行政府、司法機関はそれぞれ他の機関に影響されることなく独自に機能しなければならない、ということである。人権保障に関する三権とは生存権、自由権(思想や言論など)、参政権の3つである。これらはさらに細分化されるが、大雑把にはこの3つに分類するのが妥当であろう。
え!国がいくら借金しても大丈夫??
―MMT(Modern Monetary
Theory:現代貨幣理論)― 2019年9月 永野
‘‘19年9月ミニトーク 2019年9月 永野 俊
(1)進化し過ぎた動物
終戦記念日に際して一言 2019年8月 永野
この小文は8月15日に書いた。戦争が終結し東京裁判で戦争犯罪人は裁かれたが、これは国際的な軍事裁判であり、そこで有罪と認められたものは戦争に対する国際的な犯罪者である。その罪状は日本の国内法による裁きには何の影響も与えない(これは東京裁判記録で文書として明記されている)。巣鴨で刑期を終えた戦争犯罪者は日本国内では裁かれておらず、犯罪者扱いはされなかった。従って彼らは国際法による刑期を終えると社会復帰し、政界や政府機関の要職に就いた。その後、これらの人々の多くは大戦に対する反省を蔑ろにし、軍国主義的思想を復活させる行動をとって行った。この母体となったのが日本会議に代表される右翼活動である。日本は終戦時に国際軍事裁判で有罪になったこれらの人たちの国内的な戦争責任を問い、戦後政治の場での活動を永久に禁じるべきであった。310万人もの日本人を死に追いやったのは彼らなのであるから、国内的にもきちんと裁かれてしかるべきである。
理想主義を否定するな 2019年8月 永野
現代の政治や社会のあり方の不備を批判し、理想的なあり方を説く論説などを見かけることがある。これに対し物知り顔の識者たちは、それは現実を知らない能天気で青臭い理想論であるという批判をすることが多い。しかし理想論を語る人たちは決して現実を知らないわけではない。むしろ良く知っていて、長期的視点に立てばこれでは人類社会はいずれ滅びるという危惧から、あえて理想論を語るのであろう。それを批判する人たちは目先の状況改善や利害にしか考えが及んでいないから、批判的になるのであると思う。理想を語る人たちはそれがすぐに実現されるなどとは決して思っていない。人間社会が長期的な視点に立っての向うべき方向性を論じているのである。それに対し批判者は現実の諸問題を個別に一時的にうまく処理する事しか言わない。これでは本質的な問題解決にはならない。これは例えれば病気の治療に対症療法しか施さないことに相当する。登山で言えば高い山頂を目指すのに、周辺の小高い山をいくら上っても目指す高い山の頂上には到達しない、ということに対応する。
19年8月ミニトーク 永野 俊
(1)金子勝:反アベノミクスだが経済成長派の経済学者
ナノファイバー(極細繊維)と言えば炭素繊維が有名であるが、セルロースナノファイバーというものが最近注目されている。鉄の板の半分の重さで強度は5倍である。セルロース繊維を細くすることで繊維の絡み合いを増して強度を出すという。力を加えると軟らかくなり、放っておくと固まる性質(チクソ性)があるので利用範囲が広いと言われる。将来一兆円規模の市場になるというが、価格が問題である。今は鉄の100倍であるが日本の学者が量産方法を開発し2倍程度に価格を下げる見通しが立っているという。将来はもっと廉価になるであろう。天然素材だから廃棄処理も容易である。
分断か共生か 2019年8月 永野
ある大学教授が大学の授業で、今の世界は分断化が進んでいるのかそれとも共生の方向に向かっているのか、と学生に問うたところ‘共生’と答えた学生が多かったという。一方、同教授が中高年の参加者が多い市民講演会で同じ質問をしたところ‘分断’という答えが圧倒的に多かったという。これは何を意味するのであろうか。今回の参院選では若者の投票率が30~40%と低かったことを考えると、彼らの日本や世界の動向への関心の薄さと現状容認傾向がうかがえる。今何とか生活できている、グローバル化の進展の恩恵も受けている、70年以上日本は戦争に巻き込まれていない、などの情報を拾い集めての判断であろう。しかしこの判断には若者が今だけ、金だけ、自分だけの3だけ主義に染まっていることを表わしているともいえる。中高年はその経験から戦後の高度成長の負の側面の顕在化や国の借金を増やしての大企業優先政策の危うさ、さらにはアメリカやイギリスをはじめとする自国中心主義の蔓延の弊害を憂えての反応であろう。
日ロ関係 2019年6月 永野
第二次世界大戦が終了してから74年になるが、いまだに両国は平和条約を結んでいない。サンフランシスコ平和条約(1951年)に基づき大戦の連合国側の多くの国々との国交が回復しているが、ロシア(当時のソ連)との国交は未だに正式には回復していない。ソ連がサンフランシスコ平和条約を受け入れなかった主な理由はアメリカとの対立が顕著になっていたこと、当時大陸の中国を支配していた共産主義国としての中華人民共和国をアメリカが連合国として認めなかったこと、などがある。当時中国は共産党と国民党の内戦状態にあり、台湾には国民党政府があった。こちらが米国と近かったことが大陸の中国を認めなかった理由であろう。サンフランシスコ条約には「日本は千島列島および樺太南部とこれに近接する島々の支配権放棄」が明記されているにも拘らずイデオロギー的対立により調印が拒否されたわけである。なお、北方4島が千島列島に含まれるか否かは当然日ロで見解が異なると思われるが、4島は歴史上一度もロシア領のなったことがないので日本としてはこれらは日本固有の領土であると考えるわけである。
ゲノム編集食品が出回る! 2,019年7月 永野
ゲノム編集技術(註1)を使って開発された食品が市場に出回る。しかも国への届け出は義務化されないばかりか、食品表示へのその旨の記載も義務化されない見通しであるという(註2)。多くの庶民が遺伝子を人為的に改変された食品に違和感や危機感を感じているのにもかかわらず、である。遺伝子の変異は自然界や人為的な品種改良などでもおこっているので問題ないというのが役所側の説明である。しかし自然界の突然変異や品種改良では遺伝子の改変は制約なしに起こっているのではない。突然変異による改変には淘汰というフィルター(自然環境に適合しないものは滅びるということ)が掛かり、また人為的な品種改良操作には交配の限界(交配可能なものはある程度の近親性が必要である)という規制がかかる。これらの制約はゲノム編集技術による勝手な遺伝子改変では成立しない。しかもこの技術には必ずミス(オフターゲットといわれる)が伴う危険性がありこれを排除することは現技術では不可能である。
19年7月ミニトーク 永野 俊
(1)○○89年に起こった出来事の追加
アメリカの深層 2019年6月 永野
同じ民主主義国家であってもその政治の動かし方はアメリカと日本では様相が異なる。もちろん大統領制と議院内閣制の違いはあるが、それ以外にも様々な違いがある。例えば日本では政党は党幹部がしっかり仕切っているがアメリカでは自からが党員であると言えばそれで認められるという。共和党がトランプに主導権を握られたのもそのシステムに起因する。アメリカでは宗教が政治に関与し、教会も決して宗教一辺倒ではなく、政治的、経済的、庶民的にふるまい、選挙にも加担する。例えば前回の大統領選挙では人口の4分の一を占める福音派(プロテスタント系の一派、註1)の8割がトランプを支持した。
遺伝子改変(GM)生物の問題点 2019年5月 永野
近年遺伝子を人為的に操作し、新しい生物を作り出す技術が進展している。この技術は遺伝子組み換えとゲノム編集の二つに大別される(註1)。これらの技術は注意深く利用すれば人類の福祉に役立つものであると思われるが、その安易な利用による危険性も指摘されている。その代表的危険性は遺伝子操作による除草剤耐性作物の利用における除草剤の散布が人体にもたらす悪影響と、遺伝子改変作物(含む動物)自体を食することによる健康被害の二つであろう。まず除草剤薬害の例について述べよう。アメリカの主要な農産物である大豆はモンサントという会社により遺伝子操作技術を駆使して除草剤に強い大豆が開発され、これを普及させることにより大豆の生産量を伸ばし、世界の大豆市場を席巻している。除草剤は収穫時に大量に散布されるので収穫大豆に大量に薬品が残留することによる健康被害が指摘されている。例えばフランスではこの影響により奇形児が生まれる確率が高まっている。その他、インドではGM綿花を導入したがその土地柄に合わず、農家がその不作によって大きな打撃を被り、反対運動が激化しているという問題やGM種子の使用によるその花粉や種子の飛散により有機農業の継続が困難になるという問題もある。
画期的出来事は○○89年に起こる 2019年5月 永野
17~20世紀で世の中を変える画期的な出来事は○○89年に起こったといわれている。
最後の1989年は第二次世界大戦の終焉とともにはじまった東西冷戦が終わった年である。この年地中海のマルタ島で西側諸国の代表としてのアメリカ大統領ブッシュ(父)と東側代表のソ連ゴルバチョフ共産党書記長が対談をした。会談では特に具体的な課題についての合意は行はなかったが、東西を隔てたいわゆる‘轍のカーテン’を除く上での問題点について会談を行い解決して行くということの確認を行った。つまり武力の脅威、不信、イデオロギー的な闘争に満ちた冷戦時代を克服し、新たな平和の時代へ向かうことの確認であった。この会談の実現には共産党一党独裁の硬直した政治を民主的な方向(ペレストロイカ体制)に改良したゴルバチョフの英断と西側諸国首脳の賛同が大きな前進をもたらした。なお、冷戦終了の具体的な象徴としてのベルリンの壁崩壊も同年に起こっている。
グローバル化の歪み―そのアジアへの影響― 2019年4月 永野
産業革命以降19、20世紀に世界の人口は爆発的に増加し、19世紀初めには10億であったが21世紀末には100億を超えると予想されている(註1)。しかしヨーロッパやアジアの先進国・新興国では減少する傾向にあるという。なぜ先進国と新興国では人口が減るのであろうか。最大の理由は学歴社会の浸透である。文明の急速な進展とグローバル化により若者が身につけなければいけない知識や技術が増加し、大学、大学院への進学が普及した。それにより親が負担する学費も増大する。従って親は経済的負担により子供の数を少なくしなければならなくなったのである。非婚率の増加もその理由となる。若者たちの結婚への意識が大幅に変化している。少し前までは男女とも年頃になったら結婚して家庭を持つのが当たり前であると思われていた。しかし前世紀末からこの考え方は急速に後退しつつある。日本では生涯非婚率は男性では25%にも上っている。理由は色々あろうが経済的理由が最大のものであろう。非正規で働く若者が増加しているが、これは生活の不安定化を助長し結婚への意欲を弱める。ITの普及で一人でいることの癒しに不自由しない世の中になっていることも一つの理由であろう。この傾向はアジアの先進国である日本で顕著であるが、その他のアジア諸国でもこれから同様の傾向が強まると考えられている。
日本は早くからこのグローバル化の流れに対応してきたのでその弊害は少ないが、それでもご存知のように都会と地方の格差は開く一方で一極集中傾向は避けられない。高齢者への対応も年金制度を早めに設けた事や高度成長期の遺産で何とかなっているが、これも時間の問題であり、これから高齢者や地方の一次産業従事者の生活をいかに保証するかということは大きな問題として残る。
(註ⅰ)22世紀には減少に向かうといわれる。
日米地位協定の問題点 2019年5月 永野
日本には各地に米軍基地があり、その数は130に上り、広さは1024k㎡に及ぶ。このうちの70%が沖縄に集中している。沖縄県の面積は日本の全国土の0.6%に過ぎないことを考えれば沖縄の負担がいかに大きいかがわかる。この負担の大きさは常に問題とされ、女性に対する暴行や航空機の墜落事故などが数多く起こっている。これらの問題は日本の国土で起こったものであるから、当然日本の法律に従って、原因究明や犯罪者の裁判が行われるべきである。しかし実態はそうはなっていない。日米地位協定により米軍側が強い権限を与えられ、日本がその問題の処理に介入することができていない。NATO の関係で日本と同様に基地を米軍に提供しているヨーロッパ諸国の地位協定の内容を日本のそれと比較すると日本が極めて特殊な協定を結び、自国民を圧迫している実態が明らかになる。
平成の終わりにあたって 2019年5月 永野
4月末に新聞などの報道機関が一斉に平成とはどんな時代であったかを論じていた。大方の論調は日本は老いてゆく国家の姿を如実に表した時代であったということであろう。産業構造の転換に失敗し、財政も経済もその場しのぎで長期的な方向性を確立できていない。
19年5月ミニトーク 永野 俊
(1)辛口評論家 佐高信(さたか まこと)
先ず元号問題である。今の政治状況からすれば、令和の令には雨冠をつけた方がぴったりであろう、という。社会は和からは程遠い分断状態であるから零和、すなわち和がゼロである、という。また彼は元号などは不要であるという。元号が変わることを為政者が政治的に利用するし、歴史の連続性を遠ざけて、過去の出来事を踏まえて現在および未来を考えることを阻害する。元号が変わったのだから過去の政治的に問題のある出来事は水に流して未来に向かって進もうではないか、という様な具合である。しかし現在・未来は過去を十分踏まえなければ正しく思考することは出来ない。終戦後のドイツの大統領ヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目になる」はまさに名言である。なお、元号不要論の元祖は優れた政治家として評価の高いあの石橋湛山であるという。
彼は国策で自然林が伐採され、重機を運ぶ林道が敷かれ木材が大量に運び出され、その跡地に杉が一面に植林された状況に自然破壊の典型を見た。その非を多くの人に知らせ自然林の大切さを訴えるために自ら広大な森林を買い取り豊かな自然を取り戻すために‘アファンの森’という自然林をつくった。杉一色で多様性に乏しく棲息する動植物も数少ない国有造成林とは異なり、彼の森には昔から森林に生息していた数多くの生き物が戻ってきた。その種類は造成林の数十倍にもなるという。自然林の復元は土砂崩れ、水質汚染などから国土を守ることにつながる。庶民の生活の向上も日本の人材資源の豊かさや経済の安定などにつながる。政治は目先の利益やGDPや株価などのマクロな指標に囚われずに、長期的な視野で国の繁栄の舵取りをするべきである。
人口問題、その新たな側面 2019年4月 永野
現在世界では爆発的な人口増加で食糧不足、資源不足など人類生存の上で種々の問題が生じている。もうすぐ地球人口は100億を超すといわれるが、これを養うには地球5個分の資源を要するといわれる。元々人口増加が問題であることは18世紀末に英国のマルサスという学者が指摘したことで「マルサスの罠」と呼ばれている。当時はこの問題は、新大陸への大量移民、肥料や殺虫技術進展による農業革命、工業化の進展による産業革命の3つの社会変化で回避された。
非婚率の増加もその理由となる。若者たちの結婚への意識が大幅に変化している。少し前までは男女とも年頃になったら結婚して家庭を持つのが当たり前であると思われていた。しかし前世紀末からこの考え方は急速に後退しつつある。日本では生涯非婚率は男性では25%にも上っている。理由は色々あろうが経済的理由が最大のものであろう。非正規で働く若者が増加しているが、これは生活の不安定化を助長し結婚への意欲を弱める。ITの普及により一人でいることの癒しに不自由しない世の中になっていることも一つの理由であろう。この傾向は日本など先進国で顕著であるが、その他の新興国でもこれから同様の傾向が強まると考えられている。
AIと憲法の緊張関係 2019年3月 永野
近年AI技術が発達しその利点と問題点が顕在化して社会をにぎわしている。利点としては人間にとって便利あるいは危険や苦痛を伴う労働の代替、医療診断・治療などの支援、膨大なデータの迅速な処理とその利用などなど数多くの人間社会への貢献がある。一方で負の側面もいろいろ存在する。人間の仕事を奪って格差社会を助長する、殺人兵器の開発など戦争への悪用、さらには人間の知能を超えて人間社会を支配する可能性(このことはシンギュラリティという言葉で言われることが多い)など多くの危惧が生じている。
これらの負の側面は主に技術的な側面に着目したものであるが、それ以上に本質的に重大な問題をはらんでいる。それは人間が生きていく上での共通の価値を破壊するということである。具体的には現在多くの国が個人の価値観の尊重や平等性を憲法で保障する民主主義社会を持っており、人間のプライバシーの保護などは当然のことと考えているが、これらがAIを用いた情報処理の乱用で破壊される可能性があるということである。一言で言えばビッグデータとAIの利用(註1)によって個々人のプロファイリング(人の諸特性を明らかにすること、元々は犯罪捜査用語)を行い、それを様々な目的で使うことである。例えば、宣伝・広告の送り先、企業の採用活動、裁判所の量刑判断、学生の入試、社内の人事評価などである。これは人の持つ特性を分析してデータ化し、人々をグループ分けすることを可能にする。これは人に対する偏見を誘発し、極端なことを言えば階級社会の形成を助長するものであり、前近代的身分制度への逆行ともいえる。中国などではプロファイリングデータの数値化を行い、その値で個々人の価値を評価することが実際に行われているという。 以前人間の評価尺度としてEQ (emotional quotient )というものがあり、これはIQと違って数値化はできないが、このEQが高いと考えられる人は社会でよい仕事をする傾向があることを述べた(註2)。このように人の価値は数値化できるものではなくプロファイリングによる一元的な評価には問題が多い。とくにその数値により偏見が生じやすいことが問題である。姜尚中が在日コリアンというプロファイルを通してではなく一人の人間として偏見なく見てほしい、と言っていたがまさに正論であると思う。
(註1)これらのデータとAIツールはGAFAなどの巨大IT企業により提供される。
(註2)永野、本コラム2014年11月、EQ―こころの知能指数―
参考:山本龍彦、「人工知能は本当に私たちを幸せのするのか」、日比谷カレッジ(‘19/3/25)
2019年4月ミニトーク 永野 俊
(1)尾畠春夫さん
この名前をご存じない方はほとんどいないと思う。昨年夏に自宅への帰り道で迷子になった2歳の子供を山中で発見し救助したボランティア活動家である。彼の、賛辞も謝辞も謝礼も求めず、ひたすら人のため社会のために奉仕する姿勢には学ぶところが多い。その顔は本当に美しい。その顔は悟りを開いたありがたい仏像のそれでもなく、ましてやいわゆる美形の顔でもない。何とも安らかで心温まる顔をしている。何の我欲も邪気もない澄んだ目つきがうらやましくさえ思える。彼は色々な名言を残しているが、その中でも「かけた情けは水に流せ、うけた恩は石に刻め」は至言である。昨今世界中で我欲をむき出しにして我が物顔で振る舞う人々が氾濫している。少しはこの名言を心に留め置いてほしいものである。このこころを持ち続けてこそ人類はこの地球上で生きて行けるのである。
今月の稿「日本ぬるま湯論」で経済同友会代表幹事の小林喜光氏の持論に対して経済成長一辺倒という批判をしたが、少々訂正をしたい。彼の技術革新による日本の経済復興論の中身は理療技術、再エネ、環境保全などに力を入れることを重視するものであった(註)。これなら技術的な革新は人間と自然の共生に資するものと考えられるので、この方向での技術革新には賛同する。一つ注文を付けるとすれば新しい技術にはメリットとともに必ず負の側面がついてくるものである。この点をしっかり踏まえた技術開発をしてほしいものである。
(註)3月20日22時BS141深層ニュース
政治への民意の反映―他国と日本の違い― 2019年2月 永野
民主主義国家では市民が政治に対して直接意見を伝える主な手段は選挙とデモであろう。日本では臣民型民主主義と揶揄されるように、このような手段で意見を表現する行動があまり活発ではない。選挙の投票率は国政でも50%をわずかに超える程度で、地方選挙ではこれを下回ることが多い。デモもあまり活発とは言えない(註1)。最近では原発反対や安保法制改訂で大きなデモがあったが、持続性にも迫力にも欠けていた。一方、政府側の対応も冷ややかであまり真剣には受け止めない。民主党政権時代官邸にいた野田首相(当時)が‘外が騒がしいようですね’と他人事のように言った話は有名である。日本では議員が市民に顔を向けるのは選挙の時だけで、あとは街で市民と対話をすることはあまりない。
これは日本だけの現象のようで、他の先進国では政府や国会議員と市民の間の距離はもっと近い。デモで政府の対応が変わったり、政権が変わったりすることもよくある。たとえば最近フランスで起こった燃料税の値上げ反対運動(イエローベスト運動)は執拗なデモの継続により大統領に市民の主張を認めさせこの案を取り下げさせた。またお隣の韓国では市民の大規模デモにより李承晩政権と朴槿恵政権が崩壊している。米国でも市民が政府の施策に不満の意を表すデモはよく行われている。アフリカ系の人々の市民権獲得は一人の勇敢な女性の行動(註2)から始まり大きな運動となってケネディ大統領を差別廃止に動かしたことはよく知られる。ドイツの原発廃止もチェルノブイリ事故を踏まえての市民運動が起点であるという。最終的には原発廃止の是非を決める倫理委員会(註3)の決議を踏まえてメルケル首相が廃止を決めたのであるが、ベースに市民の意思が反映されていたことは確かである。
(註1)60年代の安保闘争は、学生セクト間の争いで国民にネガティブな印象を与えた。
(註2)米国で人種差別が公然と行われていた時代では、バスの乗車席は白人と黒人で区別され、しかも白人の席が満杯の場合は黒人は白人に席を譲ることが義務でけられていた。1955年ローザ・パークスというアフリカ系女性が白人乗客に席を譲ることを拒否し、それがきっかけとなって反人種差別の大規模な運動が起こった。
(註3)日本と違って様々な意見を持つ識者と多くの野党議員で構成されていた。
日本ぬるま湯論 2019年2月 永野
経済界のある大物が日本の経済・社会の状態に対し厳しい批判を浴びせ、日本人はぬるま湯につかっていて温度上昇とともにゆでガエルになるであろうと言っている(註)。彼の見解の概略は次のとおりである。いま日本は二度目の敗北に直面している。30年前世界の企業のトップ10には多くの日本企業が入っていたが、現在ではGAFA(IT大手4社)などの米中企業が上位を独占している。物作り産業が衰退し、IT産業、再生エネルギー産業などが大きく進出している時代の変化に日本は完全に乗り遅れている。既存の産業構造に依存し、まさにぬるま湯につかりきっていた。半導体、太陽光発電、蓄電技術など日本が先陣を切っていた技術も中、韓、台に完全に追い越されている。アベノミクスは財政出動・金融緩和により産業振興を図ったが、肝心の生長戦略を具体的に主導しないから独創的な技術や産業を生み出せず経済が上向かない。失業率、株価、GDPなどの数値改善ではなく、産業の中身を改善する必要がある。これは政府の責任であるが、産業界、学問界、ひいては国民全体の責任でもあるのに、国民の約80%がこの状態に満足している。まさにゆでガエル状態に向かっている。特に若年層でこの傾向が強いことが問題である。若者が世界に出て学ばない現状満足傾向がこのことを如実に表している。現政府はGDPを増やそうとして逆に国の負債を増やしてしまった。それなのに5Gや量子コンピュータなどこれからのトップ技術の開発研究費は欧米や中国より少ない。これでは国の技術的発展は望み薄であろう。国の規模の問題ではないことは北欧の国々などの技術進展の素晴らしさを見ればわかる。国の未来図に思いをはせることなく、3だけ(今だけ、金だけ、自分だけ)主義に陥っていることが日本の衰退を招く。この状況を改善するには財界人だけで固まらず、学会、知識人、若い論客を含めた幅広い知的NPOが活動し、政治に強く注文する必要がある。
日本だけでなく世界も自己中心主義が蔓延している。民主主義の原点を踏まえず自己の利益の追求に走る国民が問題なのである。これには国民の‘老い’が底辺にある。勉強しない、考えない、などの老いである。文明は老いるものであり、ローマ帝国や大英帝国然り、日本の戦後の繁栄もそうである。この状態だと日本は米国の属州あるいは中国の一都市的立場になる。5GもAIもサイバーセキュリティも技術をこれらの国から入手しなければ経済・社会が立ち行かない。この危機意識を国全体が共有して打開することが必要であるが現状では全く先が見えない。日本古来の‘和をもって貴しとなす’的な共生思想をベースに、閉じこもるのではなく世界と交流し刺激を注入して前に進む事が必要である。
中道政治退潮と左派ポピュリズム 2019年3月 永野
欧米諸国での中道政治勢力が退潮著しい。中道右派の保守政党と中道左派の社会民主主義政党が交互にあるいは連合して新自由主義的な政策をとりグローバル化を推進してきたが、この政策で経済は発展するが貧富の差も増して格差を広げた。この格差拡大が退潮の原因であり、ポピュリズムを助長することとなった。具体例を挙げれば、アメリカのトランプ大統領出現、イギリス労働党で左派傾向の強いコービンの党首就任、ドイツのメルケルの党首辞任、フランスのマクロンの挫折、イタリアの反EU政権の出現などである。
これら中道勢力の退潮に代わって勢力を伸ばしているのが右翼ポピュリズムである。この勢力はヨーロッパのほとんどの主要国で目覚ましく進展している。移民・難民排斥の排外主義、EU否定、自国第一主義を主張している。イスラム批判など西欧的なリベラルな価値観に合わない主張も展開し、これが右翼ポピュリズム支持基盤を拡大しているという側面もある。この右翼ポピュリズムの進展の合わせ鏡のように左派ポピュリズムの台頭が起こっていることを我々は忘れてはいけない。反グローバル化や反エリートを旨とし、移民受け入れ、多様性のある社会を目指す点で右翼ポピュリズムとの対立軸を鮮明に打ち出している。左派ポピュリズムの具体例としては米国民主党でのサンダース、イギリス労働党のコービンの躍進がありドイツやフランスでも同様の現象が起っている。
この大きな政治的変動を生んだ主要な原因はグローバル化、金融化、情報化による社会構造の一大変化である。これらにより巨大資本による富の寡占化(GAFAなど)に起因する中間層の縮小と格差の拡大が起き、今まで多数派を形成していた中間層が低所得層に落ち込んでしまったのである。これにより社会にごく一部の富める者とその他の貧しい層との分断が起こった。中間層の縮小はグローバル化による生産拠点の海外移転により引き起こされた中間層労働者の置き去りという事態に政府が適切な対応を怠ったことに起因する。民主主義の屋台骨であった中間層の衰退は民主主義社会を崩壊させる危機を生じているのである。この問題を解消するには格差解消のためのGAFAなど独占的地位を許さない独禁法、ディジタル課税、金融取引課税などの強化が必要である。