トップページ

このエントリーをはてなブックマークに追加

一市民の現代社会等へのコメント

                          フリーライター 永野 俊

2110月ミニトーク                      永野

1)宗教について

宗教はアニミズム→多神教→一神教と進化したと説く学者がいるがこれはキリスト教を他の宗教に優越するものといいたいがための便法に過ぎない(寺島実郎)という。確かにそういう要素はあるかもしれない。しかしそのような動きに影響されることなくなく現在の大きな宗教の中にもアニミズム、多神教的要素は生きている。一例として仏教には草木国土悉皆成仏という教えがある。これは草木や国土のような自然物のものでも成仏する、という考え方で、空海によって日本に広められた。今自然との共生が必要であるということがよく言われているが、この仏教の教えはそれと親和性があるものであると考えられよう。

2GDPなど

我々は国の繁栄の尺度としてよくGDPを用いるがこれは繁栄の尺度として妥当なものであろうか。これは国内で生み出された‘儲け’の総量のことで国の真の繁栄は意味していない。少し古い人物であるがJ.F.ケネディの実弟ロバート・ケネディは次のようなことを言っている:GDPには人生の価値を高めるものは含まれてはいない。子供の遊びの喜びや家族のかけがえのなさは入っていない。経済成長は人生の真の目的ではない、と。全くその通りで、国の繁栄とはその国の人々が生きることの喜びを感じているか否かであろう。日本は昭和の高度成長期にGDP尺度で一時世界第二の大国になったが、これは真の繁栄を意味するものではなかった。ある程度の経済的な発展は確かに必要ではあるがそれを無限に追及することは愚の一語に尽きる。日本は経済的に十分成長した段階で、経済発展中心から人々の暮らしを精神的な意味で豊かにすることに主眼を置き、方向転換するべきであった。

3)日本人的思考の欠陥

日本人はどうも思考がその場主義的・現状是認的になりやすい傾向があるように思える。大戦で戦争一色になり、敗戦後はアメリカ文化にすっかり染まり、テレビの普及で一億総白痴になり、経済発展で物欲の権化となり、今またスマホ社会にどっぷりつかってしまっている。もう少し人間の真の生き方を考えたほうが良いのではなかろうか。

この日本人の思考傾向の欠陥は小生個人の勝手な見解ではない。優れたジャーナリストとしてまた政治家として今も語り継がれる石橋湛山も関東大震災(19239月)を経験した後、とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまうという指摘をしたうえで、次のような言を述べているので引用しておく(註1

「吾輩の見るところによれば、今我が国民は、全体として、かかる場合にははなはだ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(註2日本国民は、わつと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いてよく考え、協同して静かに秩序を立て、地味の仕事をするには不適任である。(中略)我が国は今回の災害により、あらゆる方面に人為のさらに大に改良すべきものあるを発見する。と同時にこの災害は、随分苦しき経験ではあったが、しかしこれを善用すれば、いわゆる災い転じて福となすの道は多いのである。」 
  (註
1)保阪正康、「石橋湛山の65日」、東洋経済新報社 20214月 
 (註
2)‘畢竟’(ヒッキョウ):つまるところ

格差解消                 20218月  永野

格差問題は日本に限らず世界的な問題である。これについてはこのコラムで度々取り上げ、グローバル化と新自由主義的な資本主義が問題であることを説き、その奥にある人間の無限の欲望をうまくコントロールしないとこの問題は解決しないと述べた。具体的な解消策については、累進課税やベーシック・インカムなど種々の方策があることも述べた。

こではそれらの方策についてその問題点を明らかにしておこう。

まず累進課税であるが、これは豊かな人ほど多くの税を支払って、それを低所得層の生活の向上に振り向ける、というもので考え方としてはわかりやすく納得がいくものである。ただし、これをその通りに実行するにはいくつかの障壁がある。政治的な方策は富裕層によって支配される側面があることは否定できない。日本では政治家になるためには、地盤、鞄、看板の3大要素が必要であるとよく言われる。企業などからの直接的なサポートは種々の法制で抑えられているが、実際にはいろいろなルートで相互の利益を図ることができる。地盤と鞄はこれに関系することがおおい。日本に限らず多くの国々ではロビー活動が盛んであるが、この多くは政治家と企業や団体の間の利害調整が主であろう。その話し合いで低所得層の援助などが語られることは少ないであろう。そもそも資本主義が跋扈する現代においては豊かな人々に多くの税を支払わせる法案を通すことは容易には実現はできないであろう。例え大きな累進課税が実現されたとしてもそれが低所得層の生活改善などの福祉政策の使われるにはかなりの抵抗を排除して行くことが必要になるであろう。

次にベーシックインカム(註)について考えてみよう。この方策の最大の問題点は財源である。財源確保のために今ある年金制度や医療保険制度といった一切の社会福祉的な制度を廃止する必要があろう。数万円程度の支給となるという試算があるが、これにより低所得層の暮らしが実際的に改善されるが否かは不明である。またこの制度では公平感を保つため国民全員への支給が前提となっているが、これは比較的豊かな人々にとってはあまり意味のないものになる可能性がある。支給の仕方が大きな問題となるであろう。この問題に関連して、‘負の所得税’という考え方がある。累進課税とベーシックインカムを融合させたような方策である。今でも収入の少ない人ほど税は少なくなっており、ある程度以下の収入であれば税はセロである。この考え方を拡張して、収入の少ない人にその額に応じた‘負の税金’すなわち現金支給をするという考え方である。なかなか良い考え方であるが、これを実現するためには、財源として大きな累進課税が必須の要件になることは言うまでもない。

余談ではあるが、藻谷浩介という経済学者は先進国共通の問題である景気の低迷の改善について、預貯金の多い高齢の富裕層の需要を喚起して貯蓄を使わせる、という提案をしている。高齢層は将来の不安から、貯金を抱え込むが、その消費を喚起する代わりに預貯金が尽きたら国が生活、医療をすべて保障するという方策を提案している。これは景気浮揚策であるが、負の所得税と相通じる考え方であり、興味深い提案である。

(註)永野、ベーシックインカム、本欄20187月  

タリバンのアフガニスタン支配          20219月  永野

米軍のアフガニスタン撤退とタリバンのアフガニスタン支配は今年後半の世界のビッグニュースの一つであろう。これによりアメリカの傀儡政権と目されていたガニ大統領の支配は崩壊し、イスラム教の教えを厳格に信奉するタリバンによる政権が誕生した。

この国は1973年年までは王朝国として存在し、その後革命により共和国に変わった。対ソ戦争などいくつかの戦乱(含内戦)を経て20世紀末にはタリバンが支配する南部とこれに反発する北部同盟の対立状態が続いた。そして2001年の9.11事件(ニューヨーク・ワールドトレードセンタービルなど4か所同時テロ)が起こった。アメリカと有志連合諸国は事件の首謀者とされたイスラム国際テロ組織アルカイダのウサマ・ビンーラーディンの引き渡しをタリバンに求めたが、拒否されたため北部同盟と共働してタリバンを攻撃した。これにより国土の大半はアメリカの支援を受ける北部同盟が支配することとなった。アメリカは20115月にビンーラ―ディンを殺害(於パキスタン)後もテロ組織撲滅を理由にアフガニスタンに兵を駐留させ、アフガニスタンを支配した。もちろん旧ソ連時代からあるロシアの影響力の浸透を防ぐこともその目的の一つであろうが。

タリバンは対ソ戦争時に現れた組織で、アフガニスタンの各地域がソ連の侵攻を阻止するために団結したことに原点があり、その意味で土着の組織である。彼らの主目的はアフガニスタンというイスラム教を信奉する国を守ることである。したがってタリバンが近隣の諸国を攻撃し、その支配を目指すことはない。その点でタリバンはIS(イスラム国)やアルカイダのようにイスラム教の国際的活動(テロ)を支援するという意図は持たないことが彼らとの大きな相違点である。タリバンは過激派のイメージがあるが、外国への危害を加えることは少ないようである。女性対応は厳格ではあるが、女性に対する庇護は十分でそれを好む女性も少なくはないという。この国もこのグローバル化した世界で存続して行くためには諸外国との交流は避けられず、それらの国と種々の面で折り合いをつけながらの国の運営が必要であろう。その過程で自国民の扱い方も少し幅を持たせる方向に変化して行くことが望まれる。個人的見解であるが、タリバンにはその変容が可能であると思う。タリバンはイスラム教の教義を振りかざすだけのISやアルカイダと異なり、土着の国民の生活を考えることができる集団であると思えるからである。アフガニスタンの住民の自立のために命をささげた中村哲さんの功績をタリバン幹部は認めているし、その殺害への関与も否定している。少なくとも幹部連中は話せばわかる度量は持ち合わせていると考えたい。

今回の米軍撤退はアフガニスタン政府の腐敗にもその原因があるという。アメリカの援助に頼り切り、自国の平和と経済の振興に十分な力を注がなかった。アメリカも欧米流民主主義の押し付けではなく、その国の人々の意を汲んだ政治を誘導するべきであった。民主主義国では国の意を決めるのは国民なのであるが、イスラム教を信奉する国ではそれは神(教義)が決めるのである。

参考:東京新聞ニュース深堀講座(オンライン) 916日(2021

サンデル先生再登場             2021年7月   永野

10年ほど前、マイケル・サンデルハーバード大学教授による‘白熱教室’というテレビ番組が高い視聴率で多くの人々に注目された。講義では人間社会の様々な問題について例を提示しつつ、学生に難題を投げかけて議論を引き出し、また自身の考えを展開した。そのサンデルがいま世界的な問題となっている格差社会について、なぜ格差は拡大したか、それを解決するにはどうしたらよいにか、という問題に対して持論を展開した。

政治体制の良否を論ずる前に、いわゆるエリートたちが謙虚さを養うことが重要である、と彼は言う。米国に限らず多くの国々で能力主義(メリトクラシー)が浸透し、勝ち組の人々を傲慢にさせていることが社会の混乱を導いているという。勝ち組の人々はその成功が自分一人の能力の高さによってもたらされたものであるとし、取り残された人々を見下す意識を持つ。それにより社会の分断が起こる。見下された労働者階級は不満と怒りを持つようになり、それがポピュリズム運動を巻き起こし、トランプ政権のような極端な政権を誕生させ社会の混乱に拍車をかける。勝ち組と負け組の社会的距離は一層大きくなり、両者が交流する場がなくなる。成功者たちが謙虚な姿勢を失うと社会の大勢の人々が集まる文化施設などの公共の場所に集まらなくなる。こうして両階級が接する機会が減り分断は深まる。

成功者はその成果を自分の実力であると決め込み、取り残された人々は自業自得であると考えるが、本当にそうであろうか。その成功は陰に陽に多くの人々や既存の公共文化財によって支えられた結果であり、決して一人の力で達成されたものではない。

アメリカでは最初のころのオバマはこのような分断をなくす方向で政治を行うと考えられていた。が、やはり彼もエリートの範疇から抜け出してはいなかった。オバマだけでなくビル・クリントンもそのような期待とは裏はらであった。ヒラリー・クリントンが大統領選で敗れたのも、その言動がエリート階級的であったことが大きな原因の一つであろう。民主党の支持層は以前は労働者層であったが当時はすでに支持層は高学歴者であった。これが労働者層の反発を買い、トランプを当選に導いたといえる。

では、このような社会の分断状況を改革するにはどのようにすればよいのであろうか。サンデルは言う:政治改革ではなくまずは文化を変えるべきだと。成功者のものの考え方を根本から変えないと改革は進まない。先に述べたように成功は多くの人々の協力と既存の知識・文化の積み上げに依存してもたらされたものであることを理解して謙虚な姿勢を身に着けるところから始めなければならない。すなわち‘能力主義の傲慢’を消し去ることから始める必要がある、と。

このサンデルの見解はアメリカだけでなく、格差の進む多くの国々(含日本)で共有されるべきものであろう。サンデルは共同体主義(コミュニタリアニズム、communitarianism)という政治思想の持ち主である。これは共同体(コミュニティ)の価値を重んじそれを基礎にすえて物事を考える、というものであり、上記の論もこの思想をベースにしている。

参考:クーリエ・ジャポン編 新しい世界:第4章、講談社現代新書26012021年)

サンデル白熱教室              20217月  永野

先日、久しぶりにサンデル教授の白熱教室が放映されていた。アメリカ、中国、日本の超一流大学学生6名ずつを招いてのオンライン討論であった。テーマは現代社会の種々の問題であったが、そのうち特に興味深い2つの討論について私感を述べておこう。

まずは格差問題であるこれはコロナ以前からの問題であるが、コロナ以降ひときわ大きな問題となっている。貧困層の死亡率は上位の層のそれを大きく上回っている。これは主に衛生面の知識不足や食住環境の貧しさに起因する。同時に仕事面での格差も大きい。上位層の人々は様々な方法で仕事上の感染を回避できる。情報通信機器を使ってのリモートワークなどがその一例であろう。それに対して貧困者の仕事はどうしても感染危機に晒されやすい。デリバリーサービスなどはそのよい例で、金持ちはこのサービスを利用して感染リスクを抑えることができるが、そのサービスを生業とする人は彼らの感染リスクを肩代わりしているのである。サービス精神でこれをやる人は少ないであろう。そういう仕事でしか稼げないのである。(警察、消防、医療などは自らの意思で選ぶ人が多いが)。これも格差によって起こる弊害であるが、これにどう対処するべきか。手数料の値上げでは本質的な解決にはならない。緊急事態では国家の積極的なサポートが必要なのではなかろうか。

もう一つも格差問題に関連する。いわゆる超一流大学に入学して、将来の出世コースに乗るためには受験の高い壁をいかに乗り越えるかが問題である。それは本人の血の出るような努力の賜物であるのか、それとも勉学に打ち込める家庭環境に依存するのであろうか。日本の学生は6/6 が家庭環境であると判断したが中国の学生は全員が自らの努力によるという意見であった。この違いは単なる国民性の問題なのであろうか。個人的にはそれ以前にこの問題をもう少し高い視点で考えることが必要であると思う(サンデルの議論は二択で進めることが多いが)。多くの場合両方の要因が必要であろう。また、本人の適正、自主性などこれ以外のファクターを考える必要もある。いくら親がサポートしても本人にそれだけの能力が備わっていない場合もある。また本人がエリートコースを目指すことに価値を見出さない場合もある。この2つの場合とも本人は苦痛を感じるだけである。回答者の中にはそのレールに乗ってエリート大学生になったが、それに自ら疑問を感じている学生も23いた。彼らはもう一度やり直せるなら同じ道は選ばないという。受験勉強により失ったものの大きさに気づいているのである。

そうはいっても現実には、彼らエリートによって社会が動かされる部分は多いと考えられる。それを踏まえてサンデルがいいことを言っていた。君らはこれから社会を引っ張っていく立場に置かれることは間違いない。そこで君たちがよく考えなければならないことは、これからどうやって自分たちが皆が暮らしやすい社会を作っていくか、ということである。この考え方に従って行動できないものには社会を導く資格はない、という考えなのであろう。この言葉は、いわゆる共同体主義者として人々の協力のもとに社会を運営するという考えをベースに論陣を張るサンデルらしい言で、これには大いに賛同する。

ピケティの宗旨替え:その2           2021年7月  永野

ピケティは以前累進課税を促進すれば社会の格差は解消するという考えを持っていたが、それを改め参加型社会主義的な社会システムでないと格差の本質的な解消は実現できないという考えに至った。その具体的な改革案を著書‘資本とイデオロギー’に著している。

この社会システムを構築するためにはまず私有財産の多くを社会化しなければならない、という。フランス革命後に誕生した有産者社会では財産の私有は不可侵なものとして尊重され、現在も多くの人々によって当然の権利であると考えられている。しかし資本主義社会でのビリオネア(億万長者)の誕生は既存の知識、インフラ、公共研究施設などの公共財に依存する場合が多い。だからその財は社会に還元されるのが当然であると考える。

高い累進課税で貧富の差が抑えられていた20世紀中期は栄光の30年と言われていた(米国、西欧)。この時期では中間層が厚く、多くの人々が生活の豊かさを感じていた。しかしこれも一時的なもので、20世紀後半の新自由主義の台頭により格差が拡大しビリオネア誕生と同時に貧困層が増大した。野放図な格差拡大は人間社会を破滅に追い込むのである。

私有財産の社会化はドイツ流の労使共同決定の仕組みを取り入れることで実現される。ドイツでは1950年代からこの仕組みが採用されている。現在はドイツ以外にも北欧諸国などで取り入れられている。この労使共同決定とは次のようなものである。取締役会で従業員の代表が議決権を持つことができるもので、ドイツの場合大企業では議決権の半分が与えられる。スウェーデンなどでは従業員の議決権は30%であるが、この仕組みは規模の小さい企業にも適用されている。この制度を取り入れた国々では経営者の報酬の抑制や従業員の自社投資が実現されやすくなっているという。ピケティは大株主の議決権の削減をさらに強めて、最大でも10%程度にとどめることが望ましい、という。

さらに彼は私有財産規制には財産権の時限化が必要であるという。すなわち人間が持てる資産の額に時間的制約を設けることである。世代が変わったら親族は富の一部を社会に還元すべきであるという考え方である。相続時の税だけではなく毎年資産に累進課税が必要であるという。ビリオネアたちは往々にして資産にかかる高い税を逃れるために、税の安い他国に投資したり、金品を買ったりする。これを禁じるためには租税や規制などに対する国際的な協調と管理が必要になることは言うまでもない。

彼はさらに踏み込んで万人が遺産相続できる仕組みを提案している。私有財産の社会化や時限化で得た税収を一律に若者に配布するという構想である。25歳になったら誰でも1500万円相当の支給を受ける。それにより新たな事業の立ち上げ、自社株の購入による資本参加、住宅の購入による生活の質の向上などが可能になる。

最後に今全地球的な問題となっている気候変動などの環境問題を解決するためにも新たな経済の仕組みへ移行することが必要であるという。人々が安心して暮らせる社会を実現して初めて人々の目を環境問題に向けさせることができる。このことはフランスで炭素税増税が黄色いベスト運動によって阻止された例を見れば明らかである。

参考:クーリエ・ジャポン編、新しい世界―世界の賢人16人が語る未来―、講談社現代新書

218月ミニトーク                     永野

1)認知症の早期発見

 今月の月報で最近開発された認知症治療薬アデュカヌバブについてコメントを書いたが、それに関連したニュースを紹介しておこう。最近認知症の原因であるアミロイドβの蓄積量を少量の血液で測ることができる方法が島津製作所で開発された。これには田中耕一さんのノーベル賞受賞(2002年)の対象となった技術が生かされているという。新薬アデュカヌバブは初期の認知症に有効に使えるということなので、この手法で早期に認知症の可能性を検出できれば、アデュカヌバブとの組み合わせでより効果的な認知症予防が期待できる。また、脳内のアミロイドβの蓄積は認知症発症の20年以上前から始まるといわれる。中年以降の人々がこの方法で自己の脳内アミロイドβの蓄積状況を把握すれば、食事などの管理でその蓄積が進行しないようにすることが可能であろう。それによって老年期に入ってからの認知症発症を未然に防ぐことが可能になる。その意味でもこのアミロイドβ測定方法の開発は有用なものであるということができよう

2)自然と人間

個人的な話で恐縮であるが、小生は自然の風景が大好きである。外国の風景もよいが、テレビで日本の自然の風景を見ていると心が癒される。テレビで自然の風景の映像を淡々と流す番組をよく観る。例えばテレビ朝日の鉄道旅(木曜夜8時)などである。最近画家向井潤吉の画集「懐かしき日本の風景」を購入して見ているが、茅葺の古い家屋のある風景を題材にした癒される画集である。なぜこのような風景画や映像を好むのであろうか。多分子供のころ田舎の自然の中で過ごしたことが影響しているのであろう。そう考えると今のネット機器に取り囲まれて集合住宅の中で育った子供たちは中高年になったとき、そのような環境に郷愁を覚えるのであろうか。そのようなこともありうることではあるが、そう思えない一面もあるように思える。人間は地球上に現れた何万年も以前から自然の中で生きてきたのである。その影響力はここ100年、200年の間の機械文明との共存とは比較にならないほど大きいということもありうる。やはり自然と人間の親和性は変化しがたく人間の体の中に染みついているのではなかろうか。このようの観点からも自然の大切さは理解されるのではなかろうか。

3)人間は本来性悪?!

17世紀の英国の哲学者ホッブスは、人間は本来性悪で放置すれば自己中心的にぶつかり合いながら過ごすであろう、という。宗教はみな教祖が善行を説く。キリスト教の愛、イスラム教の喜捨、仏教の慈悲そのほかの儒教などにも類似の教えがある。これは人間は本来性悪だから、人間社会をまとめるために教祖たちが善行を説いたのであろうか。

 現代では宗教を忠実に信じてその教えを守る人々は相対的には少なくなっていると思える。しかし我々は人々がある程度協力しあわないと社会の健全性が保たれないことを理解しており、それにしがって社会を維持している。ということは、人間は根っからの性悪ではないともいえるのではないか。相変らず自己中心的な振舞いは多いが・・・。


認知症の新薬                  2021年6月  永野
 皆様よくご存じだと思うが、最近日米の薬品企業二社(エーザイとバイオジェン)が協同で初期アルツハイマー病の治療薬『アデュカヌバブ』の開発に成功したといわれる。米国食品医薬局ではすでにこの薬を承認している。認知症患者は世界で5000万人いるが、その6~7割がアルツハイマー型認知症である。これに対する治療薬は開発されていなかったが、ついに有効な治療薬が開発されたわけで、それ自体は大変結構なことである。
アルツハイマー病では、アミロイドβというというたんぱく質が脳内に蓄積し、これが脳の神経を破壊し脳機能の正常な働きを阻害する。この新薬はこのアミロイドβを除去し脳機能の低下を長期間防ぐことができるという。
新薬投与は年間610万円かかる。日本では初期アルツハイマー病の患者は200万~250万人といわれる。これら多くの患者がこの新薬を利用することになれば、それだけで1兆を超える医療費がかかり、医療財政を強く圧迫することは間違いない。高齢者の医療費自己負担は年齢や収入のよって異なるが、仮に2割としても自己負担は年間122万円にもなり、年金収入に依存する多くの高齢者にとってはとても負担できる額ではない。それにこのような新薬の出現は民主主義の根幹である平等の精神の維持に対しえ大きな障害となる。
一般に新薬誕生には莫大な研究開発費がかかる。その費用を回収するために薬価は極めて高くなるのである。高い薬価はすべての人が払えるものではない。保険制度が完備している日本のような国の人々でさえその23割程度は自腹で払わなければならない。まして保険制度が完備していない多くの国では低所得層の人々の多くは新薬により治療はあきらめなければならない。恩恵を受けられるのはごく一部の人々に限られる。これは資本主義の弊害を助長させる。人々の多くはできるだけよい医療を受けられるように、金銭の獲得に奔走する。これが社会の格差の増大に拍車をかける。
ではどうすればよいのか。正直、筆者にはその解決策が思いつかない。製薬会社は利益に結び付かないような薬品の開発は行わない。稀な難病に治療薬がないのはそのためである。国の金で開発研究を行うのは財政的に困難があるだろうし開発意欲は実益に結び付く企業の研究に負けるであろう。
考えられるのは日常生活の中でできる予防法の開発であろう。これは基礎医学の分野の仕事であり、大学や国立研究所で行われるべきものである。国はこのような機関で行われる基礎研究は効率が悪く役立たないものが多いとして縮小する傾向があるがこれは間違った施策であろう。人間の生命は有限でいつかは死ぬものであるが、その時までできるだけ健康でいる、いわゆる‘ピンピンコロリ’を追求することは人々の良い生き方に貢献するものであろう。公的な機関の研究者はこの実現を追求するのが本来の仕事であろう。政府もこれを推奨する施策を推進すべきである。最近は企業と結託して高く売れる薬品開発に積極参加する学者が増えているがこの傾向は改めて、一部の金持ちの欲する薬品ではなく、貧富に関係なく人々が安らかに生涯を終えることに役立つ研究をしたいただきたいものである。

科学と政治                     2021年8月  永野
8月は終戦記念日の月である。今は戦争体験がない人が殆どになって、あの第二次世界大戦の愚かさを実感し反省を新たにすることも少なくなったようである。しかし、人類が決して忘れてはいけない教訓がいくつかある。その代表的なものが科学と政治の関係である。
対戦も後半に差し掛かったころ、両陣営は新型の大量破壊兵器の開発を競っていた。原子爆弾である。それを先に実用化したほうが戦争に勝利することは明らかであった。誰もが知る理論物理学者アインシュタインはそのことをアメリカ大統領ルーズベルトに伝え、アメリカが原子爆弾開発を強力に進めることを進言した。彼の進言に従ってアメリカはマンハッタン計画としてその開発を進め、大戦終末に世界で初めてその開発に成功し、広島・長崎にこれを投下し日本を降伏させた。この原爆開発の指揮を執ったのが理論物理学者オッペンハイマーである。彼は世界を破壊してしまうような強大な兵器を開発することで、戦争を無意味なものにしようという動機で開発を進めたといわれるが、開発された兵器を持った政治家は開発者の意向など全く考慮に入れない。戦争を勝ち抜くことしか頭にない政治家たちは、それを通常兵器の延長線上でしか考えないのである。オッペンハイマーは戦後原爆の使用に関して「科学者は罪を知った」という言葉を残し、原爆開発を主導したことを後悔していたという。彼は戦後核兵器の国際的な管理とその開発抑止のために精力的に動いた。これが原因で冷戦真最中のアメリカで政府の圧力を受け、公職を追放された。
核兵器の原理を示したアインシュタインも戦後自らの行動を深く反省していた。彼は著名な哲学者バートランド・ラッセルらとともに全ての核兵器および全ての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議(パグウォッシュ会議;湯川秀樹博士もメンバーの一人)を設立した。しかし一旦政治家の手に渡ってしまった核兵器は廃絶されることはなく、いくつかの国で製作・所持され、国の力の誇示と他国への圧力として使われている。アインシュタインはこの状態を嘆き次の言葉を残している。この世には無限なものが2つある;宇宙と人間の愚かさである、と。愚かさという言葉の中には人間の欲望も含まれると考えられる。
湯川博士は原子力利用を検討する日本政府の委員会でその安全性の検討が十分になされないとの理由で委員を辞している。最近他界されたノーベル物理学賞受賞者益川敏英さんも熱心な反戦論者としての政治的発言が多かった。平和運動への取り組みとして「9条科学者の会」も立ち上げている。科学の進歩は使う人間によって平和利用も軍事利用も可能になる。そのことを科学者はもちろん市民もしっかり認識しなければならない、と説く。
車椅子の物理学者として知られるあのホーキング博士(ブラックホールなどの研究で世界的に著名)も科学技術と社会との関係について名言を述べている。曰く、AIは未来のカラシニコフとなるであろう、と。カラシニコフとは旧ソ連で開発された自動小銃で、安価で頑丈で扱いやすく殺傷性の高い兵器として評価されている。AIが殺人ロボットなどの兵器の開発に利用され、戦争などで人類の殺戮が蔓延するであろうという警告である。
人間はこのような著名人の危惧を踏まえて科学技術と社会の関係を根本から考え直す必要があるのではないか。  

217月ミニトーク                    永野
1)コロナとの共生
ウィルスは30億年まえから地球上に存在しているという。それに対し人類はおよそ500万年前に猿人として現れ、現代の人類に近い新人類(クロマニヨン人など)はわずか4万年前である。この歴史を考えればコロナウィルスの撲滅などというのは人類の思い上がりであり、ウィルスとの共生をベースに考えるべきであろう。ところでコロナウィルスのRNAは通常のインフルエンザウィルスの2倍の長さを持つ。ということは増殖過程でRNAのコピーミスが2倍の確率でおこると考えられる。この事実を踏まえればアルファ株(イギリス株)、デルタ株(インド株)などの変異株が容易に現れるのは理解できる。
ウィルスは自身で増殖することはできないが、生物細胞の増殖機構を利用して増える、と言われる。その増殖の媒体となる人間その他の生物は進化の過程でウィルスの力を借りているという。ウィルスと生物は太古の昔から互いに協力し合って存在してきたのである。
2)人はいつからよくばりで自己中心的になったのだろうか。
多分狩猟採集時代から農耕時代に移った頃からではないか。狩猟採集はだれの所有物でもない野山で行われるから収穫物の所有権意識も少ない。とくに狩猟は大勢が協力して初めて成り立つものであるから獲物の共有意識も自然に起こるであろう。太古の昔から獲物は均等に分け合う慣わしがあった。今でも狩りの獲物は狩猟に参加した猟師たちが均等に分けるというのが決まりであるという。農耕では畑の作物はその畑で農作業をした農夫の占有物であり、そこから農作物の量が富の格差を生むようになり、多くの富を得ようという欲が生まれたといえよう。また、狩猟時代獲物は保存できないし、部族の皆が食べないと生きていけないので、部族を守り続けるためには食糧の分け合いは当然であったろう。しかし人間の財の所有意識が強まると、財が部族の結束を弱め、人は財に依存して生きるようになり人々の分け合い、共存の意識が欲により薄められることとなった。その流れの行き着いたところが、現代のグローバリズムと資本主義特に新自由主義の台頭による殺伐とした3だけ主義が蔓延する現代の人間社会であると思う。
3)理想主義の必要性
国際政治において理想主義は常に現実主義に否定されてきた。例えば新自由主義とグローバル化が典型的な例であろう。しかし現実の追認だけでは何も生まれないのも歴史の教訓である。だから理想は常に語られなければならない。理想は人間の思考が始まる本質的な基盤である、という。1956年国連加盟を果たした日本は、外交の3原則を①国連中心、②自由主義諸国との協調、③アジアの一員としての立場の堅持、とした。しかし現実はアメリカ追従一辺倒であった。これが理想と現実のギャップのいい例である。民主主義が謳う自由と平等は理想社会を信じる永遠の営みであり、現実の障害に屈しない挑戦のプロセスにこそ価値を見出し、その姿勢を持ち続ける必要がある。(英国の歴史家:E.H.カーの言、朝日新聞社説より)

利他の難しさ                 20215月  永野
利他とは仏教やキリスト教など多くの宗教の基本理念となっているもので、高僧最澄の言「己を忘れて他を利するは慈悲の究極なり(忘己利他)」という言葉で言われるように、自分を忘れて他人のためにつくすことを言う。極めてまともで人間が持つべき基本的な考え方である。しかし、現実世界において実際にこの教えに従って行動しようと思うと様々な問題が生じてくる。困っている人のためにという思いから生じる行動が結果として当人のためになっていない、ということがよく起きる。例を紹介しておこう。
合理的利他主義という考え方がある。日本でいう‘情けは人の為ならず’的な考え方で、人に良くすることは結局本人のためにもなるのだから人のためになる行動をしようというもので利己主義に通じる側面が出る可能性を排除できない。効率的利他主義というものもある。自分にできるもっともよいことをしよう、というものである。この場合寄付の額など量的な尺度で利他を考えてしまうというということが起きる。利他は量的尺度で測れるものではない。利他的なよい行動をする場合、何がよいことであるか、ということをよく踏まえることが必要である。これは極めて主観的なものとなる。例えば寄附をしようと思う時、どこにするべきかという判断は当人の主観によって決めあるしかない。子ども食堂に寄付するか、国境なき医師団に寄付するか、両方とも困った人を救う援助にはなるがどちらがよいかを数量的に決めることはできない。利他行為はきわめて内発的なものなのである。そもそも利他はその行動の対象となる相手がそれを望むかどうかが問題なのである。相手の心に配慮することなく、勝手にその人の思い込みや測定可能な尺度だけで利他性を測ることは真の利他につながらないことが多い。
先進国が途上国で企業を運営し、現地人を雇用して彼らの生活を豊かにすることはその途上国にとっては一時的にはありがたい手助けかもしれないが、それだけではその国の人々を本当に支援したことにはならないことが多い。その国の人々自身が産業を興し、人々に職を与えることが必要なのである。外国企業はもっと安い労働力を供給できる国があればそちらに鞍替えしてしまい、退出してしまう危険性をはらんでいる。よく言われるように人々を助ける支援とは‘魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える’ことなのである。日本を含む先進国の多くは魚を与えることが主になっているのではなかろうか。
ケアのし過ぎが当事者の負担になってしまうことも多い。先天性あるいは後天的な事故、老化などにより機能が退化あるいは欠落した人々は他の正常な機能を使って普通に生活する術を獲得して行く。我々はそのことに十分な理解をする必要がある。何でも手助けをしてしまうことがかえって障害者に迷惑をかけることを知っておくべきである。
利他を研究する学者たちは器(うつわ)的利他という言葉をよく使う。これが利他の本質を言っている。要は相手がどんな人でもその欲するところを察知し、それにあうような行動をすることである。器がどんなものでも受け入れるように・・・。
参考:伊藤亜紗編、「利他とは何か」、集英社新書

やっぱり累進課税は必要       20215月  永野

 資本主義は格差を広げる本質的なメカニズムを持つからよくない、という考えはピケティの‘21世紀の資本’以来主流になっているが、この格差問題の解決策としてはリベラルな経済学者の多くが累進課税(註1)を提唱している。実際、20世紀のある時期累進課税によりこの格差拡大が抑えられたことがあった。アメリカでは1940~1980年代はいわゆる総中流時代と言われ、政府が累進課税を強化したことによりこれが実現された。富裕者は最大90%の税を課せられたことにより、貧富の格差が縮小され総中流社会が実現した。この累進課税強化の契機となったのが第二次世界大戦である。当時は高額の金を払うことにより兵役を免れることができた。一般国民はこの金を払うことができないので、兵役を拒否できなかった。これに反発した多くの庶民が富裕層への多額の課税を要求したのである。
また当時のイデオロギー対立もこの中間層に手厚い施策を後押しした。当時世界は東西冷戦時代で自由主義と社会主義(共産主義)のイデオロギー対立があった。自由主義国の経済システムは資本主義で動いており、これにより貧富の格差が広まると低所得層が社会主義体制を望み、自由主義体制そのものが危機を迎える可能性があった。政府はこれを避けるために中・低所得層に手厚い税システムを組む必要があった。
80年代後半冷戦が緩和され(1989年のレーガン・ゴルバチョフ会談で冷戦終了)、上記のイデオロギー的な対立から起きる憂慮が除かれた。これが富裕層優遇税制の再興を促した。この富裕層優遇策がいわゆるレーガンとサッチャーがけん引した新自由主義の普及と相まって、80年代からの格差拡大を招いたといえる。
またこの頃からのグローバル化の普及により、大企業がより税が低く労働力も安い海外へ流出をするようになったことも、富裕層への税を引き下げる施策の再導入と関係する。累進性を高め富裕層を抑えると起業や事業拡大などをして経済発展を推進している富裕層の働く意欲を減退させ、国の経済発展力を弱めることが危惧される。最高税率は各国で異なるがおおむね30~40%であろう。これにより格差はまた増加の一途をたどることになったのである。こうなると低所得層が厚くなり、多くの国民の生活は困窮する。この問題を解決するにはグローバル化に適切な規制をかける、一国の税制は他国との関係を考慮せざるを得なくなったので税制の世界的な取り決めを設けて累進性を強化する、などの施策が必要なのであろう。
最後に一言述べておきたい。前世紀の後半新自由主義が跋扈していた時代は一過性のもので、長い目で見れば経済は永遠に成長を続けることはできない。経済は回ればよいのであって伸びることを目標とすべきではない。自然との共生という枠内で人々の生活が成り立つように経済を回すことを心掛けるべきである。人間の我欲に後押しされる経済発展は見直されるべきであろう。
(註1)収入が多いほど課税率を高くする課税方式
参考:三木義一、<税は誰のものか~納税者の権利行使のだめに>、東京新聞オンラインニュース深堀り講座(2021520日)

216月ミニトーク                      永野
1)民主主義に対する哲学者国分功一郎の言
フランス革命を起点として旧来の階級社会が崩れて大衆社会が実現された。それは良いことであろうが、大衆が扇動的なスローガンに流されてしまうのでは真の民主主義は成立しない。自分なりの価値観や関心を持ち、それをベースにじっくり議論をする土壌が民主主義を機能させる。(このことは先月のミニトークでも述べた。)政治団体はこの共通の価値観を持つ者で形成されるべきもので、その起点は地域での高い政治意識が原点となるべきであろう、という。
2)人間の多様性
空間の一点の位置を決定するだけでも3つの軸の数値が要る。人の力量などの把握ともなればとても多くの軸(視点)が必要であろう。人を一つの軸、たとえば偏差値などの共通軸で測るより、その個性などの多様な特性を軸として総合的に見る方が人間をより正しく理解できる。それにより人間はその多様性を生かした人生を送ることができ、より生きやすくなるのではなかろうか。これは寺田寅彦(明治後期から昭和初期の物理学者・随筆家)の言であるが、現代社会にも当てはまる的を射た考え方であろう。
3)文化力
エコノミスト 氏(東京財団政策研究所主席研究員)によれば、自由の無いところに文化は生まれない、文化の無いところに人間の広い意味での発展はない、という。ここで言う‘発展’とは単に経済的発展や技術的発展ではなく、人間の知性の発展である。哲学、文学、科学、芸術などの基礎学問的な発展である。文化とはその意味での人間の発展を支える土台であるという。
日本はこの‘文化力’を軽視する傾向がある。日本の総予算に占める文化予算はわずか0.1%程度で、フランスの10分の1、韓国の7分の1、ドイツの4分の1であるという。日本はすぐに産業に役立つ実用的な学術研究には予算をつけるが、いわゆる文化的な基礎学問の活動にはお金をかけない。最近の大学教育における一般教養(リベラルアーツ)の軽視はその典型的な施策であろう。欧米人は全ての学問の源流にはギリシャ哲学があると考え、古来哲学をベースに全ての学問を発展させてきた。日本に科学技術が導入されたのは明治期であり、日本は基礎学問から生み出された果実である実用的な技術にのみ目を奪われ、その果実の根底にある基礎学問(科学のみならず文学や芸術を含む)自体を重視することを疎かにしてきた。その結果経済重視のエコノミックアニマルという悪評を買った。
最後になぜ哲学などの文化的学門が重要であるかを述べておこう。現人類は体力も脳力も優れていたネアンデルタール人と長い間共存していたが、最終的にはネアンデルタール人は絶滅し、現人類は生き残り現在の繁栄を実現させている。この差は文化力の違いにあるといわれている。現人類は音楽や踊り、絵画や陶芸などを発展さることにより創造力を発展させ、社会を形成することによる共生により環境の変化に適応して生き延びることができたのであろうと考えられている。

電気自動車は環境にやさしい?        20215月   永野
電気自動車はエコである(環境にやさしい)ということで、近年世界の自動車業界は一斉にこの開発を進め、旧来のガソリン自動車から電気自動車への切り替えを推進している。だが、 電気自動車は本当にエコなのであろうか?
電気自動車には大雑把に分けて2種類のものが存在する。一つは大型電池を搭載し、その電気で車を動かすものである。これを通常EV車とよぶ。もう一つは水素を搭載し、いわゆる水の電気分解の逆過程を使って発電を行い車を動かすものである。これは燃料電池車(FCV車)といわれる。FCVFuel Cell Vehicleの略称である。
EV
車は確かに走行時にはCO2などの有害な排ガスを出さない、という意味では確かにエコである。しかしこの車を作る工程では多大のエネルギーを使う。そのエネルギーは電力によって供給されるから、発電そのものがエコシステムでない限りエコとは言えない。欧州などでは再生エネルギーの利用率が高く、その率は今後も増加するであろうから確かにエコと言えるかもしれない。しかし日本では再生エネルギーの利用が進んでおらず、電力の80%は石炭や天然ガスなどによる火力発電であるから、エコからは程遠い。走行時に使われる電気もこのような方法で供給されるのであるからトータルで見れば決してエコにはならないであろう。さらに、大型の蓄電池の大量生産も必要であり、これに要するリチウムなどの希少資源の消費を考えればなお更エコにはならないであろう。
FCV
車はどうであろうか。これも EV車と同じく新たなタイプの自動車を作る工程で多大なエネルギーを使う。さらに動力源である水素の製造過程で多大な電気エネルギーを消費する。最近オーストラリアから水素を安く輸入する案がすすんでいると聞いて、その生産過程を調べてみてこれは全くエコではないことが分かった。オーストラリアに豊富にある石炭資源を使って発電をし、その電気エネルギーを水素に変えて液化して船で日本に運ぶそうである。これでは日本国内ではエコになるが、オーストラリアでは大量のCO2が放出されてしまう。環境問題は地球規模で考えないといけないのでこれでは全く環境問題は解決しない。それに水素は液化して船で運ぶというから、極めて低い温度を保つ液体水素保存システムが必要でありこれに要する電気エネルギーも膨大なものになろう。全くエコからは程遠い水素の供給である。また、水素という危険なガスを車に搭載するのであるから安全性という面でも問題があろう。車の衝突事故などが大事故になる可能性が高い。
結論としては、地球トータルで考えれば電気自動車のエコ性はあまり高くないのではないかと思われる。自動車会社が新しいタイプの車を売るためにエコ性を前面に出しているとしか思えない。(これも資本主義の弊害。)地球全体という視点で考えるならば、まずエネルギーの獲得そのものをエコ的なものに移行させることが必要であろう。その上で自動車などのエネルギー消費システムの利用を控える意識を広め、地球の自然を壊さないように我々の地球上での生き方を変えてゆく努力が必要なのではなかろうか。

反知性主義                  20215月  永野
今日の日本をはじめとする多くの国々の政治・社会を特徴づける言葉として‘反知性主義’という言葉がある。これはいったいどのようなものなのであろうか。反知性主義とは知的な生き方及びそれを代表するとされる人々に対する憤り、嫌悪、疑惑を持つ考え方である。これは80年代あたりから世界に顕在化してきたネオリベラリズムの流れと民主制の両立を考えるうえで支持者を増やした考え方である。近代の思想を支配してきた啓蒙主義、すなわち人間の知性の限りない発展と追及、高度な知性と豊かな内面性を持った人間という理想像に対する反発から生じた考え方である。彼らは知性の追及こそが現実世界で格差を生んでいると考えているのである。したがってこれは単に知的な事柄に無関心であったり知性が欠如しているという‘非’知性的なものではなく、知性の働きに対して否定的で攻撃的な態度をとることを意味する。まさに‘反’知性的なものなのである。
彼らがいわゆる啓蒙主義的な知性に反発するのは以下の理由による。啓蒙主義の下では知性の不平等が常に存在し、この不平等が富や権力の不平等といった現実的不平等と深く関連する。これは民主主義の根幹である、人間は自由で平等である、とする考え方に抵触する。反知性主義者はこの考え方にとらわれ、真正の知的精神や態度の対しても見掛け倒しであると判断し、知的な事柄のすべてに対し本当は役立たない無用なものであると判断する。本当の知性的言動は経済などの現実的不平等とは無関係であるべきであるが、反知性主義を基盤とする大衆民主主義ではそういう考えは無視される。このような流れは政治権力に利用されて暴政を招く危険性をはらみ、知識人弾圧といった破局的事態を招く。これが現実となったのが、マッカーシズム、文化大革命、ポル・ポト派による知識人弾圧などである。
初期の資本主義の発展は先進国で貧困層を減らし、総中流社会を実現したが、グローバル化と規制緩和を主軸とするネオリベラリズムの台頭によりこれが崩壊し、新たな形の階級社会が出現したのである。この新たな階級は従来の低所得者階級とは必ずしも一致しない。
マスコミ報道などに流されやすく自らの知的判断をしない軽薄な層である。政府の景気浮揚政策がよいものだと喧伝されれば、よく考えないでそれを鵜呑みにして乗ってしまうたぐいの人々からなる層である。この種の人々が相対的に多数を占めることによって知的市民の的確な判断が政治・社会に生かされなくなる。一例をあげれば、小泉元首相の、自民党をぶっ壊す、改革なくして成長なし、などの威勢の良い宣伝文句に乗っかり、小泉政権圧勝を実現した大衆層がそのよい例であろう。小泉元首相に限らず、トランプ政権の‘強いアメリカを取り戻す’、安倍政権の‘アベノミクス、これしかない‘などもその典型例であろう。
啓蒙主義が受け入れられていた時代では被治者と治者の関係の基礎が信頼と敬意であったものが、反知性主義が主流になりつつある現在では軽信と侮蔑に変わってしまったのである。これをもとに戻すためには市民一人ひとりがしっかりした自分の考え方を持ち、治者の考え方をよく吟味し軽率な流れに乗らない努力を怠らないことが必須である。
参考:白井聡、「主権者のいない国」第二章、講談社 (20213

20215月ミニトーク                      永野
121世紀を生きる君たちへ―司馬遼太郎―
小説家司馬遼太郎が小学生向けに‘21世紀を生きる君たちへ’という短文を遺している。20世紀は人間が科学技術を発達させ、自然に対するおそれが薄くなった時代であったが、次の時代である21世紀では「人間は自然に生かされている」という素直さ・謙虚さを持ち、それをベースにして自己を確立せよ、と説いている。それによって他人の痛みを感じる訓練を重ねて自己を作っていくことで、21世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になる、という趣旨のことを言っている。確かに人類は自然を軽んじて来たことは確かで、それを正し自然との共生を目指すことが必要であると思う。自然との共生を大切にする生き方をすることで、他の人への思いやりも育まれるということであろう。
2)民主主義
我々は民主主義という言葉を軽々しく使う。多数決で物事を決める、個々人の自由を前面に出す、などと言う表面的な意識での行動を民主主義と考えている人が多いのではないか。しかし民主主義は憲法や法律のもとで自動的に機能するものではない。民主主義に完成形はない。不断の努力が求められ、常にエネルギーをつぎ込まなければならないものである。人々が政治についてよく考え、自分なりの意見を持ち、それを語り合うことで共通の考え方や妥協点を模索する努力が絶えず必要なのである。
政治で競い合う相手は敵ではなく、自分と同じ正当な存在であると認める相互的寛容、権力の行使に対する自制心が必要である。最近は民主主義国とは名ばかりで権力の集中を行い独裁的に振る舞う国のトップが多いが、これは真の民主主主義とは言えない。‘民主主義には杖が必要である’ 、とよく言われる。杖とは国民の高い政治意識とその行動のことである。一般市民がこのことを正しく理解することが必要であろう。
3)量子コンピュータ
超ミクロな世界では我々の物理学的な常識が通用しないらしい。その世界では量子力学という学問で支配される法則が働き、例えば電子が波の性質と粒子の性質を併せ持ち、原子は右回転と左回転を併せ持つ、など我々の基礎知識では理解できないことがあるらしい。この不可思議な性質を逆用して考案されたのが量子コンピュータである。現在開発途上の2種類のものがあるが、いずれもまだ実質的な活用のレベルには到達していないといわれる。しかし最先端のスーパーコンピュータで一万年かかる計算を320秒で片づける驚異的な能力があるといわれる。現在のコンピュータでも世界を大きく変えつつあるが、量子コンピュータが実用化されればその影響は計り知れない。ある種の恐怖感を覚える。
一般論であるが、今までは技術の進展は良いものであると考えられていたが、これからはその人間社会への影響をしっかり考えてその利用を規制する必要が生じるであろう。既に遺伝子組み換え技術やAI技術ではその問題が現実となっている。いままでは技術の開発は科学者や技術者に一任されてきたが、今後は一般の人々も技術のあり方についてよく考え、それに対応することが必要なのである。

歴史探偵半藤一利さん逝く           20111月  永野
作家半藤一利さんがこの1月にあの世へと旅立たれた。昭和史の語り部としての名声は高く、鋭い歴史眼と豊かな人間観を持つ作家であったといわれる。彼の優れた点は、種々の歴史的出来事を通り一遍の知識で解釈するのではなく、その出来事に関わった人々から直接話を聞き、それに基づいた論考をしたことであろう。
この姿勢は、歴史は事実に基づいて正しく理解されるべきものである、という信念に由来するものであろう。往々にして歴史は時の為政者の都合の良いように書かれて後世に伝えられるものである。それでは過去の事実は正確に伝わらない、ということに対する危惧がそうさせるのであろう。よく引き合いに出される言葉であるが、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカ―の名言「過去に目を閉ざすものは現在・未来に対して盲目になる」を踏まえた姿勢であろう。この言葉は第二次世界大戦をしっかり踏まえて二度とあのような暴挙が起こらないように現在の政治を進めなければならない、ということである。元英国首相のチャーチルも同様に「過去を知らぬものは未来を失う」と言っている。半藤はこれらの名言が日本にも当てはまってしまうことを危惧したのであろう。今の日本の政治が右傾化し、戦前の軍国主義的な体制に傾くことに対する歯止めが必要であると考えたのであろう。我々はこんな日本を未来世代に残していいのか、未来世代に大きな借りを残しているのではではないかと言っている(司馬遼太郎との対談)。彼はこのような憂慮をはじめとして日本の政治の質の低下を憂いていた。そしてこの憂いを取り除くためには国民がしっかりと現在・未来を考えて行動する必要があるという。政治のかじ取りは結局この意識が高まることに尽きる、政治が腐るのは結局我々市民の責任である、という。その通りであろう。日本人はこの責任をしっかり自覚しておらず、お上任せで何とかなると考え、流れに任せている傾向がある。
彼はまたその論考を人に伝えるやり方も独特であった。誰にでもわかるように平易な表現で具体的な例を引いて表現した。例えば、大戦中の食糧ひっ迫を、単に食糧事情が悪くなってきた、というような表現ではなく、白米が禁止され7分づきの米飯しか食べられなくなったとき、気風のいいすし職人が‘てやんでぇ、シャリは白米でなきゃすしは握れねえや’と啖呵を切っていた、というような表現でその窮状をリアルに表現した。
半藤氏の代表作‘日本のいちばん長い日’を読んでみた。ポツダム宣言受託し敗戦を認めるという天皇のお言葉がラジオで全国民に伝えられるまでの経緯が克明に記されている。軍隊組織の洗脳が天皇のお言葉が放送される直前まで種々の混乱を招いたことがありありと書かれている。この様子を読む限り、天皇を神としていただく大和民族の国体の護持がすべてであり、国民の存在は国体あってのことであるという固定観念の浸透には驚くべきものがある。
余談であるが、森友事件における佐川元主計局長の偽証や証拠書類改ざんを上司から命令され、それに従わざるを得なかった赤木さんの意識の底にはこのような軍隊的洗脳が役所にも受け継がれており、それ赤木さんを自殺に追い込んだ、とも考えられる。日本人の欠点でもある洗脳され易さ、固定観念に縛られ易さが災いしていると考えられる。

我が亡きあとに洪水よ来たれ           20213月  永野
 この言葉はフランス王ルイ15世の愛人ポンパドール侯爵夫人の言葉であるといわれる。夫人は戦に敗れた王を励ますためにこの言葉を言ったとされる。この言葉には二つの解釈がなされている。一つは、王の統治が無くなれば国は混乱に陥ってしまうであろう、という意味であり、もう一つは、自分が去った後に何が起ころうとも知ったことではない、という意味である。現代では後者の意味でつかわれることが多い。日本の、後は野となれ山となれ、という言い回しに相当するきわめて無責任な振舞いを言い表したものである。
近年世界を支配してきた資本主義が知識人たちによって、格差拡大や環境破壊の源泉であるとして批判されえているが、その批判によく使われるのが、この言葉である。すなわち資本主義に則って利益をむさぼる資本家たちは、その活動により自己の利益を拡大して自己発展を続け、労働者達からの搾取を繰り返す。また地球にある諸資源を湯水のごとく消費して自然破壊を進めて環境を破壊し気候変動を加速し、地球を人類が棲めなくなるものにしてしまう、という。このことはカール・マルクスがこの言い回しを使って強く警告している(註)。すなわち彼はその著名な著書‘資本論’の中で、「‘大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!’ これがすべての資本家および資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会が強制しない限り、労働者の健康と寿命に対し何らの顧慮も払わない」と述べている。このような未来を見定めた優れた考え方が19世紀後半にすでに提起されていたにもかかわらず資本主義的社会はその後百数十年にわたって世界を支配し続け現在もその状態は続いている。これは要するに近現代の政治家、起業家など世界を導く人たちが人類のより良き生存という大所高所からの視点で物事を処せず、近視眼的かつ自己中心的な視点でしか行動しなかったことに起因する。 これは世界を導いてきた人たち、それを支持して来た多くの人々が未来の人類の生き方についての配慮を持たなかったからであろう。人間がその価値観を何に置いて生きてゆくべきかということが重要なのである。その価値観は未来の人類がこの地球上で生き続ける、というものであるべきである。人間は本来自己中心的でそんな遠い未来のことなど考えられないと思う人も多いとも思うが、そうではなかろう。原始の人々が森の中で暮らしていたころでも、人々は自然が許容してくれるものを絶やさない範囲で生活していた。食料など生活の糧になる動植物はこれらが絶えない程度に消費していた。自然が破壊されれば自分たちもその子孫も生きていけないことを知っていたからである。これは社会が小規模であったからその配慮ができた、という側面もあろう。現代のようにグローバル化が進みすぎた世界では人々は遠くの人々への配慮がなかなかできないのであろう。グローバル化を全面否定はしないが、その節度をわきまえ時空間的に遠くに住む人々への配慮もして相互の利益と地球自然との調和を考えて生きてこそ人類はこの地球上で生き続けられるのではなかろうか。     (註)なお、マルクスというと共産主義の思想的基盤というイメージがあるが、彼自身は今の独裁的な社会は想定していなかった。

‘214月ミニトーク                      永野
1)完璧主義の弊害
人間には極端を避けようという本能がある。白黒、勝ち負けをつけるなどの二者択一は息が詰まる。完璧・完全は不吉、極端には魔が宿る、と言われる。政治の世界でも極左、極右は多くの人々には受け入れられない。安倍前首相は、日本を立て直す政策はアベノミクス、これしかないと言い切って国民を扇動したが、結果はご存知の通り日本は格差だけが広まってしまった。極端を避ける風習は洋の東西を問わず昔から存在していた。日本では屋根の葺き残し、柱を逆に立てる、西洋ではタイルの不規則な貼り、など。今の世界は極端が跋扈している。トランプのアメリカファースト、イスラム原理主義、フランスの極右政党進展、中国の共産党一党支配、プーチンの独裁などなど数多くの例がある。対立意見を敵とせず議論を深めて妥協点を模索する民主主義的な考え方の凋落が目立つ。グローバル化もその例の一つであろう。グローバルな交流はいいがそれぞれの国、地域の特性を理解して大切にし、押しつけがましい立ち入りは控えるべきである。今の世界の流れであるグローバル化はこれができていない。自国の利益のために相手を利用するだけであり、これでは人類の共生はできない。極端は理解しやすいが成功はしない。ほどほどで多くの人に安心感を与えるものがよい。ある程度の中途半端を受け入れ、多様性を理解する寛容さを持って物事に対応する姿勢がいまの世界には必要なのではなかろうか?
(参考)20201231日朝日新聞朝刊5面、社説‘ちゅうとはんぱやなー’
2)西田哲学
日本には西田幾多郎(1870~1945)という日本を代表する哲学者がいた。その哲学は今でも京都学派といわれる学者たちに引き継がれて研究されている。西田哲学は超難解である、という話は聞いていた。だから彼の‘善の研究’などの名著を読んでみようなどという気はさらさら起こらなかった。それでも福岡伸一という生物学者が西田哲学をうまく解説しているというので、少しは解るかなと思ってその解説書を読んでみた。西田哲学研究の第一人者池田善昭氏と福岡氏の忌憚のない突っ込んだ対話が記されていて興味深かったが、やはり難しくその神髄は半分も理解できなかったと思う。しかし福岡氏の執拗な突っ込みで西田哲学の匂いぐらいは嗅げたかな、とも思う。一番の目から鱗は;我々は西洋哲学・科学の思考形態をベースにして論理を組み立ててものごとを‘客観的’に理解することに慣れている。しかし西田によればその思考形態こそが既に人間の‘主観’による思考である、この世界で日常的に起こっているものごとはその枠内では説明できないものが多くあるという。これを純粋経験というらしい。また、生き物とその環境との間には互いに作用しあうものが常にあり、ダーウィンの進化論のように生物の進化は突然変異と淘汰という環境から生物への一方的・受動的なものではない;自然の仕組みはものごとのダイナミックな動きによって生じることが多いからそれをベースに考えないとものごとの本質はつかめない;これらのことを踏まえて思考をしないと自然界で起こるもろもろのことは理解できない、という。うわさ通り難解であったが、物事の真理に近づこうという西田の姿勢は感じられた。

官僚の忖度                  20213月  永野
最近の日本の政治では官僚の忖度が横行している、とよく言われる。官僚が政治家の顔色を窺い、その意向に沿うような言動を行っているのである。官僚は常に国民・社会のためになる行動をするべきであり、それが政治家の意向と対立する場合は政治家とよく議論をし、政治家の意向が個人的あるいは特定の組織などの利益に偏っていると判断される場合は堂々と反論すべきである。しかし現実にはそうなっていないことが多いのは、14年に内閣人事局ができたことにより政治家が官僚の人事権を握っているからである。
日本の政治システムは議院内閣制の発祥地イギリスのそれを手本にしたものであるが、そのお手本に従っていない部分がある。英国では古くから政治家は官僚の人事には介入しない、という原則がある。しかし日本では幹部官僚人事は官邸の内閣人事局が握っている。内閣人事局設置の根拠になった国家公務員制度改革基本法には「政府全体を通ずる人事管理について、国民に説明する責任を負う体制を確立する」、「官房長官はその責任を負う」、と明記されている。最近国会で人事についての野党の質問に対して、首相も官房長官も、人事についての詳しい説明は控えさせていただきます、と判で押したような答えをするがこれは明らかな法律違反である。
英国の手本を踏襲していないもう一つのことは官僚の政治的中立性である。官僚はその担当する分野の専門家であるから、その立場から時の権力にとって耳の痛いことも直言するのが中立の意味であり、英国ではこの規範が法律できちんと定義されている。しかし日本ではそれがなく、したがって中立の意味に対する合意も形成されていない。よく政治家は国民にえらばれてその任に当たっているのであり、官僚はそうではないから政治家の判断が国民の判断であるということを言うが、そうであろうか? 国民はその政治家にすべての判断を託したわけでもないし、逆に官僚は専門知識を十分に持っているからその判断が正しい可能性がある。どちらも政策が真に国民のためになるかということを第一義的に考えていれば合意点は生まれるであろうが、現実にはそうはなっていない。
今の日本は選挙独裁ともいえる政治体制で、政権与党が閣議決定で政策を決め、国会で十分な審議もせずに政策を進めている感がある。安倍内閣での安保改定などその例は数多くある。英国ではこのような流れに歯止めをかける仕組みがある。下院に特別委員会という超党派の委員会が設けられ、ここで政府の監視・チェックなどをおこなう。政府に問題があると調査をして報告書をまとめる。政府はこれに回答する義務がある。回答に対して更なる追及も可能である。この委員会でも与党議員による政府への加担があると日本では考えられるが、英国では一議員として内閣を監視し続けるという自覚が各議員にあり、党派の利害に流されることは少ないらしい。
結論として、日本はお手本である英国の議会制度のうち政府に都合の悪いところは取り入れていないということであろう。また両国の政治家と官僚の質の違いも感じさせられる。
参考:嶋田博子、‘官僚の忖度いつから’、127日朝日新聞朝刊11

民主主義が資本主義の後押し?!         20211月  永野 
昨今世界中で貧富の格差が拡大し、その根本原因が資本主義であるという批判が強まっている。その批判の根拠はどういうことであろうか。資本主義が格差を広げるという説はピケティの‘21世紀の資本’で指摘されて以来多くの人々に知られているが、まずその資本主義というものの実体を復習しておこう。資本主義経済とは財(お金や土地など)を持つ人(資本家)がその財を元手に様々な商品を作り、それを販売して財を増殖させる。増殖した財でさらに商品を増産し、財は増殖の一途をたどる。資本家は商品の製造を労働者に依存し、労働者は労働の報酬を得て生活を成り立たせる。これは相互依存の関係であるが、力関係は常に資本家側優位になっている。資本主義社会では資本家は常に同業者との競争に晒されており、より安い商品を提供するために労働者に超過労働や報酬抑制を求める。労働者がこれを拒んで退職し、他の企業で働いても状況は変わらない。その企業も競争相手に勝つために同様の要求を労働者にしてくるからである。結局労働者にすべてのしわ寄せが来て格差は拡大の一途をたどる。もちろん法規制などである程度の格差の歯止めはかかるが資本家の本質的な優位性は変わらない。
さて、資本家による富の増殖と囲い込みは19世紀初頭前後から急速に発展した。この頃から世界全体のGTPは驚異的なスピードで増加し、富は一部富裕層に集中して格差を助長している。これはもちろん産業革命が主因であることは間違いない。しかし、詳しく調べたわけではないが、もう一つの要因も無視できないと考えられる。それは民主主義である。19世紀以前の世界では国々の多くは王族、聖職者、貴族が権力と富で国を支配し、庶民もそれが当たり前であると思っていた。このような時代では世界のGDP増加は極めて緩やかである。GDP急増の転機はフランス革命と重なる。革命により庶民が目覚め自由を勝ち取って民主主義が普及し始め、一般庶民でも財を築き、豊かになることができるようになった。これが遠因となって資本主義社会が発展したと考えられる。すなわち民主義が資本主義隆盛の後押しをしたとも考えられるのではないか(以前の体制がよいと言う訳ではないが)。

フランス革命は「自由・平等・博愛」という理念のもとに遂行されたが、その実態は‘自由’だけが先行したように思える。それが人々の物欲を刺激し、資本主義に基づく富の獲得競争を招き、その競争に取り残された者たちが労働者となって社会の下層に位置するようになったのである。すなわち人々は自由を勝ち取ったが、それにより格差増大を招いてしまった、ということでる。人々は自由獲得により物欲を前面に出してその欲を満たす行動に走ってしまった。それが資本主義の暴走、格差の拡大を招いてしまったのであろうと思われる。本来人々が自由に際限なく欲望を追求することは他の人々や自然(人間が生きる上での基盤)との共生とは相容れないものである。この欲望の暴走に歯止めをかけるのが‘平等と博愛’である。フランス革命の標語にはこのブレーキ役の重要性がきちんと書かれているのである。それにもかかわらず自由の追求だけにとらわれた人間はやはり愚かで滅ぶべきものなのかもしれない。民主主義は良いが、やはりそれには‘杖’が絶対に必要なのである。

213月ミニトーク                     永野
1)直木賞受賞作‘心淋し川’
小説はあまり読まないがコロナ籠りの暇つぶし(著者には失礼)に、新聞の書評などで好評な直木賞受賞作‘心淋し川’を読んでみた。江戸時代の下町の貧しい人々が暮らす街の模様を描いたものであるが、評判通りの良い作品であった。人によって評価の視点は違うのであろうが、小生はその人間模様に感じるものがあった。先の見えないその日暮らしの中で、互いにぶつかり合いながらも他の人への思いやりを忘れない温かい生き方に深く感じ入った。これこそが人間の持つべき本来の姿ではないか、これこそがひたすら物欲・我欲に走る傾向がある現代人に欠けているものではないか、と。ちなみにこの本は芥川賞受賞作と並んで書店に積まれていたが、私が手にしたのは最後の一冊であった。芥川賞の本はまだ山積みであったが。小説素人の評ではあるが、作者西條奈加の思いを伝えるストーリーの作り方、進め方、表現の仕方にも非凡な才能を感じた。
2)日本の政治は民主主義に則っているか
桜問題で118回ものうその答弁をし、森友、加計をはじめ多くの問題で虚偽答弁をした安倍前首相の横暴さは今更言うまでもない。国会の場での虚偽の発言は厳に禁止されているにもかかわらず口から出まかせの虚偽答弁を繰り返した当人は首相はもとより国会議員として失格であった。これを不起訴扱いにした検察もその職務を果たしていない。検察と言えば、検事長の異例の定年延長を閣議決定し法制化しようとした問題がある。これは民主主義の根幹である三権分立を無視した行為である。立法、司法の独立性を完全に無視している。立法権は国会にあるのであるから、そこでの十分な審議を経ないで、数を頼んで強引に進めようとしたことは横暴の極みであろう。法務省、人事院、内閣法務局などの機関もこれに異を唱えなかったことも問題である。行政が司法、立法を無視した暴走をしたのであり、これを厳しく追及しなかった日本の政治は民主政治を行っているとは言い難い。この法案は、例の賭け麻雀問題で発効はしなかったが、閣議決定は取り消されていない。いつ蒸し返されるかわからない状態である。国民はこの点をしっかり記憶しておく必要がある。
3)死生観
 人間の死に対する考え方は現代では百人百様であると思う。天国・地獄の存在を信じる人もいるし、死すれば土に還るだけである、と考える人もいる。森鴎外はその生きた時代が明治・大正期であり、多くの人々があの世の存在を信じていたであろう時代には珍しく、人は死後は土に還るだけである、と考えていたといわれる(註)。彼は位の高い軍医でもあったので生物・医学的知識も豊富であったし、西洋留学経験もあったのでそのような考えを持つに至ったのではなかろうか。しかし死をそのように割り切って考えてしまうことには一抹の味気無さを感じると思う人も少なくないであろう。よく、人は2度死ぬ、と言われる。一度目は本人が生物学的に生命活動を失う時であり、二度目はその死者の生前の記憶を持った人々が死に絶えるときであるという。良き二度目の死に方をしたいものである。
 (註)小塩節、‘随想 森鴎外’青娥書房(20208月)

聖書の中の仏教的な言葉            202012月 永野
旧約聖書の中の知恵文学という編の中にコヘレトの言葉という節がある。コヘレトという知恵者が書いた文であるが、その内容がまことにユニークであり、聖書の中の文書とはとても思えない。冒頭から‘一切は空(くう)である’というまるで仏教書にあるような文言が出てくる。その後も虚無的で厭世的な文言が続く。さらに一転して‘神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見出すこと、これこそが神の賜物である’、と言う。このため彼は虚無主義者でありかつ享楽主義者である支離滅裂な思想の持主であると考えられてきた。キリスト教では反面教師的な役割を果たしているとされ、その内容は高くは評価されてこなかった。キリスト教の聖典では、いつでも喜び、神に祈り、感謝の日々を慎ましやかに送りなさい、それによってこの世の終末(黙示思想)に人々は神によって救われるのです、ということを説いているからである。
では旧約聖書の編者たちは何故聖典の中にあえて支離滅裂ともいえるコヘレトの言葉を載せたのであろうか?反面教師的な役割を持たせるならば、そのような記述が入ってしかるべきであるが、そのような表現はない、という。この疑問対してキリスト教学者の小友聡が以下のような解釈を述べている(1)
旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれている。‘空’と訳された後はヘブライ語ではへベルである。この語にはもちろん‘空しさ’という意味があるが他にも無益、無意味という意味もある。コヘレトは‘すべては空である’という言葉の後に‘風を追うようなものだ’という言葉を付け加えている。またへベルは英語では‘はかない’、‘脆い’という単語で訳されることもある。これをもとに類推するとコヘレトはへベルという語を‘束の間’という意味で使っていたのではないか。するとコヘレトの言葉の中の、へベルである人生、若さも青春もへベル、という表現が素直に読める。人生は短い区限りのあるものだ、人生は束の間のものだ、だからこそ意味があるのであると述べている。飲み食いの賛美は享楽主義から出たものではない、この日常の小さな幸せは束の間の人生を生きる人間に与えられた神の賜物であり、それを享受することは神の意にかなうものであるということになる。労苦さえも神の賜物であるということの本意は、働く者は心地よく眠り安らぎことができるが、銀(お金)を愛するものは富の虜になり心の安らぎを得られない、ということである。
コヘレトの言葉で一つ聖書の趣旨に反することがある。それは終末思想(黙示思想)を否定していることである。聖書にはこの世には終末があり、その時神が遣わした救世主が善き行いをしてきた人々を天国に導く、という基本思想がある。コヘレトはこの趣旨に反し世界は永遠に循環する、ということを説いている。このような世界観は仏教の輪廻転生に対応するものであろう。この考え方を聖書の編者たちが否定しなかったことは、彼らが古代ギリシャにあった永遠回帰の思想を踏まえているのかもしれない。彼らは聖書的な考えの妄信者ではなかったのかもしれない。コヘレトの考え方は現代人にも納得されるものであろう。
(註)小友聡、「それでも生きる」、NHK心の時代(NHK教育テレビ)、NHK出版

AI
の効用                 20211月  永野
 昨今コンピュータを用いたAI技術の発展により、人間では困難な問題はAIですべて解決できる、という風潮が強まっている。極端な例では人間の脳の仕組みはすべて解明され、脳の機能はすべてコンピュータにより実現可能である(いわゆるシンギュラリティという考え方)と考える学者も米国などでは多いと聞く。しかし、コンピュータはあくまで人間に使われる道具の一つであり、その利用法も人間に資するもの出なければならない。
例えばこんな利用法を提唱する人もいる。今はビッグデータの利用は常識で、ビジネスではよくつかわれている。これを政治にも使えないだろうか。SNSなどを利用して人々の個人情報を集めて分析し人々の無意識の言動や行動データを集める。それをAIにより分析し、人々が何を望んでいるかを把握し、それを政策に反映させる。これは未来の民主主義として妥当なようにも思えるが、少々心配なところがある。人間は本来自己中心的で無限の欲望を持ち、それに従って言動を行うものである。しかしそれでは社会はうまく動かない。その問題を解決するために、憲法があり、種々の法律が規定され、さらには社会常識があり暗黙の慣習などがある。それらを踏まえて人々が行動することにより社会は成り立っているのである。個々人の心に内在する願望は多種多様で相対立するものも多いであろう。上記の方策を採用し個々人が持つ願望や考えをデータ化し、それに従うような政策など立てるのは困難ではなかろうか。それにこの方策は人々のあらゆる側面を政府が把握することになるから、個々人のプライバシーを保護するという観点からも問題を持つし、個人データの悪用、洗脳的行為による独裁の可能性など種々の問題がありそうである。
必要なことは人々の多様な欲望をどうコントロールして共生に導くか、ということであろう。それには社会を維持していくための考え方や知識を共有することが肝要である。そのためには人々が話し合って意見を交換する場が必要であり、また共に生きるための教育システムも必要であろう。AIを用いたデータ分析による政策ではそのようなことの実現は極めて困難であろう。要は個々人の志向の分析だけでは円満な社会の形成はできないであろうし、そのような政策の施行は人々を幸福にはしないであろう。
 一方で、AIは膨大な過去のデータの分析結果を与えてくれるので、人間の種々の側面をサポートしてくれる有用な技術でもある。医療、移動技術など数多くの実績例がある。また、将棋や囲碁などのゲームではコンピュータの優れた計算能力を利用して人間が思いつかないような差し手の開発が行える。これはゲームの能力向上に一役買っている。AIは今では名人クラスも負かす能力を持っている。しかしそれによってこれらのゲームが廃れることはない。ゲームはあくまで人間同士で行うものですから、その棋戦や相手に対する心理的な側面、相手の差しでの傾向など複雑な要素が影響し勝敗を左右する。この点はAIの関与が難しい領域である。
結論としては、AIは極めて有用なツールであるが、それに依存しすぎることはよくない。特に人間の感情、欲、などの心理的本能的な要素が絡む問題にこの技術を持ち込むかとは何かと弊害をもたらすであろう。

20212月ミニトーク                   永野
1)ワーカーズコープ
この欄の11月号で参加型社会主義というタイトルで拙文を書いたが、それと同じ考え方に基づくワーカーズコープという新しい働き方を認める労働者協同組合法が国会で承認され発効するという。これは労働者が出資・労働・運営に直接参加できる組織であり、働く人々の生きがいを増すものである。地方に固有の特徴を生かした産業の振興・発展などに貢献することが期待される。この法案は約30年の長い期間をかけて与野党議員が党派を超えて議論をし、法案を作り上げたものである。類似の組織にNPO法人や企業組合などがあるが、それらより認可のための制約が少なく、組織を立ち上げやすいという利点がある。国会における法案審議には政府が提案するものが多いが、国会議員が中心なって作る法案(議員立法)も重要である。このような法案が多くなることが健全な民主主義を育てることになると思われる。日本の国会はともすれば与野党のバトルになり、議員が党派を超えて国民のためになる法案を作ることが少ないが、今後は上記のような法案を増やす方向で動いてほしい。
2)江戸文化研究者 田中優子
今月の別稿で文学者石牟礼道子の卓抜した才能を紹介したが、彼女の世界を研究し我々に伝えたのは江戸文化の研究者田中優子である。この人は法政大学の学長でもあり(今年3月退任予定)、大学改革に尽力しその質を向上させる成果を上げた。学内外の評価も高く、統率力・マネージメント力に優れた実務家であると思っていた。しかし、彼女の著書を読んでみると、その学者としての際立った才能が読み取れる。その底流には資本主義に席巻される現代社会に対する批判精神がある。考えてみれば江戸時代の庶民は物欲・金銭欲に支配されずに、共同体を大切にして暮らしていたと思える。それが彼女を江戸文化研究に導いたと思える。石牟礼の世界に彼女が共感を抱いたのもそのあたりが理由であろう。この人も女性トップの良い成功例であろう。総長の肩書が外れフリーな立場での活躍が期待される。
3)女性トップ:補遺
12
月のこの欄のミニトークで政治や社会での女性トップの重要性を書いた。そこでコロナ対策で優れたリーダーシップを発揮した女性トップとしてメルケルとアーダーンを挙げたが、一人重要な人物を書き忘れていた。台湾のトップであるの蔡英文総統である。コロナ流行の初期から入国者の検疫や入国規制を実行し(註1、住民には手洗い、マスク、野生動物との接触回避などを奨励し、感染拡大に歯止めをかけた。
中国の習近平主席は中国での感染拡大が抑えられたのは共産主義体制の貢献が大きいとして自国の政治体制を称賛した。しかしこれは国家体制に関連しているものではない。その国の指導者の‘国民を感染から守ることを第一義に考えなければならないという意識の高さ’の問題である。その意識が低かった米国では大流行がおこった。日本の第3波もその類であろう。共産主義的な独裁体制を持つロシアなどでも大流行している。コロナを抑えられるか否かはイデオロギーの問題ではない。政治家の意識の高さの問題である。
(註1)台湾は厳密には独立国家ではないが、便宜上‘入国’という言葉を使った。

石牟礼道子の世界                 20211月  永野
石牟礼道子は水俣病の惨状とそれに基づく自らの思いを吐露した優れた作品を世に出した作家・エッセイスト・詩人である。水俣病は戦後まもなく熊本県水俣市で化学工業会社チッソの工業廃水の海洋放流により引き起こされた有機水銀(註1)による海洋汚染である。著作‘苦海浄土’はその惨状とそれに対する彼女の独特の寄り添いを記したものである。水俣市在住の石牟礼はこの惨状を目の当たりにし、患者に寄り添うとともにチッソへの抗議活動にも参加した。その寄り添い方は尋常なものではない。チッソ本社前での患者たちの抗議の座り込みに自らも参加し、毛布にくるまって寒気を凌ぎながら毎日抗議を続けたという。
このような行動のベースには共同体に対する彼女の考え方がある。それは昔から日本の農村などにみられる生産共同体的なものである。家族・親戚はもとより、ご近所など暮らしをともにする機会が多い人たちが互いに協力しあって生活を維持するものである。今の社会の主流である個を重視する考え方とは相容れない部分を有するものであるが、これが人々が生きてゆくうえで重要なものである、と考える。いわゆる共生思想に通じる。人間は一人では生きては行けない、互いに依存しあうことで社会が成立するのである。
石牟礼が持つものはさらに強烈である。彼女は水俣病で苦しんでいるような人の心情を自分のものとして自然に受け入れて共に苦しむ。チッソ本社前での抗議活動の参加することはその表れである。患者とともにもだえ苦しむのである。いわゆる‘もだえ神’となる特質を持っている。これが彼女の特異で卓越した特性であり、それにもとづいた小説、エッセイ、詩などが注目される所以である。我々は人々の苦難に対して協力や同情はしてもどこか外野として醒めた感情を持つことが多いのではなかろうか。彼女にはこの‘醒め’がない。

 石牟礼の持つもう一つの特性は自然に対する畏敬の念である。自然豊かな水俣の海、そこから得られる海の幸を糧に、人々は物的豊かさではなく心の豊かさを大事にして生きてきた。チッソがその自然を破壊するまでは。自然との共生を水俣に取り戻すという思いは、本来人間は生き物の一つに過ぎず自然の中でしか生きられないという考えに根ざしている。
ところで、水俣病患者たちの中にはこの受難を恨むのではなく、このような難が二度と人々を苦しめることがないようにという気高い心を持って抗議活動をしていたものも少なくなかったという。彼女はその気高い心を‘能’で表現することを思いついた。能とは死者を舞台によみがえらせ、その思いを語らせるものであるというが、石牟礼は水俣病で死んだ人びとの思いを表現する能の台本を書いた。その結末は恨みに満ちた悲劇的なものではない。自分たちは人間界の毒を引き受けて逝くけれども、その魂は死なない、後世の人に受け継がれて、この世に生まれてくる、という結末である。再び生まれた人間は大自然の中で諸々の生類たちとの連帯を取り戻すという。そうでなければ人類は破滅の一途をたどる、ということを言いたいのである。まさに環境・気候変動などの今日的な問題に対する至言である。
(註1)中枢神経系疾患を引き起こし、生物の中枢神経系の正常な働きを阻害する。
参考:田中優子、苦海・浄土・日本―石牟礼道子もだえ神の精神―集英社新書(2020)

環境問題と科学技術              202010月  永野
環境汚染の問題に特に関心のない方もレイチェル・カーソンという生物学者の名前はどこかで耳にしたことがあるであろう。彼女は合成化学薬品とくに農薬に使われていたDDTなどの殺虫剤で自然界の生物(主に鳥や昆虫などの動物)が大量死し、自然生態系のバランスを著しく損なっていることを膨大な調査結果をもとに示し、その害の重大性を訴えた(1962年の著書‘沈黙の春’)。彼女のような自然回帰志向の学者に対する業界からの反発は常に起こることであるが、彼女の場合も御多分に洩れず化学薬品工業界から囂々たる批判が起こった。この問題について時の大統領J.F.ケネディは大統領諮問機関に調査を命じ、その結果をもとに環境対策を怠った政府の責任が追及され、DDTの使用が禁止された。これを契機に環境保護運動が世界的に広まっていった。
この問題の延長線上にある問題が現在の科学技術の野放図な発展である。カーソンは害虫を駆除して農業の生産性を上げるという近視眼的な目的のために開発された技術が地球の自然のバランスを壊し、人間を含む生物の生命に害を与えるというより大きな問題を指摘した。地球自然の保護という大局的な考えをベースに事を進めるべきであると主張したのである。根底には地球では種々の生物の営みのバランスのもとに人類の生息が成り立っている、という信念があったのであろう。それから60年近くたった今日、科学技術の進展はやはり近視眼的な目的でなされ、その弊害が種々の問題を引き起こしている。核エネルギー、遺伝子組み換え、情報技術、化石燃料の過度な消費などなど多くの技術が人類社会を脅かしている。技術開発は人類の福祉に役立つ側面を持つので、それはそれでよいことである。しかし技術には必ず負の側面が伴うのでその弊害を事前に察知して食い止めることが必要なのである。人間は新しい技術のプラスの面にばかり目を奪われてその技術を推進し、負の側面を事前に検討して対策を講じておくということがなされることは少ない。産業革命以来人類は技術革新は良いことであるという固定概念に縛られているのではなかろうか。技術が我々の棲家である自然を破壊しては何もならない。人間は地球という環境で生きる生物の一つに過ぎない。自然は生物としての人間が生きてゆくためになくてはならないものである。種々の問題はすべて科学技術で解決できるという論をよく聞くが、個人的にはとてもそうは思えない。たとえ身の回りの問題がすべて技術的に解決されたとしてもそれで人間は安らかに生きられるであろうか。いくら技術が発達しても人間が生物であるという事実は最後まで残る。技術に取り囲まれた人間は生物としてはかなり違和感があり、幸福感で満たされた生き方はできないであろう。技術の進展のおかげで寿命が延び、いろいろ便利な生活を送れるであろうが、反面その技術によって振り回される生き方になるであろう。さらに豊かな技術に囲まれた生き方は自然を食いつぶす生き方なのである。これを発展させ続ければ、地球の天然資源は人類によって消費しつくされる、またその消費による自然環境の破壊も進み、やがては我々はこの地球上で生息することすら不可能になるであろう。自然を食いつぶすことなくその許容範囲の中で生きることを真剣に考えるときではなかろうか。

20211月ミニトーク                     永野
1)民主主義
我々は民主主義という言葉を軽々しく使う。多数決で物事を決める、個々人の自由を前面に出す、などという浅薄な意識での行動を民主主義と考えている人が多いのではないか。民主主義は憲法や法律のもとで自動的に機能するものではない。民主主義に完成形はない。人々の不断の努力が求められ、常にエネルギーをつぎ込まなければならないものである。人々が政治についてよく考え、自分なりの意見を持ち、それを語り合うことが必要である。政治で競い合う相手は敵ではなく、自分と同じ正当な存在であると認める相互的寛容、権力の行使に対する自制心が必要である。最近は民主主義国とは名ばかりで権力の集中を行い独裁的に振る舞う国のトップが多いが、これでは民主主主義は根づかない。‘民主主義には杖が必要である’ 、とよく言われる。杖とは国民の高い政治意識とその行動のことである。
2)日本の民主主義
戦後民主主義の旗振り役であった丸山眞男は、汽車の中、床屋、銭湯などで人々が気楽に話す政治談議などを耳をそばだてて聞き、その内容を手帳にメモする習慣を持っていたという。なぜそのようなことをしたか。それらは無責任な環境での話であるため、本音を言っていると考えられるからである。それらから庶民の価値基準などを知ることができ、自身の政治学に役立てることができたという。
日本では政治と宗教の話は人間関係を損なう一因と考えられ、なかなかオープンな議論が公にはなされない傾向がある。特に会社などでは上司や同僚との関係を損なうので避けられることが多いという。これでは真の民主主義は浸透しない。他人と政治談議をし、互いの意見をよく聞きそれをさらなる政治的な思考のベースにできてこそ民主主義が根付いているといえよう。欧米では政治談議はどのような状況でもオープンに行われるのが当たり前である。
この差はやはり血を流して民主主義を勝ち取った彼らと、戦争に負けて民主主義を受け入れた日本との違いが招いたものであろうか。日本もこの村社会的な傾向を早く脱しないと真の民主主義国家とは言えないであろう。

3)学問の独自性
今問題になっている日本学術会議の在り方に関し、科学技術担当大臣(井上信治)が産業界と学会の緊密な連携や、産業界出身の学術会議会員の増員などを検討しているという。しかし、科学技術は‘学術・学問’の一部に過ぎず、その産業界との連携を学術会議内で強調することは大いに疑問である。第二次世界大戦時に科学技術者を積極的・強制的に戦争に参加させたこと(例:毒ガスなどの化学兵器開発)への反省という側面からも学問の独立性は重要であり、政治から切り離して考えられるべきものである。その意味でリベラルアーツ(いわゆる一般教養的な学問)の重要性が再認識されなければならない。安倍政権時にあった一般教養や文系学部の廃止と産業振興に役立つ科学技術教育研究への偏重は避けられるべきである。                      地球と仲良く生きていこう          20208月  永野 
人間がこの地球上でどう生きるかということに対しては諸説があるであろうが、人類が生存し続けることがその根底にあるという考えには異論がないであろう。このことを踏まえるならば、人間が地球の自然というエコシステムの中で生きている生物の一つに過ぎないという大前提を理解しておくことが必要である。
地球の自然はミクロなウィルス、細菌から大木や大型動物に至るまで膨大な種類の生物が複雑に絡み合ってバランスを取りながら存続しているシステムである。人類はそのシステムの中で物質的な文明を発展させ、自然を消費しながら存続し続ける極めて異例な存在なのである。人類は自然を征服するために神が遣わした存在である、という考えがキリスト教にあり、それがベースとなって西欧を中心に科学技術が発達した。しかし、人類は自然があってこそこの地球上で生存し続けられる存在なのである。科学技術の発展により人類は地下資源の消費などで地球環境の汚染を進めている。農業のために行う森林の開発なども環境破壊に拍車をかける。このように物質文明発展を続ければ、地球の自然は破壊され、人類はその首を自ら絞めることになる。

太古の昔、人類は他の生き物と同じく地球のエコシステムの中に完全に取り込まれて生きていた。その状態が狂い始めたのは今から約一万年前人類が農耕と牧畜を始めた時である。しかしこの段階までは自然の包容力の大きさのおかげで問題は生じなかった。人類が自然の包容力を逸脱し、公害という形で自然に害を及ぼすようになったのは産業革命で人類が動力機関を発明してからである。動力を得るために太古の昔にできた化石燃料を消費することで現在の自然が供給するエネルギーの限界を逸脱してしまったのである。この逸脱の悪影響は自然の包容力の大きさのために人間はすぐには気づくことができない。
これからの文明は、効率とスピードをおとして、自然の複雑なシステムを破壊しないように心掛けながら進めなければならない。便利さ、物的な豊かさを追い求める文明の在り方を再考する必要があろう。人類は身勝手で近視眼的な発展で現在地球上で繁栄を謳歌しているがこの繁栄は永続することはない。繁栄の追及が自ら墓穴を掘る行為であることは人類の歴史がたびたび示している。文明の力で自然を征服しようという考えを捨て、自然システムの中でいかに人類が生き延びるかを考えてゆかねばならない。自然を文明の力で征服しようとする試みの失敗は枚挙にいとまがない。火災や洪水による大災害は人間の非力さを示してくれるし、エネルギーの過剰な消費による自然の破壊が人類の地球上での生存を脅かしている。それに気づきながらも物質文明の発展を止められない人類は愚かでやがて滅亡の道をたどるであろう。それを避けるには自然と共存できる文明を開拓することができるか否かにかかっている。高度な文明を手に入れた人類は今更原始の世界に戻ることはできないのであるから、自然を壊すことなく現在の文明を維持していく道を模索しなければならない。きわめて困難な道ではあるが、人類滅亡を避けるにはこの道しかない。
参考:立花隆、‘思考の技術’中公新書ラクレ(20208月)

坂の上の雲                 202010月  永野
これは日露戦争を題材にした司馬遼太郎の著名な小説(1968~1972)のタイトルである。小説の内容はほとんどの方がよくご存知であろう。ここではこのタイトルに関連して少し論じてみたい。‘坂を上る’ということは、欧米先進国に経済的にもその他の面でも追いつくことを意味する。‘雲’が意味するところは、坂を上りきり、欧米に追い付いてみたらそこには雲が立ち込め、先が全く見えなかった、ということであろう。日本も20世紀後半欧米に追いついた段階でその先の自国独自の道を切り開くべきであった。モノづくり産業で発展を遂げて来た日本は、その後もこの産業形態で発展が可能であると考えて産業形態の改革を怠った。しかし世界はグローバル化の一途をたどり、モノ作りは労働力豊かな途上国に移り、日本のお家芸の時代は終わっていた。欧米はこの流れをいち早く察知し、情報産業を中心とする産業形態に移行したが日本はこの流れにうまく乗ることができなかった。
90年代に自民党の故加藤紘一がこの点の施策の誤りを指摘していた。彼は、坂の上は五里霧中で行く先がみえない、自分で考えて先を決めないといけない、ということを察知した優れた政治家であった。しかし党内でうまく立ち回れず、主流を作れなかったために彼の考えで日本を方向転換させることができなかった。惜しい人材を失ったと思う。彼は山崎拓、小泉純一郎とともにYKKグループを結成し、当時の自民党の最大勢力経世会による政治を刷新しようとして森内閣不信任案を野党と協力して通そうと思った(いわゆる加藤の乱)。しかし反対派の逆襲にあいこれを達成できなかった。当時の自民党はこのように考え方が違えば本気で対立する多様性のある党であったが、近年は官邸による議員の公認権と役人の人事の掌握ですっかりその特色が薄れ、独裁色が強まってしまった。残念なことである。
ところで、小説‘坂の上の雲’は、日本海軍が当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破して勝利したことで終わる。この海戦は日本では高く評価されていたが、この勝利は第二次世界大戦敗戦の遠因となる。この海戦の勝利により日本では大型戦艦による攻撃力が戦いを勝利に導くという固定概念が確立した。しかし世界ではすでに空軍による攻撃力が戦いを左右する時代になっていた。戦艦大和の撃沈がこれを象徴している。この戦争は負けてよかったのであるが、もう少し傷が軽いうちに矛を収める道は探れなかったのかと思う。この大戦で日本は300余万人の犠牲者を出し、アジア諸国では千万単位の犠牲者を出してしまったという。日本は一つの成功例にこだわり、それを踏襲しようという傾向が強い。大戦の敗北も経済の停滞もそのことを示している。気候変動問題でも世界の流れは自然エネルギーになっているのに、日本はいまだに原発にこだわっている。
坂を上り詰め、経済成長も頭打ちになり、若者の意識に多様性が生じたことも日本の挫折につながるという指摘もある。しかし一番の問題点は、成長が頭打ちになってトリクルダウンが幻想に終わり、貧富の格差が広がったが、それを解消する新たな施策の推進を怠ったことが日本社会をひずませたことである、と思う。この世に永続するものなどは何もない。地球自然も人間社会も変化して行く。先を読んだ臨機応変な対応が必須なのである。

トップは女性の方がいい!?        202011月 永野
 世界中で相変らずコロナ禍が続いているが、このようなパンデミック状態では国のトップの力量の差異が際立ってくる。特に目立つのがドイツのメルケル、ニュージーランドのアーダーンなどの女性指導者たちである。メルケルはいち早く国民の移動制限を実行して感染の拡大を防いだ。その制限の必要性についても説明をし、国民の理解を得た。また、アーダーンはコロナ流行の最初期から入国禁止などの強硬措置を実行して、感染を防止した。ニュージーランドは観光立国であるから、この措置による経済への打撃は極めて大きい。それに対する対応も迅速で、同国のGDPの4%に当たる大規模な経済対策を打ち出した。ともに迅速な対応でコロナ被害の拡大を抑えることに成功している。この二人に共通しているのが強硬対策の必要性を国民に納得がいくような言葉できちんと説明をしていることである。すなわち優れたコミュニケーション能力を備えていたということである。二人とも迅速な対応の決断力と国民を納得させる説得力というリーダーに必要な資質を備えていたということである。それに対し、対応が場当たり的で説得力に欠ける代表例としてはトランプ大統領や安倍前首相らがあげられるが、これらのトップはともに男性である。これらのことから組織のリーダーとしては女性のほうが高い資質を持っている、という人もいる。しかし男性でも過去に優れたリーダーは数多くいたのであるから一概にそう結論付けることはいかがなものか。要はその人の資質の問題であって、ジェンダーによる差ではないと思う。ただ、今までは男性社会が通例であったから、女性のリーダーが前面に出ることが少なかったということであろう。これからは男女に関係なく、優れたリーダーの資質を持つ人がその力を発揮できるような社会を築くことが重要であると思う。日本では特にこの男性中心の悪しき風習が根強く残っているし、女性の社会進出が進んでいると考えられる米国でも女性が大統領に選ばれたことはなく、ガラスの天井があるといわれている。西欧では上記以外にも女性が首相をはじめ政治的な重要ポストに就いている例が少なくない。これはクオータ制度(註1によって積極的に女性の政治参加を推進したことによる。日本もその制度を導入するべきであろう。その必要性の意識は女性議員をはじめ政治に関心のある女性の間に浸透しつつある。今回の首相指名選挙では一人の女性国会議員が他の女性議員に投票したという。女性の政治への意識改革が目的であるという。
余談であるが、メルケルもアーダーンも家庭を持ち(註2)、一市民としてスーパーなどで買い物をしているので市民の日常生活がどんなものであるかをよく把握しているという。これが説得力のあるコミュニケーション力の土台となっているといわれる。日本では、元伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎が同様のことをしていた。彼は社長、会長時代にも通勤は電車を利用していた。一般市民の通勤からその生活を知ることにより、社員の考え方の把握に役立てた、という。やはりリーダーの素養を持つ人は、それなりのことを常に心がけているということか。
(註1)議員などの女性の割合を一定数に定め、女性を積極的に起用する制度
(註2)アーダーンは事実婚

森友問題の追及を続けよ            202011月  永野
日本の政治は安倍首相から菅首相へと引き継がれた。安倍路線の継承である。これでは安倍政権が残した大きな問題の解決は進展しないであろう(それが菅首相誕生のおもな理由であろうが)。俗にモリ・カケ・サクラといわれている問題はもとより、それ以外にも安保法改定、検察庁法改定などの諸問題の解決が国民に納得されるような形ではなされていない。これらの問題はどれ一つをとってみても、これまでなら内閣総辞職につながる大事件である。ここではその代表的な問題として森友学園への国有地払い下げ問題を見てみよう。
この問題の最大のポイントは絶対にあってはならない公文書の改ざんである。これを実行するように上(大本は佐川理財局長(当時)といわれる)から命じられたのは近畿財務局の赤木俊夫さんである。公務員にとっては上司の命令は絶対である。公文書の改ざんという禁を犯して国民を裏切ることと上司の命令に従わないことの板挟みになって深く悩み、結局上司の命に従って改ざんを実行し、その落とし前として自らの命を絶つことを選択したのである。一般社会での通常の感覚からいうと、上司の命令と公務員に課せられた禁とどちらが大切かといえば後者が大切であると考える人がほとんどであろう。彼自身も‘私の雇い主は国民です’と常々言っていたというから、なぜその信念に従わなかったのであろうか、ということが大いなる疑問として残る。一般に公務員にとっては、上下関係は絶対的なもので、自分が納得いかなくても上司の命であればそれを行わなければならないという。これは公務員となった時点でしっかりと教育されるという。財務省ではこれが特に厳しく、省の不利益になるようなことは絶対に許されないという。
彼は改ざんの不正をきわめて重く受け止め、上司と相談してこの件を告発する資料まで作っていたというが、結局はそれを行動に移すことなく自分ですべてを抱え込んでしまった。このようなことになった理由は、上司をはじめ他の多くの人々に迷惑がかかるという省内の圧力に抗しきれなかったということであろう。普通の感覚からいえば、正義を貫いて告発し、問題を明らかにすることが本筋であろう。告発まで考えたのであるから、財務省を敵に回してでもその道を貫くべきではなかったか。それは官僚世界の悪しきしきたりに一石を投じたであろう。財務王国から飛び出しても、かれのような真直ぐな人間を重用する場所はいくつもあったであろうし、その第二の人生で生きがいを見出せたであろうに・・・。
彼の無念を晴らすべく、妻雅子さんは彼の残した手記をもとに、佐川元理財局長と国を相手取って裁判を起こすという。これに対し政府はすでに決着がついていることである、として反発を強めている。彼が残した告発文書の存在は彼の上司によっても認められているが、政府はその存在すら肯定しない。しかし、赤木さんの手記という新たな証拠物件が出たのであるから再度審議をやり直すのは当然であろう。このあたりが自民党のおごりを端的に表している。総裁選で菅を担ぎ上げ、石破をたたいた自民党首脳部の意図するところは安倍政権の不祥事を解決済みとして安倍ら幹部の刑事責任を回避することであろう。国民はこの流れを容認してはならない。政治をこれ以上腐敗させては日本の将来が危ぶまれる。

社会的共通資本              20209月 永野
宇沢弘文は日本が世界に誇る優れた経済学者である。彼は若いころからアメリカで研究活動をして認められ、日本に帰国してからも独自の視点で経済学を進展させた。その業績は世界の著名な経済学者の多くがノーベル賞に値すると評価している。社会的共通資本の概念は、その代表的な成果の一つである。
彼は新自由主義の元祖フリードマンの学説を強く批判していた。社会的共通資本はそれへの反論として彼が提唱したものである。市場経済(財やサービスの市場取引による経済システム)では自然環境や人為的な制度は考慮されない。しかしこれらを土台として市場経済が成り立っていることを主流派経済学の枠組みの中で理論的に示した。小生は経済学は全くの素人であるが、この社会的共通資本の概念を素人なりに解釈した結果を述べてみる。
日本は20世紀後半著しい経済成長を遂げ、名目国民所得や工業生産力は著しく上昇した。しかし同時に自然環境の汚染・破壊とそれに伴う公害、社会資本のひずみ、土地、交通、医療、教育などの諸制度の不具合によってもたらされた多くの弊害を招いた。マクロな意味での経済成長とは裏腹に多くの庶民の実質的な生活水準、文化的な質を著しく低める結果を招いたといえる。経済活動の成果が国民に物心両面での豊かさをもたらしていないのである。これは日本の経済運営が構造的欠陥を有していることを示している。日本のマクロな意味での経済成長が国民のある種の犠牲の上に成り立っていたという解釈もできる。国内総生産(GDP)などの統計的な指標は市場経済指標であって、その中には陰に市場経済を支えている様々な要素は配慮されていない。例えば自然環境の破壊・汚染、都市環境の悪化などは考慮されていない。これらは人間が生きるためには当然配慮されなければならない要素であるが市場経済理論ではその枠外に置かれている。市場取引の対象とならない資源は市場経済では全く考慮されないのである。その反面で医療、土地、交通、教育など、もともと私的な利潤追求の対象とすべきではないものに対して市場原理にしたがった扱いがなされてきたことによって国民の実質的な生活が圧迫されてきたのである。
市場経済は自然的、歴史的な条件の下で形成された政治的、文化的、社会的な制度の中で動くものである。社会的共通資本とはこのような枠組みの中で経済活動がうまく機能するために必要なものとして考え出された。これは自然資本と社会資本の2つに分類される。自然資本とは大気、海洋、河川、森林などであり、社会資本とは堤防、道路、港湾、上下水道、公園、電力、鉄道などである。これらは社会基準によって供給・分配されるべきものである。私的な生産活動にもこの社会的共通資本の存在が不可欠である。この社会共通資本は私的利潤追求の対象の中に取り込んで市場を通じて供給されると、利益追求が前面に出て社会的また経済的な観点から好ましくない結果を招く。最近水道の民営化を取り入れた結果が思わしくないので自治体の管理に戻されたことを考えれば容易に理解できる。社会資本の場合民営化されているものもあるが、公共のための強い規制があるのがふつうである。
参考:宇沢弘文、「経済学の考え方」岩波新書、特にpp243~256

マルクスの思想変遷               20209月  永野
19
世紀ドイツの思想家カール・マルクス(1818~1883)は一般には‘資本論’の著者としてよく知られるが、彼の思想は生涯にわたって3段階の大きな変化を遂げている。特に晩年の考え方は現代の世界最大の問題である気候変動・環境問題に通じるもので、現代社会にも大いに役立つものである。
第一段階は1848年に書かれた「共産党宣言」である。これはプロレタリアがブルジョワを打倒し、プロレタリアが主導する社会秩序を実現することを宣言したものである。しかし経済体制においては生産力至上主義をうたっており、資本や技術革新に依存して生産力を高めその果実がプロレタリアを潤すことを目指している。すなわちヨーロッパの先進性を受け入れて経済発展をすることを目指すものである。
2段階は1868年に出版された有名な資本論で述べられている考え方で、持続可能性と平等性を重視し、共同体的運営で社会的定常型経済を志向する。近代社会の(技術的)成果を大切にしながら定常型社会を実現しようとするものである。ここでは経済成長による豊かさの実現すなわち成長力至上主義は完全には否定されず持続的成長を追求するという考えは残っていた。ここでは生産をプロレタリアの手に取り戻すという考えが前面にでており、持続性の問題はこれと切り離して解決できると考えられていた。いわゆる成長と持続性のデカップリング(切り離し)の考え方である。ここではヨーロッパ中心主義はすでに捨てられている。
3段階ではプロレタリアの支配実現は、西欧の資本主義的な成長過程を経なくても可能である、という考えに到達する。デカップリングの非現実性に気づき、脱成長を実現しながら、共同体的な社会システムを実現するというものである。西欧資本主義を乗り越えることが、成長を目指さず自然と共生する持続的な共同体社会を実現することを可能にする、という。非西欧的で資本主義以前の共同体から社会変革の可能性を学ぶ方向をとる。これを脱成長コミュニズムという。晩年マルクスが到達した思考の頂点である。
マルクス・エンゲルスの資本論は第1巻のみがマルクス自身の著であり、23巻は友人であり経済的サポーターでもあったエンゲルスが書いたものである。それはマルクスの考えとエンゲルス自身の考えが混合したものであったのであろう。したがって上記のマルクスの思想の変遷は23巻からは十分には読み取れない。彼は第1巻刊行以降亡くなるまでの10数年間エコロジー(生態学)を中心とする自然科学と世界各地の共同体について学び、その思考を深めることに多くの時間を費やした。このことが、自身で続巻を書けなかった理由である。続巻は書かれなかったが、彼は第1巻刊行以降に記した膨大なメモや書簡を残しており、それを斎藤幸平(註1をはじめとする学者が読み解いてその思想的変遷を明らかにした。詳細は‘参考’に記した斎藤の著書に記されている。(註1http://t-nagano.net/ 未来への大分岐III (2020/4)
参考:斎藤幸平、‘人新世の「資本論」’、集英社新書(20209

ピケティの宗旨替え                 202010月  永野
トマ・ピケティという名前をご記憶の方も多いと思う。フランスの経済学者で、数年前にその著書「21世紀の資本」で世界的な大ブームを巻き起こした人物である。その内容などについては種々の刊行物で紹介されており、このコラムでも紹介した(註1。この本での彼の主張は、要は資本主義は本質的に格差を助長するものであり、それを是正するためには所得税、資産税、相続税などで累進性の強い課税が必要である;その税収の再配分により格差増大などの資本主義の欠点を是正できる、というものである。これは資本主義的な経済システムを許容し、その中で格差是正のための方策を追求する、ということである。スティグリッツをはじめ他の著名なリベラル系の経済学者も同様な考えを持っていた。
しかしこの主張は2つの根本的な批判にさらされた。一つは資本主義的な経済運営の枠内では、いくら税制や再分配の方法を改良しても本質的な改善はできず、格差はなくならないという批判である。もう一つはいま世界で大問題になっている気候変動・環境破壊という問題を解決できない、という批判である。彼はそれらの批判を真摯に受け止めて思考を深め、資本主義を捨てて参加型社会主義に基づいて社会を運営するべきであるという結論に達する。ここで彼は資本主義を完全に否定し、思想的な大転換を行ったのである。この参加型社会主義とは新しい形式の社会的所有、即ち教育、知と権力の共有に基づいた新しい普遍主義・平等主義である。具体例を挙げれば、物の生産において労働者が協同組合を作り自ら運営に参加してこれを行うやり方である。世界的に著名な経済学者宇沢弘文が提唱した社会的共通資本の概念と相通じる考え方である。ピケティはこれで資本主義を乗り越えることができるし、それに代わる参加型社会主義の具体的な構想も描くことができる、という。
資本主義では少数の大株主が配当の最大化を求めて意思決定を行うという根本的な弊害を脱却できない。さらに資本主義は諸々の自然資源の消費がその前提となるので環境問題・気候変動問題とは本質的に相容れない側面がある。資本主義が持つこれらの本質的な問題を解決するには、資本主義を捨てるしかないという結論に達したのである。また、現在のリベラル左派の考え方でも上記の2つの根本的な問題は解決できない、という。
参加型社会主義をどう実現するかについて彼は、政府による権力的なやりかたでの移行は不可能で、多くの労働者による企業の社会的所有と経営参加が必須であると説いている。参加型社会主義は市民の自治と相互扶助の力を草の根から育て上げるものである、という。
既にご理解いただいていると思うが、この参加型社会主義は旧ソ連型の社会主義とは全く異なる。ソ連型では官僚や専門家が意思決定権や情報を独占していたために、多くの一般の人々の参加による運営は不可能であった。いわば独裁である。
なお、参加型社会主義はカール・マルクスが晩年にたどり着いた考え方とも相通じるものである。
(註1)ピケティブームに思うこと(20152月);ピケティ論争雑感                  (20152月);トマ・ピケティブームはどうなったのか(201510月)
参考:斎藤幸平、‘人新世の「資本論」’、集英社新書(20209月)

参加型社会主義の実現方法は?          202010月  永野
今月の2編の別稿で資本主義の不合理性を説明し、その不合理を解消するには‘参加型社会主義’という考え方を世界に普及させることが必要であるとする識者たちの考えを紹介した。その考え方は十分に分に納得できるものであるが、それをどう実現するかが大問題である。我々は資本主義社会にどっぷりつかり、それが当たり前であると考えている。資本主義システムから脱却せよと言われてもどうしたらよいのかわからないし、現在資本主義的な世界で富と権力を独占している人々からの強い抵抗を乗り越えるのは至難の業であろう。
参加型社会主義を普及させるには、当然のことながらまず我々の意識を改革し、ボトムアップ的に段階的に取り組むしかないであろう。根本にあるのは人類の生存に関わる環境問題、気候変動問題などの解決には経済の減速が必須で、それをどう実現するか、である。
まずは労働というものの考え方である。現在、モノの生産過程では効率化のために分業システムが当たり前になっている。分業では労働者は生産のための歯車の一つとして働くだけで、達成感は全く得られず、労働は苦痛をもたらすだけである。であるから我々はこの苦痛を癒すために活発な消費活動をする。これが資本主義を助長する。創造性や自律性で労働そのものに喜びを見出せるような生産を心掛ける必要があろう。もちろんこのようなやり方は効率が悪い。しかし経済の減速は達成される。要は人々が価値観を変えることである。生産自体に喜びが感じられれば、物欲に支配される資本主義も魅力が薄れるであろう
 第二が生産過程の民主化である。生産において民主化が取り入れられれば、多様な意見の調整というプロセスを経るので生産効率は低下し、経済の減速につながる。また、価値(金銭に還元できるもの)に基準を置くのではなく使用価値(人間の基本的生活に役立つもの)に基準を置くことを考えるべきであるという意見も多くなるであろうから、不要なぜいたく品などの生産は控えられるであろう。資本主義的生産の下では大株主の意向が反映されるので非民主的となり、利益を主眼に考えるから当然‘価値’生産に照準があてられる。また、参加型社会主義では知識や情報はコモン(社会共有の資産)となるから、企業間の競合は少なくなり経済の減速につながる。
このように参加型社会主義の概念に基づき、底辺から社会を変えていこうという動きは日本ではあまり活発ではない。しかし諸外国では数多くの例があり、それらの横のつながりも活発である。一例をあげればバルセロナでは中央政府の新自由主義的な施策に従わず、市として気候非常事態宣言をし、住民のための独自の施策を実行している、
 以上のことも理想論的で実現性に乏しい、と考える人が多いであろう。しかしここに「3.5%」という数字がある。米国のある政治学者の研究によれば、「3.5%」の人々が非暴力的手段で本気で改革を求めれば社会は大きく変わるという。フィリピンのマルコスの独裁を倒す、など多くの実例があるという。我々の3.5%が参加型社会主義の考え方に賛同し行動すれば、世界を大きく変えて、人類をこの地球上で存続させることができるのである。
参考:斎藤幸平、人新世の「資本論」、集英社新書(20209月)


‘2010月ミニトーク                   永野 俊
1)偽という字の構成を見ると、人の為に為すとなる。
人のために何かをなすというのは偽善であると言っているわけである(相田みつを)。確かに人のためと言って何かをすることは偽善の匂いがする場合がある。人が他人のために何かするのは結局自分のためなのであろう。人との関係をよくしておくことは結局社会の中に自分を受け入れてもらうためなのであろう。そう考えて行動すれば偽善の匂いは消え去る。人は社会から孤立しては生きられない。仲間が必要なのである。
2)世代を超えて生きよう
自分たちが生まれる前の人々に思いをはせることができない人は逆のこともできない。将来世代の人々の思いも想定できない、すなわち彼らに対する配慮ができないということである。我々は大戦中に国家の命令に従って本意ではなく戦場に散った多くの人々の心に思いを馳せ、それを顧みて悼む心を持つべきであろう。戦争に負けたことは、今までの日本の体制が間違っていた、軍部が悪かった、の一言で済まされる話ではない。命を散らされた彼らを悼むことは、我々と彼らのつながりを思い、そのつながりを未来世代につなぐことを意味する。未来を生きる彼らのために社会をどう動かすか、という長期的な視点で物事に取り組みたい。近視眼的な姿勢を反省する必要があろう。政治家も一般市民もこの視点をもとに国家運営をしてほしい。このようなことを言うと次のような反論が必ず出る。それは青臭い理想論に過ぎない、今を生きることで精いっぱいだ、そんな悠長なことを考える余裕はない、と。こう思う人が多いのであろう。だが、こう切り捨てるか、決してあきらめないという立場をとるか、の違いは大きい。理想を捨てた瞬間に人は堕落の道をたどることになる。今の日本、いや世界の趨勢はこの堕落の道をたどりつつあるのでは、・・・。
3)立花隆
評論家立花隆は田中角栄の金脈問題などの政治がらみの社会問題の鋭い論評などで著名であるが、その初期の仕事はエコロジー(生態学)的視点に立った社会論評である。その視点は現代社会に対しても十分通じる興味深いものである。コロナで読書時間が増えた昨今、彼の処女作「思考の技術」(中公新書ラクレ)を読んでみるのも一興かと思う。
4)中谷巌―新自由主義との決別―
グローバル資本主義が世界の政治や経済を歪ませる元凶であるということはこのコラムで度々言っているが、野放図な資本主義への批判で有名な元自民党議員中谷巌氏も自由主義経済理論の再構築の必要性を訴えている。ポイントは格差拡大を食い止めることと有限な地球との共存の2つである、という。的を射ている。彼は元々は今の自由主義経済の信奉者かつ推進者であり、竹中平蔵らとともに新自由主義経済を推進していた。しかし、その欠点に気付き、それではいけないと反省し、「資本主義はなぜ自壊したか」という懺悔本を書いたことでも知られる。政治家は広く民のこと、世界のことを考え、考えを改める高邁な思考と柔軟さを備えるべきである。彼は宗旨替えをしたことで、多くの人から非難されてもいる。しかし彼の行動は政治家の範として称えられるべきものであろう。

人間と自然の支え合い              20207月  永野
このコラムで人間社会のあり方について何度も指摘していることであるが、人間は一人では生きられない。よく引き合いに出されることであるが、‘人’という文字は2本の棒が支え合って成り立っている。それは人間社会というものが、人々がお互いに支え合う仕組みを作ることにより成り立っていることを示している。詩人・書家相田みつをは、奪い合えば足らないが分け合えば余る、という言葉を遺している。至言であろう。
ところで、人と人の支え合いは確かに重要であるが、人と自然の支え合いも重要であろう。いま、人類は自然を軽んじすぎていると思う。これは西欧文明が地球上での人類の活動を先導してきたことと大きく関係する。西欧の文化・文明はキリスト教にそのベースを置く。キリスト教には人間は地球上における特別な存在で、自然を征服すべく神が地球に遣わしたものである、という考えがある。この考えをベースに地下資源や森林、原野さらには海洋などの自然を開発し、人類のより豊かな生活を進展させてきた。それは決して間違ったことではないが、自然に対する配慮が無く共生思想を欠いていたといわざるを得ない。いくら頭脳が発達しても人間は所詮自然界の一つの生物に過ぎず、自然は人間を育む棲家である。人間はこのことを全く考慮してこなかった。自然を開発して消費し続ければ、人類は自然を食いつぶして、やがて自らの棲家を失い、自らを滅ぼしてしまうことになるのである。具体的には石油などの地下資源の枯渇、原野を切り開いての大農場の化学肥料と殺虫剤での土壌の質の低下、大気へのCO2をはじめとする有害気体の放出、森林伐採によるCO2吸収の低下、海洋汚染による漁業資源の減少、などなど例を挙げればきりがない。
自然征服のもう一つの側面は科学技術の進展である。自然の仕組みを科学的に解明することは自然の征服に繋がり、それを技術として応用することで人間社会は多くの豊かさを得た。しかし技術にはプラスの側面とともに必ずマイナスの側面が伴う。技術の進展に伴う自然破壊や軍事機器の高度化などを考えればこれは容易に理解されよう。
人間は愚かであるから、何か新しい技術が生まれると、そのプラスの面に目を奪われその利用に邁進する。その利用が色々な弊害を招くことは事前にはめったに考慮されない。その害が顕在化して初めてその対策を考えるのである。環境問題などがそのよい例であろう。なお悪いことには人間には悪の側面があり、技術の悪用は必ず起こる。古くはダイナマイトからの殺人兵器の開発、最近ではコンピュータウィルスなどがそのよい例であろう。科学技術が大きく進歩した現在、その利用は哲学、社会学などいわゆる文系の識者の意見を取り入れて決めるべきであるという意見は多い。技術の利用はそれを進める前に、その弊害を考慮しその利用規制を国際的に厳しく決めて置く必要がある。最近は遺伝子操作などでその利用を規制する動きも出てきているが十分というには程遠い状況であろう。
なお、あたらしい技術についてその利用による弊害をはじめから考えることが必要であるというと、それは小賢しく青臭い理想論であるという反論が来る。しかし人間理想を考えずに目先の利益と人間と自然の支え合い現状追認的な考えだけで事を進めたら社会は決してよい方向には進まない。現状追認思想こそが愚かなのである。

ゴリラ社会から学ぶこと                                               20207月  永野
 ヒト、サル、ゴリラなどはいわゆる霊長類と呼ばれる。その中でもゴリラとヒトは系統がより近く、その社会を観察することで人間社会のあり方について多くの示唆が得られると霊長類学者山極寿一(京大学長)はいう。
いわゆるサルは個体間の順位が厳格に定まっておりそれを争うためによく喧嘩をする。ゴリラも喧嘩はするがそれは群での順位を決めるためではなく、自己の存在を相手に理解させるためのものであるという。であるから喧嘩は仲間のいるところで行われ、第三者の介入による仲裁を待っているのだという。勝ち負けを決めるのではなく互いに相手の存在を認め合うための喧嘩であるという。ゴリラの喧嘩は相手と対等であるということを主張するためのものであるともいわれる。だから仲間の仲裁により引き分けに持ち込まれるのが常であるらしい。ゴリラは胸をたたいて音を出すいわゆるドラミングという行為をよくする。これは相手を威嚇する行為のように見えるが、そうではなく自分が他と対等な存在であることを仲間に伝えるためだけのものであるらしい。ゴリラやチンパンジーなど人に近い霊長類は致命的な争いはしない。それぞれが他と適切な距離をとって共存している。争いに勝てばその場限りの利益や優位は得られるが、相手を押しのけることは仲間からの敵意を増幅させ、自らを孤立させ協力が必要なときにそれが得られない。負けないための自己主張と勝って相手を屈服させることとは本質的に違うのである。
人間も大昔はゴリラ的に社会を営んでいたのであろう。今でも狩猟採集による原始的な生活をする人々が密林の奥で生きているが、彼らは獲物は皆で分け合い争うことはないという。その名残は文明社会にもある。熊やイノシシなどの猟では成果への貢献度は考慮されず、猟仲間全員の分け前は均等であるという。おそらく原始の社会では自然のものは全て共有財産であり、私有の概念は持ち合わせていなかったのであろう。
人間は個人の私有を認めることが一般的になってきたことにより、争いや競争により他を屈服させ私財を増やすいわゆる‘欲’を持つようになったのであろう。人類の歴史は争い相手を支配することの繰り返しであると言えよう。これは現在でも変わっていない。兵器の進化により武力による大きな戦争は避けられるようになってきたが、経済戦争がそれにとって代わっている。
競争は一方では文明を発展させ、人類の豊かさや福祉に貢献してきた。また人間にある種の生きがいをもたらしてもいる。これらのメリットは否定できないであろう。ではどうすればよいのであろうか。要は私有は結構であるが、他の人々のことも考え欲はほどほどに、ということではなかろうか。地球資源は有限なのでる。それから生じる利益を分かち合って共存していくことが大切であるという考えを共有することが基本であろう。現代社会で一番欠けているものがこの考えであろう。人間は一人では生きられない。他の存在を認めるゴリラ社会を謙虚に学ぶべきではなかろうか。
なお、文明の底知れない発展は動物としての人間に少なからず害を与えていることも指摘しておきたい。人間社会はこの点への配慮も十分する必要があろう。
参考:山極寿一、‘対等を目指すゴリラの自己主張’、729日朝日新聞朝刊23

20年9月ミニトーク                     永野 俊
1)強いコロナは流行らない
今回騒動を起こしている新型コロナウィルスをはじめとして、一般にウィルスには興味深い側面がある。ご存知のようにウィルスは自身だけでは増殖できず、人間をはじめとする宿主である生物の細胞を利用して増殖する。この増殖過程でコロナ自身が変異するが、それには宿主生物を死に至らしめる強いものから、宿主にあまり害を与えない弱いものまである。強いウィルスは宿主を殺すから繁殖の母体自身を破壊するので増殖しにくい。一方弱いウィルスは宿主と共存する傾向があるので広く増殖できる。この差で強いウィルスの流行は収まる側面があるという(618Eテレ、サイエンスZERO)。今多くあるインフルエンザウィルスなども一時期は大きな流行を起こして、その後上記のプロセスを経て存続しているものが多いのではないかと考えられている。
コロナウィルスをはじめウィルスは人類に害を及ぼすものというネガティヴなイメージが強い。確かにそうであるが、別の側面も持ち合わせている。生物の進化を促進する役割も果たしているという(福岡伸一、朝日新聞43日)。ダーウィンの進化論の骨子をなす突然変異による淘汰と適応だけでは生物の進化の速度を説明できないと専門家はいう。ウィルスが遺伝情報を媒介し、それが進化に貢献しているというのである。
今後も人類はウィルスと共存しながら地球上で存続していくのであろう。
2)創造的破壊vs.破壊的創造
技術の発展が格差を広げ、社会の分断を招く、事故のリスクを増やす(原発など)、環境負荷の増大、地球自然の破壊、などなど人類が高度なシステムを目指したことによる弊害、技術の急速な進展は人々が納得しながら物事を進めて行ける速度を超えている。これが人間社会を歪ませている。以前から言っていることであるが、技術の進歩は利点があるが、その負の側面が必ず存在する。古くはダイナマイト、最近では核技術、AI技術、遺伝子組み換えなどを考えればこれは明らかであろう。
科学史研究の第一人者村上陽一郎は、科学者たちは自分たちの研究と社会とは切り離して考えてきたが、現実の事態がそれを超えていることを認識するようになった、また一般の人々も科学技術が自分たちの社会生活に大きな影響を与えることを認識するようになった、という。社会がどのように科学技術を利用するのか、その成果をどう評価するのか、という点での意思決定、結果に対する責任の取り方、などを行政や産業ばかりでなく市民一人ひとりがきちんと考え、積極的に対応する必要がある。
3)コロナ後の経済
日本政府の緊急経済対策には環境政策はほとんどない。インバウンド回復対策や旅行代金補助などコロナ以前の経済に戻す施策ばかりである。脱炭素への投資で気候変動問題の解決に資することをするべきである。この対策は仕事を生み出し、経済の活性化にも役立つ。コロナはそのチャンスを与えてくれた、と考えるべきであろう。短期的な経済の手当てももちろん必要ではあるが、長期的な方向転換という視点を持つことが重要であろう。

民主主義はどのように崩壊するのか        20208月  永野
ソ連の崩壊で冷戦が終了し、世界中の国が欧米にならって民主主義国となるであろうとアメリカの著名な政治学者フランシス・フクヤマは予測し、多くの人々もそうなることを期待した。しかしその期待は見事に裏切られ、各所で独裁的政治が台頭した。その背景には民主主義国は自由主義経済で動いており、それが格差を助長し底辺での生活を強いられる人が増えたことがある。これらの人々が強権政治を望んだことともに、宗教問題、人種問題が表面化して対立が起こったことなどもその一因であろう。
独裁政権は革命などにより突然現れたキューバのような場合もあるが、多くの場合民主主義的な政権としてスタートし、合法的に民主主義を侵食し独裁性を築いてゆく。そのよい例は古くはドイツでのナチス政権であり、近年では南米や東欧の各国で起こっている。ドイツでは当時最も民主的であると言われたワイマール憲法が敷かれその下に国家運営がなされていた。しかし当時(1930年代)の経済状況は悪しく政府に対する不満は多かった。そのような状況下でヒトラーは貧困にあえぐ中下層の国民の心をとらえる演説により、32年の選挙で第一党になり、翌年首相に任命された。彼は不況から脱出するためと称して内閣を説得して非常事態を宣言し、言論など個人の自由を奪い独裁体制を築く。独裁に至るプロセスは民主的であるが、法の隙間を見つけて中身を骨抜きにして独裁体制を築いたのである。南米ベネズエラのチャベスの独裁も類似のプロセスで誕生した。彼は政府に無視されていると感じている中下層市民を味方につけることにより1998年に選挙で大統領に選出された。その後彼は憲法の改正、最高裁判所の支配、反対派マスコミの閉鎖、反対派の知識人の逮捕、大統領任期の無期限延期などで合法的に独裁を推進した。
この例のように民主主義というものは見えにくいプロセスによって静かに侵食されてゆくものである。どんなに立派な憲法のもとでもそれは起こる。必ず抜け道がある。この抜け道を利用しての独裁を阻止できるのは政治家とそれを選ぶ市民の高度な資質である。民主主義の正常な機能を導きだすには政治家が‘相互的寛容’と‘自制心’の二つの資質をしっかり備えていることが不可欠である。相互的寛容とは相手(党)を敵として見るのではなく意見は違うが正当な存在として認めることである。自制心とは特権を行使するとき(多くの場合政府側)に節度をわきまえることである。即ち制度的にできることと、実際に行ってよいこととは違うということをしっかり認識して行動することである。政策の実行は道徳と過去の規範に照らして行われるべきものである。
民主主義は国民全員がかかわる事業である、また、民主主義には杖が必要である、とよく言われる。これは国民の一人ひとりが政治に関心を持ち、政府の施策をしっかりと監視し、不都合なことがあれば必ず声を上げることが必要であるということである。立派な憲法があればその下で安心して民主的な生活ができるわけではない。憲法やそれに基づく諸制度はそれをうまく潜り抜けて権力を濫用することを必ず阻止できるわけではない。国民一人ひとりがそのような企みを見抜いて反対行動を起こす必要がある。
参考:S.レビッキー、D.ジブラット、民主主義の死に方、新潮社(2018

黒人問題とアメリカの発展          20208月   永野
Black lives matterという言葉とともにアメリカ全土において有色人種差別を批判する運動が広がっている。これはご存じのように白人警察官が些細な理由(註1)で当事者黒人を殺害した事件を発端としている。
人種差別問題はアメリカ社会に深く根を張った問題である。18世紀のイギリスやアメリカでは植民地化したアフリカで多くの黒人を捕らえ、強制的に自国に連れ帰ってこれを商品として売買していた、いわゆる奴隷商人が横行していた。今でこそ遺伝子解析により白人と黒人などの人種間に有意な差がないことが立証されているが、当時黒人は牛馬と同じ扱いを受けていた。アメリカ独立と発展の貢献者と言われているワシントン(初代大統領)もジェファーソン(3代大統領)も奴隷を所有し使用していたという。
アメリカは建国当初(18世紀後半)連邦党と民主共和党の2大政党が覇権めぐって互いに相手に不信感を抱いて激しく戦っていた。その争いは相手の存在を認め合う民主的なものとは程遠いものであった。その後数十年かけて争いの激しさは収まり、‘ライバルは敵ではない’という考え方が根付いていった。しかしこの時代の平穏は、奴隷制度は正当なものであるという両党の合意のもとに築かれたものであった。当時のアメリカでは白人が奴隷解放による黒人のアメリカ支配を恐れていたらしい。この平穏は奴隷制度廃止論の是非をめぐって、南部白人農場主を支持基盤とする民主党と新たに誕生した共和党が激しく対立することにより失われた(註2)。そして1861年に南北戦争が起こった。勝利したリンカーンは憲法ギリギリの大統領令をいくつも出して南部を抑え込んで国の統治をおこなった。この時代の統治は今でいう民主主義的なやり方とはかなり異質なものであったという。この時代を経てアメリカの市民の間で18世紀中ごろまでに築かれた‘優れた憲法とそれに従う政治行動の規範’を取り戻すことが必要であるとの機運が高まり、平穏が取り戻された。
それでも人種差別の風習は根強く残り、黒人にアメリカの市民権が与えられるのは南北戦争後約100年を経てのことであった。1955年に一黒人女性がバスの座席を白人に譲ることを拒否したことに端を発した公民権運動は全米に広がり、J.F.ケネディ大統領の指示に従い、次のジョンソン大統領によって1964年に公民権法が制定された。それでも黒人に対する差別意識は相変わらず存続し、今でも冒頭に述べたような事件が起こる。
ここで言いたいのは、アメリカが大国として発展したのは、黒人奴隷や移民によるアジア系などの人々の農業・工業の分野での労働者としての働きがあってのことである、ということである。白人たちはこのことをしっかり踏まえて行動し、人種差別の風習を徹底的に排除し、アメリカを多民族国家の好例として作り上げてゆく義務がある。
(註1)コンビニで使った20ドル札が偽札であったという犯罪であるが、このこと自体がその札を使った本人が意識的に行った可能性が低いといわれている。偽札はアメリカでは頻繁に発見されるので、本人がそれを偽札と知っていた可能性は低いといわれる。
(註2)今とは異なり、当時は共和党が奴隷解放支持で、民主党がそれに反対していた。

208月ミニトーク                  永野 俊
1)コロナで人類絶滅??
コロナが世界を席巻している現代を、終わりなき終わり、と表現する人がいる(大澤真幸、東京新聞76日)。世界中の人が死んでしまうが、その終わりがいつ来るかわからない、ということらしい。しかしこれは実体を表わす表現としてはあまり的確ではないと思う。コロナは確かに恐ろしい存在ではあるが、コロナによって人類が全滅するとは考えられない。コロナに感染して死亡する人はごく一部である。死亡率は国、地域によって大きく異なるが、世界平均では約5%程度である。過去に地球上で大流行したペスト、天然痘、スペインかぜ等などの疫病に比べれば致死率は低い。生物は免疫機能を備えており、まして人間は優れた医療技術を持っているから、コロナによる人類全滅はありえない。今月の別稿にも書いたが、人類はその本性がもたらす我欲によって自らの棲息の場である地球の自然を食いつぶし、自ら滅びるのではなかろうか。これを防ぐには全世界的な教育の改善が必要であるが・・・。
2)世界平和
今では罪のない多くの人々が犠牲になる戦争は許されるべきではない、ということは当然であると考える人がほとんどであろう。しかし約100年前までは戦争は国際法上で適法と認められていて、その代わりに経済制裁は違法であるとされていた。1928年に主要15か国(含日本)が戦争は違法であるという不戦条約を宣言し、パリで調印された。これが現在世界の不戦秩序のルーツである。これは第二次世界戦争は防げなかったものの、その後70数年にわたって世界規模の大戦争を防いできた。これは核兵器による恐怖の均衡がもたらしたもので平和を尊ぶ高い理念によって導かれたものではない、という批判もある。世界秩序は確かに軍事力や経済力によって保たれる側面もあるが、ベースになる理念が必要なことは確かであろう。国連憲章にある不戦の理念が日本の憲法9条(戦争放棄)をはじめドイツ、イタリアなど憲法にも盛り込まれている。現代では国際平和に反する行為をする国は経済制裁によってその非をとがめられている、という。北朝鮮(核開発)やロシア(クリミア半島問題)などがその例である。
3)一般法は特別法より上位ではない
坂井豊貴氏(慶応大教授)は世の中の制度は理想的にできているわけではない、だからこそ権力を持つ側は節度を持って行動する必要がある、という。制度的にできること、と道義的にやってよいこと、には区別が必要である。最近の日本の政治ではこの区別がしっかりと守られていない。それどころか制度的にも許されないことを閣議での解釈変更という形で行ってしまうことが多い。例えば検事の定年延長問題でも、一般公務員は定年65歳だが検事は63歳と規定されている(検察庁法22条)のに、一般の公務員法を検事に適用して特定検事の定年を伸ばす、などと言うことをやっている。一般法では規制が不十分であると判断されたからこそ検事に対する特別法が設けられたのである。特別法の上に一般法があるのではないから、この解釈変更はあり得ない。

コロナで人間の生き方は変わるか        20207月  永野
資本主義とグローバル化により地球上での人的・物的交流が極めて盛んになった現代では、疫病問題だけではなくあらゆる面で他国、他民族の影響が避けられない状況にある。先にも書いたが、その典型的な例が環境問題・気候変動問題である。大気汚染や海洋汚染などは一国の問題として解決することは不可能で、人類が共有する問題として地球全体として取り組まなければ解決しないものである。大気や海洋は地球全域で繋がっているからである。コロナの流行はこのような人類が共有すべき問題をどうとらえるかということを我々に考えさせるよい機会を与えてくれたとポジティヴにとらえるべきであろう。発生源がどこの国かなど、国レベルで争っている場合ではないのである。これを機にこの地球上で人類が共に生きて行く術を考え、我々の生き方を考え直す機会ととらえるべきである。
このような考え方をベースに人類の生き方を考える上で最大の問題となるのが、いま世界を支配している資本主義に基づく自由主義経済のあり方である。これは世界中で格差を増大させ、貧困層を窮地に陥れる。貧困層はスラム街を形成し、そこでは衛生状態も悪く疫病の温床となっている。多くの国では国民皆保険制度が設けられておらず、このような地域に住む人々はでは医療も十分に受けることができない。従ってコロナ蔓延の温床と化してしまうのである。先進国を自負するアメリカであっても、格差が大きいためにコロナ蔓延が防げていない。コロナ死者数は世界最多であり、スラム街の住人の多くはアフリカ系をはじめとするいわゆるマイノリティであるが、これらの人たちのコロナによる死亡率は白人に比べ圧倒的に高い。
この事実は格差是正が喫緊の課題であることを物語っているが、この是正が容易ではない。格差是正には高額の累進課税や資産課税が必須であるが、これは個人の権利の侵害であるとして、政治や経済と強い結びつく富裕層から反対の声が起こるので、これを実行することが難しい。しかし富の蓄積は多くの人々(消費者)がいてはじめて成り立つものであるから、それを彼らに還元することは当然の義務であると考えられる。自由主義は結構であるが、自由は他人に対する配慮を十分踏まえたうえで許されるべきなのである。
最後にコロナ後の世界について個人的な意見を述べておく。人類はコロナパンデミックを契機に地球全域での平和と共生を考える方向へ転換するであろうという楽観的な意見を述べる識者が多い。小生もそう願うが、現実にはそうなるとは思えない。コロナが収まれば、喉元過ぎれば熱さを忘れる、という諺通りに、人類はまた自己利益のために奔走し出すのではなかろうか。‘欲’は人間の本性的なものであり、これを抑えることは極めて難しいのではないかと思う。過去の疫病の大流行や2度にわたる世界大戦を経験しても、結局人類はその我欲を制御できず経済重視の流れを変えられなかった。国際連盟や国連などが誕生しても、結局は大国の経済中心の論理に押され続けてきた。人間の欲得という強烈な本性を抑えて、人類共生の世界を築くことはかなり難しいであろう。結局、人類は我欲を制御できず、物欲と技術に溺れ、自らの棲息に不可欠な地球の自然を食いつぶして自ら滅びて行くのではなかろうか。コロナによって滅ぼされるのではなく・・・。

ハンナ・アーレント-人類への愛―          20205月  永野
 アーレント(1906~1975)はドイツ生まれのユダヤ人で20世紀の最も優れた哲学者・思想家の一人である。ナチ時代のドイツを支配した全体主義システムを分析し、その成り立ちと仕組みに対する独自の考え方を提示したことで知られる。1933年にナチが政権をとり、ユダヤ人を廃絶する動きに出てからは、ヨーロッパ各地を転々とする逃亡生活を送る。最後にはアメリカに亡命し、そこでの文筆活動により次第に名を知られるようになった。
その一貫した立ち位置は、人間の尊厳を守ること、であった。アウシュビッツの大虐殺は人間による人間の無用化であり、人間の尊厳の崩壊であると言い、人間が決してあってはならないこともしてしまう恐ろしさに言及した。全体主義という官僚制政治システムでの支配が完成されてしまうと、人々は政治に関心を持たなくなる。全体的支配に巻き込まれると、思考が欠如し選択、決断、責任に対する自覚が失われる。
人間の人格の徹底的な破戒を導く全体主義は因果関係といった伝統的な方法で説明できるものではなく、先例のない出来事として考える必要がある。官僚制という誰でもないものによる支配が自動的に社会を動かし、個々人による判断と責任を蔑ろにする風潮を生じさせた。また、人種主義との癒着を誘発し、差別を必然的・宿命的なものとする考えも正当化されていった。アーレントはナチズムやスターリニズムのような全体主義的な支配が今後も起こりうると警告している。これを避けるためには個々の人間が異なる考えを持つことを認め、その差異を認め合うことが重要であるという。一人ひとりの人間の尊厳を保障する社会的空間は死すべき人間の一生を超えて存在しなければならない、という。
彼女は人間の尊厳の重視とともに、事実を踏まえて物事を判断することも重視していた。フェイクニュースが跋扈する今日の世界ではこの姿勢を重要視することは極めて重要である。彼女がこの姿勢に基づいてアイヒマン裁判(註1)について書いた記事が物議を醸しだした。裁判での彼の応答を踏まえると、アイヒマンは悪の権化ではなく全体主義のもとで思考が欠如した歯車の一つに過ぎない凡庸な男であると判断した。これがアイヒマンの弁護とナチへの抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人の一部をナチの協力者に仕立て上げるものであるとしてユダヤ人の多くから激しく非難され、ユダヤ人の殆どの友人を失った。
アメリカ社会に対しては、大量消費で豊かさを享受する大衆像の中にある私有化の傾向と公的な領域や世界への関心の消失を危惧していた。人々が共有すべき世界への配慮よりも富の増大を優先する傾向を憂慮し、富の蓄積過程は世界と人間性を犠牲にすると考えていた。これは鋭い指摘で、まさに現代社会で我々が直面している最大の問題となっている。
最後に彼女のアメリカでの評価を記しておこう。複数の著名な大学で教鞭をとったが、国家における市民の役割と責任を考えさせる講義内容は多くの学生たちの高い評価を受けた。6070年代のアメリカの政治や社会について学生たちが批判的な側面も含めてよく考えるきっかけとなった。ベトナム戦争反対の運動の盛り上がりと無縁ではないであろう。
(註1)アウシュビッツでのユダヤ人大量虐殺の指揮を執ったアイヒマンの裁判
参考: 矢野久美子、‘ハンナ・アーレント’、中公新書(2014

207月ミニトーク             20207月  永野 俊
1)日本は先進的な住みやすい国?
日本は他国よりも格差も少なく、みなそこそこ許容できる生活をしている、国の運営もマアうまくいっていると思っている人が多いのではなかろうか。しかし実はそうではないということを示すデータが多くある。国連関連団体の発表では幸福度ランキングは156ヶ国中58位である。GDPでは24位であり、G7国の中では5位で下位はフランスとイタリアだけである、GDPで住みやすさを測ること自体に問題はあるが。相対貧困率はOECD加盟国(38)中29位、収入不平等指数も26位という低さである。比較的平等で格差の大きくない国というイメージとは大きく違う。株価も現政権になってから2万円を超えているが、これはアベノミクス政策により、上場投資信託(ETF )いう形で日銀により株が買い支えられているからである。日銀が実質的な大株主という会社が増えている。
環境問題では福島であれだけ大きな事故を起こしたにもかかわらず、電力は原発依存を脱せず、再生エネルギーへの転換でドイツなどの欧州諸国に大きく後れを取っている。食品でも問題の多いゲノム編集食品の審査があまく、ここでも欧州に大きな後れを取っている。我々は見かけの状況に満足し、政治に無関心な態度をとり続けているのではないか。日本の政治、経済などの長期的なあり方にしっかり関心を持たないと、静かに押し寄せるあげ潮に気付かず遊ぶことものように、あるいはじわじわ温度が上がる釜の中の蛙のように、気づいた時には手遅れ状態の陥る危険性が大いにある。
2)日弁連アンケート結果(20159
国民の意識について。文化程度は高いが独立、革命の歴史がないために、縦社会は当然であるという意識があり、権力に対する警戒心が基本的に欠けている。従って政府の極端な動きに対する立憲的コントロールによる復元力が期待し難い。これが欧米の国民の政治に対する対応とは大きく異なる。政権の運営を厳しく監視することを怠ってはならない。
3)自民党改憲案について。
災害対策基本法にある‘災害’は武力攻撃を含む。この法が戦争開始につながることを否定できない。日本国憲法は乱用の危険性(先の大戦ではこれがあった)回避のため、国家緊急権を制定していない。しかし非常事態への対応の必要性から厳重な要件で対応のための法律を整備している。これがないと十分な対処ができない。また急に政府に権力を集中しても準備がないから対応不能である。予想していないことには対応できない。
4)国会少数派の意義
議院内閣制だから多数派で形成される内閣が政令を制定することと国会で法律を制定する事とは結局同じではないかと考える人がいるが、それは全く違う。国会での野党の質問で事実や弊害が明らかになる。又国会審議により、修正や廃案が可能になる。国民が内容を知り、デモなどで反対することが可能となる。今回の検察庁法改正案事件(黒川事件)はツイッターデモで廃案に追い込まれた。なお、政令は内閣が発するので国民か知らない間に閣議で一方的に決められる可能性を持つから、しっかり監視する必要がある。

情報のフェイク性を確認しよう         20205月  永野
AIのディ-プラーニング技術を使ってフェイク画像やフェイク発言(これをディープフェイクという)を作ってネットで拡散させることが頻繁にみられるようになった。選挙などで相手候補を貶めるためによく利用される。拡散も自動的に行える技術もあるそうだ。先のアメリカ大統領選挙ではトランプ陣営がこれを駆使したといわれる。大統領選挙後であるが、トランプ陣営が、オバマ前大統領がトランプ現大統領をののしる映像をこの手法で作成してYouTubeで流したことは有名である。
もっともフェイク情報利用は今に始まったことではなく、古くから支配者が国民の危機意識を高め、戦争などに駆り立てるために用いていた手段である。近代でその一例をあげれば、ベトナム戦争がある。トンキン湾でアメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム軍の攻撃を受けたという情報が広がり、北ベトナムに対する敵対意識が高揚した。ジョンソン大統領(当時)は議会から特別権限を取り付け北爆に踏み切る。しかし後にこれはアメリカ軍と南ベトナム軍の共謀によるフェイクニュースであることが米国防省の資料によりわかった。
今はネットにより情報の拡散が容易になっているのでこの種の情報操作は今後急速に増えるであろう。最近売り出し中の哲学者マルクス・ガブリエルが指摘するようにネット情報の信憑性をチェックすることが極めて重要になってきている(註
1)。これも技術が必ず持つその負の側面をチェックして歯止めをかける必要性を軽く見た人類のミスであろう。
最近世界を恐怖に陥れているコロナウィルスなどの感染症が流行する時にもフェイクニュースは拡散する。感染症と人類の付き合いは長く紀元前14世紀には古代エジプトのツタンカーメン王がマラリアで死んだとの記録がある。実際はそれ以前からもウィルスや細菌(バクテリア)は人々に害を及ぼしていたのであろう。その後も天然痘、ペスト、スペインかぜなど様々なウィルスや細菌が人々の生存を脅かしてきた。その度にその原因や回避法・治療法に関する種々のデマ、今でいうフェイクニュースが広まり、人々を惑わせた(註2)。昔は客観的根拠のない回避法・治療法をはじめとして、対立する民族の侵入によって持ち込まれたとか、信仰心が足りないことで神が人間に罰を与えたとか、色々なことが言われ人々がそれを信じる傾向もあったようである。もちろん昔はネット配信のような強力な情報拡散手段はなかったが、それでもフェイクの拡散は素早く起こったようである。
余談であるが、神の罰説に関しては、キリスト教信者から、自分たちが真摯に神に仕えているのに大量の人類の死をもたらすのは納得できない、神(宗教)の力は万能ではないのではないかという考えが芽生えた。この考えに従って教会の権威に背き、人間中心の文化を発展させたのがルネサンスである。ルネサンスを象徴する絵画として有名なボッティチェリーの「ヴィーナスの誕生」ではギリシャ神話の美の女神アフロディテを中心にギリシャ神話の神々が描かれている。キリスト教は一神教であるからこの絵はキリスト教から離れギリシャ・ローマ時代の自由な思想や文化を復興する意図が読み取れる。
(註1)先月のこのコラム「未来への大分岐II―新実在論とは―」参照
(註2DNA 解析でペストは中国が起源で交易により西洋に伝わった事が証明された。

地球温暖化対策を!              20206月  永野
人為的な活動による大気中のCO2などの温室効果ガス増加が地球温暖化を招き、地球の自然生態系に悪影響を及ぼし、人類の生存を危うくする懸念があるということはご存知であろう。この問題に対する取り組みは今から約30年前に国連により始められた。以来温暖化を含む環境問題は種々の形で取り上げられ、対策が検討されてきたが、現在でもその有効な対応は出来ていない。原因は色々あるが、南北問題など国間の貧富の格差、経済中心の世界的傾向、人々の危機感の欠如などが主な要因であろう。
地球の気候変動は大昔からあり、温暖期と寒冷期を繰返してきた。現在の温暖化傾向もその一つに過ぎず、単なる自然現象である、と考える人もいる。しかし自然現象による気候の変動は急激に起こるものではない。何百年、何千年かけてゆっくりと変化するものである。しかし現在起こっている温暖化はここ数十年で急激に起こっているのである。ここ
100年で0.74℃上昇している。大した上昇ではないと思う方も居られると思うが、世界全体でこの上昇が起こっているのだから地球にたまっている熱量の増加は膨大である。人類はゆっくり温度が上がる釜の中にいるカエルのようなものでその変化の深刻さに気付いた時にはすでに時遅くゆでガエルになってしまうのである。識者の警告を受け入れて、人類全体がその危険性を認識し、温暖化防止に向かって対応をしない限り人類は確実に滅ぶ。
では具体的にどのようなことが起こるのであろうか。今でも起こっているが、局所的な熱波が起こり、最近ではインド、ロシア、中東などで40℃以上の高温が続き多くの命が失われている。また近年オーストラリアやアメリカ西部などで起こっている大森林火災は人々の生活を脅かすだけでなく大量のCO2を発生させ温暖化に拍車をかける。海水の温度上昇で海面が上昇し島が海底に沈む。世界の大都市の多くは沿岸部にあるがそれらの都市の一部も水面下になり住民の生活や都市機能に重大な支障をきたす。気温が1℃上がると農作物収穫量は10%減少するといわれるが、これによる食糧危機も深刻である。地球上の水はほとんどが海水で淡水はわずか2%に過ぎない。そのうち大部分は山の高所や氷河にたくわえられている。これらの淡水が温暖化で徐々に少なくなっている。人間は淡水で水分を補給し、農業生産を行っているのであるから淡水の減少は人類の生命を脅かす。海の汚染も深刻である。海水の温度上昇でサンゴは多くの場所で壊滅状態である。CO2が海に吸収される度合いが高まり、海水が酸性化される、これにより多くの海洋生物がその棲息を脅かされている。オーストラリアでは魚の生息が32%も減少しているという。これにはプラスチックごみの海洋への廃棄も大きくからんでいるであろう。大気の汚染も大問題で、WHOの大気安全基準を満たさない空気を吸っている人は20億に達するといわれる。
このような地球環境汚染の根源は資本主義に基づく人間の経済活動である。この活動はひたすら自然を破壊し、資源を消費し、環境を汚染する。人類はいったん手に入れた物的豊かさを手放すのは至難の業であろう。しかし、これを削減し、自然との共生を模索しない限り人類に未来はない。自分たちが生存している間だけ文明を享受し、そのあとの責任をとらないという自分勝手な考えを改めることが必須であろう。

20年6月ミニトーク                    永野 俊
(1)    コロナに対する日本の対応
日本はコロナに対する対応でうまくやっている、との諸外国評価がある。確かに感染者数約16千人、死者数約800人は人口規模からすればけた違いに少ない。しかし本当に優れた対策をしたのであろうか、多くの国民はそう思わないであろう。検査数の少なさ、他の病など別の死因にカウントされ、コロナ死者数に入らなかった、などの指摘もある。また、世界的な格差の広がりがあり、日本でもその傾向は顕著であるが、その程度は諸外国よりもはるかに少ない。経済大国であるか否かに関わらず、最貧民がスラム街を形成し、多くの貧民が過密と劣悪な衛生状態の中で暮らしている。日本では完備している国民皆保険制度も実施されていない国も多い。これらの国では貧しい人々は医療費を払う余裕がないので、症状があっても医療を受けられない。WHOの調査(2017年)では世界人口の約半数が基礎的医療保険サービスを受けられていない。
しかしこのようなことを考慮しても、よい結果であることに変わりはない。これは日本の国民がお上に従順で、自粛と要請されればそれに従うということもあったであろう。一律休校は確かに‘要請’であるが、99%が要請に従っている。この国民性に対しては、政権の横暴を許しているという批判を以前からしてきたが、対コロナに関しては良い結果を生んだともいえよう。政府の‘やってる’感を宣伝するためにマスクや金を国民全員に配るなど、政府の対応は決してほめられたものではないと思うが。
2)医療経費削減の非
政府は公的な医療機関の人件費その他の医療経費削減を行ってきた。国立感染症研究所がそのよい例である。これに対し田村智子(共産)氏はコロナ流行の一年も前から次のような指摘をしている。近年SARSMARSなど感染症の流行が頻発しており、日本でいつ流行が起ってもおかしくない。その時対応の中心になるのは公的医療機関である、と。公的医療機関の人員削減や研究予算削減を行わなければ今回のように専門医(日本は欧米の46割)や医療機器、道具、研究調査などの不足による混乱は少なかったであろう。この不足は一朝一夕には準備出来ない。政府の経済偏重政策の弊害がここにも表われている。
3)コロナ新時代への提言
山極寿一(人類学者、京大総長)、飯島渉(歴史学者)、国分功一郎(哲学者)のネット鼎談から興味深い言葉を拾って紹介しておこう。
コロナに対するメルケルの言葉の中に、移動は自由の中で最も基本的なものでありそれを制限することへの明確な謝罪があったが、これは為政者の基本的態度として高く評価されるべきである(国分):イタリアの哲学者アガンベンはコロナによる死者に面会できないことを問題視し、過去に生きた人の成果の積み重ねを評価する姿勢が失われると指摘(国分)。この指摘は今の世の中で主流になっている‘金だけ’的な考え方の問題と相通じる。人間が最高の存在だというおごりが問題である。人はウィルスや細菌からも恩恵を受けている。自然との共生を謙虚に受け入れる生き方が必要である(山極)

コロナとその後                       20205月  永野
ご存知のようにいま世界は新型コロナウィルスに席巻されている。世界中で4百万以上の人が感染し、すでに30万人近くの人々が亡くなっている。最近はテレビも新聞もこの話題ばかりでいささか食傷気味であるが、情報はしっかり把握しておかなければならないであろう。それをベースに各国、各地域、各個人はそれぞれの立場でしっかりとした対応をしなければならない。この場合の対応の仕方はあくまでトップダウン的ではないことが重要である。今年の初め(2月)にこのコラムにも書いたが、このような緊急事態の状況は地域によって異なるから、その対応は各地域のトップに多くの権限をあたえるべきであろう。日本ではとかく中央政府が前面に出てくるが、実情を詳しく把握しないままで采配を振るうことは弊害を招くことにつながる。中央政府は各地域の施策が実行されやすいように、人・モノ・金・情報による後方支援に回る姿勢を持つべきである。具体例を挙げれば、都の自粛要請の範囲について政府が細かく口を出していたが、これは本来やるべきことではない。都は政府の細かい指示を受け入れていたが、本来これは知事の裁量で決めて良いことなのである(片山善博前鳥取県知事)。その意味で大阪府の吉村知事の対応は正しい。
いまの話題の中心はコロナウィルスの発生源と発生後の対応である。アメリカをはじめ西欧諸国は中国が発生時にその情報を隠ぺいした、すなわちWHOに報告しなかったことが拡散の原因であると主張する。中国側はそのような事実はないし、アメリカがウィルスを意図的に持ち込んだ、と主張する。西欧側は中国に巨額の賠償金を要求するという。真相はわからないが西欧の主張には根拠があるといわれる。どちらにしても今はそんなことで争っている場合ではない。各国が協力して感染拡大を止めることが先決であろう。途上国では医療機関、医療器具、専門家、資金、情報などすべてが不足している状態で、先進国が積極的に援助せずこれを放置すればコロナの鎮静化は出来ないであろう。
現状への対応はもちろん大切であるが、コロナ鎮静化後の社会のあり方を真剣に検討することも極めて重要なことである。前世紀の終わりごろから世界はグローバル化、金融経済、新自由主義に支配され、人々は当面の実利に奔走し、いわゆる3だけ主義(今だけ、カネだけ、自分だけ)一色に染まってしまった。しかしこれは地球自然の破壊と社会の格差助長を招いている。資本主義の暴走が招いたこれらの事態が人類の滅亡を招くであろうということは多くの心ある識者の指摘するところである。人間はどんなに賢くても所詮は地球上に生息する生き物に過ぎないのである。ウィルスを抑えることができてもこのまま進めば温暖化、環境汚染(自然破壊)、資源不足などで人類はその棲家を自ら破壊することになるのである。長期的で広い視点から経済を語る水野和夫氏が指摘するように、これを契機に物的・金銭的成長を目指すのではなく、将来世代に配慮した地球の自然と共生する持続的な生き方を各国で協調して模索して行くべきである。経済的な成長を目指すことをやめるならば人間は生きがいを見いだせない、という人々もいるが、人々の生きがいはほかにいくらでも見いだせよう。文化面、学術面だけでなく自然や他の人々とともに生きること自体が大きな生きがいを与えてくれるはずである。

メルケルと安倍                  20205月  永野
ドイツのメルケル首相も日本の安倍首相も長期政権である。しかし、私見ではあるが、二人に共通点は少ないように思われる。メルケルは国民の多くから批判されるような政策は行っていない。常に国民の目線に立った政策を行ってきたように思える。原発廃止に関してはチェルノブイリ事故の影響が国内にも広がり、原発の負の側面を考慮して国民の命を守るためには廃止すべきであるという諮問委員会の結論を受け入れて決定した。メルケルの属するキリスト教民主同盟は原発推進が党是であったにもかかわらず、である。移民受け入れはEU存在意義の確認であり、大戦の償いの意味で国民の多くの思いでもあった。
一方安倍はどうであろうか。政治は常に上から目線ですすめる。唯一の被爆国である日本では原発廃止は国民共通の思いであるが、福島の原発大惨事にも拘らず原発推進政策をとる。海外からの労働者の待遇は劣悪であり、さらに経済政策は弱者切り捨て的である。何事も自らの判断だけで決め、閣議の決定として前に進める。憲法の解釈変更で集団的自衛権による自衛隊の海外活動を認めるなど数多くの独裁的な行為が目立つ。この両者の違いは政治家としての資質の差以外にも国民の政治意識の差も影響していると思われる。
今回のコロナ危機においては、メルケルは民主主義の根幹である国民の自由の一部を抑制することに対する深い謝罪をまず行い、そのうえで現在の状況では止むを得ない措置であることの理解を国民に求める発言をしている。要旨は次の如くである。まず医師、看護師、その他医療機関で活動している方々に深く感謝の意を表す。連邦と各州が合意した休業措置が民主主義に対する重大な介入であることはしっかり認識している。これは絶対的な必要性がなければ正当化できるものではない。しかし、今は国民の命を救うためには避けられないことであると理解していただきたい。政府は経済的影響緩和、企業・労働者への支援にあらゆる手段を尽くす。民主主義国家の一員である我々の活力源は上からの強制ではなく、国民の知識の共有と参加の姿勢即ち全員の結束である。
一方安倍の発言では特措法による緊急事態宣言をして国民の自由の制限要請など民主主義を逸脱する行為に対する謝罪が全くない。医療の充実や物資の確保、公的サービスの維持、資金供給などに関する自己宣伝が多い。また移動の制限などの日常行動に対する細かい指示と要請が多く、やはり上から目線である。ひと言メルケルのような国民への謝罪と行動制限のお願いをする姿勢を示したら国民はもっと納得したであろう。
政治家は信用がなければその言葉も人の心に届かない。彼は丁寧、謙虚、真摯、寄り添う、という言葉を軽々しく使い、全くその言葉とは裏腹な行動をとってきた。また数々の不祥事に対しても責任は自分にあると言いながらその責任をとることはない。その言葉がむなしく聞こえるのは当然であろう。政治家は説得力のある言葉とそれを裏付ける行動で評価されるが彼にはその両方共が欠けている。日本が三権分立を基本とする法治国家であることが頭にないようである。そんな政治家に7年半の長きにわたって国を任せてきたのは日本国民である。これは我々が深く反省すべきであり、日ごろの政治への無関心のつけであることをしっかりと認識し、その姿勢を改めよう。

未来への大分岐I21世紀の共産主義?!―       20204月  永野
グローバル化、資本主義、情報テクノロジーの暴走により世界中で格差や混乱が広まり、この地球上で人類が共生することに暗雲が立ち込めている現代である。この危機的状況を放置すれば、人類の滅亡につながると危惧している識者は少なからずいる。気鋭の経済思想家斉藤幸平が、この事態を憂い高い視点から解決策を模索する3人の世界的な論客と中身の濃い議論を交わした。その内容(参考)をレポートしておこう。
最初はマイケル・ハート(政治哲学者、デューク大学教授)との議論である。彼はこの危機的状況の根本原因は資本主義にあると考えている。リーマンショックを端緒として世界的な経済危機が起り、その後世界経済は停滞を続けている。これにより資本主義の繁栄を支えていた中間層が没落し、いわゆる‘99vs1%’現象が常態化した。この原因は新自由主義支配である。この解決策として、新自由主義に規制をかけ、公共投資、労働者への再配分、社会福祉向上などを充実させれば健全な資本主義が再び軌道に乗るという学者も多くいる(ピケティ、スティグリッツなど)。しかしM・ハートはこのような古き良き社会民主主義的な発想では問題は解決しない、という。福祉政策は労働者中心の社会が組織化され力を持つことを防ぐためのものであった。しかしグローバル化で労働力の調達が国内ではなく海外の途上国で可能になることで国内の労働者の力(労働組合)は急速に弱体化した。それに加え社会における自律性を求める人々の力が強まり、国家の統制による社会運営では立ち行かなくなってきている。冷戦時代は自由を第一に考える資本主義陣営と平等を第一に考える社会主義陣営の対立であったが、今はその2つの価値観ではなく、自由と平等、そして‘連帯’と民主主義を一続きに考えることを主眼とする考え―ポストキャピタリズム(ポスト資本主義)―が重要視されるようになってきている。連帯とは個々人の多様性を認め、それぞれの能力を生かして共に行動して社会を動かすことを意味する。ここではトランプやプーチンのような強権的なリーダーは求められない。求められるのは下からの種々の社会運動の連帯が政治・社会を動かすことである。
 それを実現するには‘コモン’という考え方が重要である。コモンとは民主的に共有され管理される社会的な富のことであり、経済学者宇沢弘文の提唱した社会的共通資本の概念に含まれよう。具体的には水、電気、ガス、情報テクノロジーなど生活の基盤となるものを考えればよい。大きな視点では地球資源も含まれよう。これは気候変動問題解決の重要な視点ともなる。コモンはその性質上、ものの私有を前提とし地球からの略奪をする資本主義とは相容れない。従ってポスト資本主義とも深く関係する。これはものを社会の共有物とする考え方で、その意味で21世紀の共産主義とも呼ばれるが、もちろん国家が民衆を統制する旧来の共産主義とは本質的に違い、社会全体がその管理・運営を民主的に行うものである。コモンは地球環境問題、気候変動問題とも深く関連するので、この考えが気候正義を求める運動の新たな連帯を生み、人類の共生へと繋がることが期待される。
なお、あのカール・マルクスも、社会的な協働とともに地球資源と生産手段をコモンにすることが大切であると言っている。150年も前の時代に地球自然の大切さと生産手段のコモン化に言及しているのはさすがである。
M
.ハートは発展という言葉の意味についても独自の見解を持っている。20世紀後半から‘社会の発展’という言葉が資本主義のもとで商品の生産により経済生長を進めるという考えを表わすようになってしまったが、それは間違いであるという。発展とは本来この地球上で人類社会が地球の保全に貢献するものになることという意味でとらえられるべきである。資本主義のもとでは利潤の追求に直接関係しないものは発展させられないまま放置される傾向がある。地球の自然保持のための施策以外にも、育児、介護、教育、などは直接利潤を生むことはない。しかしこれらは発展・成長させる必要があるものである。
上記のような本来の意味での発展には技術の発展そのものが問題になるという人もいるがそうではない。技術をいかに人間が使うかが問題なのである。経済的利益を得ることだけを目的として技術を活用することにこそ問題があるのである。一般的に、技術にはプラスの側面に伴って必ず負の側面が伴うものである。人間はその点を十分考慮して対応しなければならない。スキルの要らない仕事はAIとロボットに置きかえられていく。そのこと自体は新しい技術を使って人間のためになるコモンを生み出すという意味でプラスの側面を持つが、同時に負の側面も出てくる。たとえば、今まで知識やスキルによってなされていた仕事が情報技術などにより知識・技術を持たない人でもできるようになり、安い報酬で仕事が片付くようになる。もっと極端になればその仕事を全部機械化することが可能になる。このような労働者への圧迫をどう解決するかということも大きな問題である。このようないわゆる‘発展’により得られた利益はその多くが資本家に吸い上げられ、格差助長につながるのである。これはこの地球上で人間社会を発展させることにはならない。
技術の進展の弊害の例をもう一つあげておこう。知識をコンピュータの中に集約してそれを基にして資本家が利益を得るという意味ではGAFA問題(註1)はその典型であろう。プラットフォーム(註2)を提供してそれを利用する人々の情報を入手し、そのビッグデータを販売して利益を得ている。たとえば人々のネットへのアクセス傾向からその人の興味や特性を分析して、それに合う商品の売り込み先を特定することなどである。この情報はプラットフォームを提供するIT会社に所有権があるわけではない。これこそコモンとして社会がその権利を共有するべきものである。人々の個人的な情報はIT企業によって搾取されているといえる。労働が非物質的なものの生産に重点が置かれるようになっている現代では知識、情報、社会的な関係などが現実的な富でありこの富が搾取されているのである。
ポスト資本主義構想は人類の真の意味での発展を目指すものであるが、その実現には上記のように資本主義側の抵抗により多大な困難が付きまとうであろう。しかし我々がそれに向かって動く意志さえ持てばその実現は不可能ではなかろう。
(註1GAFAとはグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの米IT大企業4社のことで、これらが利用者から得られる大量の情報を分析・販売して問題視されている。
(註2)商品やサービスを提供する企業と利用者が結びつく場所
参考:斉藤幸平編、‘未来への大分岐’、集英社新書(2019

未来への大分岐II―新実在論とは―          20204月  永野
マルクス・ガブリエル(哲学者、ボン大学教授)はフェイクニュースなどのポスト真実(註1)の横行で、現代社会のあり方が大きく歪み、客観的な事実に基づく健全な社会が危機に陥っているという。この危機感は多くの人々が共有するものであろう。彼はこのような社会を立て直すためには現実を踏まえた哲学が必要であるという。‘新実在論’という新しい哲学の考え方を提唱し、それを基に健全な社会を取り戻す活動をしている。
新実在論の内容は門外漢の小生には深い理解が難しいところもあるが、言いたいことは概ね次のようなことであろう。旧来の‘実在論’とは存在するものの承認である。ここでの存在は人間の意識から独立したもののみを対象とする。これに対して‘新’実在論では人間の存在によってはじめて現われる人権や道徳なども実在するものとして考える。存在のより広い一般化である。映画や小説の登場人物などもそれに没入している時は確かに実在している、ということになる。こう考えるとポスト真実と言われていることも実在として捉えられてしまう。しかし実在することと真実であること、あるいは理にかなっていること、とは同一ではない、すなわち実在=真実ではない。新実在論は無数のものの存在を認めるがそれらが皆真実であるといっているわけではない。するとポスト真実を含め無数にある考え方をなぜ実在として強調するのかという疑問と、その実在にどう対処するかという問題が生じる。実在の強調は、それらの存在をしっかり意識して、その倫理性をしっかり判断し、倫理的に不適切ものを認めないということを強調するためであろう。またそれらへの対処については次のように考えられる。哲学の分野には相対主義とか社会構築主義とか言われるものがある。これらは、世界には種々の地域・文化・人々の集団で培われた独自の考え方があり、それらは地域・文化・集団ごとに違うがそれぞれに意味がある、従ってそれらを他が否定するべきではないとする考えである。ロシア、中国、北朝鮮などが独自の国家運営を行っていることが例として考えられる。しかし世界にはグローバル化や環境問題のように各まとまり単独では解決できない問題がある。従って相対主義的な考え方では世界全体がうまく存続して行くことは出来ない。人類が共有すべき普遍的な倫理は存在するはずで、それを基にして真実を判断することが必要なのである。そのために異なる考え方の間で熟議を重ねて合意を導き出すことが必要である。相対主義的な考え方を持つ人々は彼らの考え方の修正は受け入れないであろうから、熟議により世界的な合意を得ることは極めて困難であるが健全な社会を取り戻すための努力は続けなければならない。
この困難から逃れるためにAIに決定を委ねるという安易な策をとってしまう可能性もある。しかしAIには意識も倫理もないから、人間に固有な倫理を踏まえた判断はできない。AIによるサイバー独裁に至れば民主主義も人間そのものも終焉を迎える。新実在論はポスト真実、相対主義、サイバー支配を脱し、人間主導の社会を実現するためのものである。
(註1)世論の形成において客観的な事実よりも感情や個人的な思い込みへの訴えかけの方が影響力を発揮している状況(オックスフォード英語辞典の定義)。同辞典の2016年の今年の言葉として選ばれている。

未来への大分岐IIIポスト資本主義―       20204月  永野
資本主義に支配され、貧富の格差がどんどん増大する現代社会が問題であることは多くの人々が共有することであろう。その欠点を克服しよりよい社会を築いていくにはどうすればよいのであろうか。この問題について独自の見解を打ち出し、世界的に注目されているポール・メイソン(イギリスの経済ジャーナリスト)の意見を概説しておこう。
2008
年のリーマンショックを契機として資本主義(新自由主義)に代わる新たな世界経済・社会のあり方を模索する運動が若い世代を中心に巻き起こっている。各国政府は市場介入と量的緩和によりこの危機に対応しているが、実体経済は停滞したままである。これは産業資本主義経済が飽和状態になっていることを意味する。即ち、ディジタル技術やAIなどの普及でモノやサービスが行き渡り、‘潤沢な社会’が実現している。こうなると当然利益率は低下し資本主義経済が成り立たなくなる。また知識やサービスが情報技術進展で広くネットワーク化され、だれでもアクセスできるようになってきている。それにより資本主義の根幹部にある私的所有が崩れ、コモンの概念(未来への大分岐I参照)が普遍的になる。技術進展による人々の労働からの解放も起こり、資本家階級と労働者階級という資本主義の基本構造が揺らいでくる。
情報技術の進展により資本主義は立ち行かなくなる。だが、情報技術の発展にはネガティヴな側面がある。ご存知と思うが今プラットフォーム(未来への大分岐I参照)を提供するGAFAといわれるIT企業による情報の独占がある。これらの企業はプラットフォームを利用する人々の個人データを勝手に利用して利益を得ている。これはプライバシーの侵害や監視社会の手助けにもつながるという問題を生じている。情報技術が資本主義に利用され、悪しき状態を招いている例である。一部の人たちだけが大量のデータにアクセスできること―情報の非対称性―は不公平であり、これは普遍的人権という観点から問題である。我々が知らないうちにビッグデータの所有者が我々に何らかの作用することを拒否する権利を確立しなければならない。ビッグデータは我々の手で管理すべきものである。すなわちコモンとして扱われるべきものである。
この問題は新自由主義とグロバリゼーションのもたらす被害であり、この事態を避けるためにも資本主義からの脱出が早急に行われなければならない。一部の富裕層が富だけでなく情報も独占しており、そこからまだ富を得ている。グローバル資本の支配力が国民国家のそれを上回るものになってきているのである。一方、情報技術は労働者側から仕事のはく奪という意味で反発を受ける。情報技術の支配から人間的なもの(ヒューマニズム)を護ることが重要なのである。
資本主義経済は環境問題とも深くかかわる。人間が自然の限界を無視し、その支配を妥当とする考えは我々が棲み家とする地球の破壊につながる。ポスト資本主義への道を切り開くにはこの問題を考えることがカギとなる。気候正義の認識が必須でこの問題に真剣に向きあることがこの地球規模の問題の解決のベースになる。これにはA・オカシオ・コルテスの提唱するグリーンニューディール政策が一つの優れた考えで、これは経済を人間的なものに導くものである。それを定常型経済の形をとるポスト資本主義として実現させるためにはやはり市民が関わる社会運動がしっかり機能する必要がある。ポスト資本主義では人間による技術の管理が必要でありシンギュラリティ(註1)を待望して、それに支配を委ねることがあってはならない。
上記の議論では国家というものの存在意義が薄れていることがうかがわれる。しかし国家は必要である。国家には企業、コモンをベースにした生産システム、協同組合、非営利団体など多様なもので構成される経済・社会を支援する役割が求められる。もちろん国家だけでなく下からの社会的協働が重要であることは言うまでもない。また個々人の意識改革も重要であろう。資本主義化で自由に重点が置かれ過ぎたのではなかろうか。
以上、未来への大分岐I,II,IIIで紹介した3人の知識人の、未来の人類社会のあり方に関する考え方は視点や力点がそれぞれ違っているが、自由、平等、連帯、民主主義というものに大きな価値観を置くという点で一致している。世界の危機的な状況を作り出しているのが国家権力、強大な資本そして野放しの最新技術であるという点も共通している。またまともなポスト資本主義の実現には市民が動く下からの社会運動が重要な役割を果たすという見解も3人に共通した考えである。日本はこの点が特に弱い。活発な社会運動は市民一人ひとりの社会・経済・政治への高い関心からもたらされる。日本人は大勢に流され易く、皆がそうだから自分もそうするという意識がはびこり、自分の頭で考え自分独自の考えを持つ、ということを疎かにする傾向がある。さらにお上に従順で、しかも熱しやすく冷めやすい。東日本大震災であれだけ大きな被害を起こしたにもかかわらず、原発反対運動はすぐに沈静化してしまった。我々が大いに反省すべき点であろう。
最後に対論者として、また本の編集者としての大役を果たした斉藤幸平氏の能力を高く評価したい。彼はこのテーマについて詳しい知識を持っており、それをベースに自分自身のしっかりとした見解を持ち、超大物の3人の知識人と対等に渡り合い、時には相手を説き伏せるほどの力を持って議論をしていた。その議論をうまくまとめて読者にわかりよく表現する能力も優れている。30代前半の若い学者であるが、その見識・能力は素晴らしく将来が期待される日本が誇れる学者である。テレビなどには出演しないようであるが、これはテレビでは発言時間が短く、単に気の利いた短いコメントを求められるだけであるので、突っ込んだ議論にならない。そのような仕事には価値を見いだせないのであろう。
また彼は環境問題にも詳しく一家言持っている。彼は‘気候正義’という言葉を使って環境問題への世界の取り組みを強く批判している。一部の豊かな人々の過度な物欲が横行して温暖化などの環境破壊を引き起こし、その皺寄せが社会的弱者に来ていることの不合理性を厳しく指摘している(註2)。このことはポスト資本主義のあり方に対する彼の考え方にも反映されている。彼の今後の活躍を大いに期待する。
(註1)人間の知能を超えたAIシステム
(註2)斉藤幸平、「気候危機の時代における資本主義vs民主主義」、世界(2020.1);あるいは永野‘気候正義’http://t-nagano .net/  20201月。          

204月ミニトーク                   永野 俊
1)資本主義のブラック化
今月の別稿‘マルクスの資本論’でも指摘したが、いま資本主義社会は資本家の労働者からの搾取が横行して格差が広まり、資本主義のブラック化が起こっている。これを放置すれば資本家による労働者への搾取増大→労働者の生活環境の悪化による非婚化→労働力の再生産の低下→資本主義の崩壊というプロセスが起こることが予想される。これに歯止めをかけるには中間団体(労働組合、協同組合などの非営利団体)が力をつけること、カネを離れた相互依存関係を形成することが必要であるといわれる(註)。社会システムとしては社会福祉政策を重視する後期資本主義が望まれるところである。労働者無くしては資本主義は成り立たないことを資本家はしっかりと理解しておくことが必要である。
(註)佐藤優‘いま生きる「資本論」’新潮文庫(2017年)
2)イスラム系民族はなぜ過激になりやすいか
イスラム系民族は宗教あるいは宗派の違いなどにより過激な対立行動に走ることが多いが、これは何に起因するのであろうか。イスラムの教典コーランには生産の思想、やり方などは全く書いてないという。彼らは基本的にものを略奪して生きてきたらしい。商業のための物資はそれがある地域から、生きるための食料は農民からの奪取で生きてきたらしい。だからアルカイーダやISに見られるように、すぐ過激な戦争行為に走る。
イスラム教の創始者ムハンマド(マホメット)も大商人の家に生まれた商人であった。だからイスラム教典には商いについての記述が多い。生産がないから生産のための資金の貸与による利子取得の考えを否定する。この教ええに矛盾しないために、出資者は共同経営者になり、利子ではなく生産による利益の一部を取得する、という。
3)安倍首相の裏切りは遺伝か?
安保改定で名高い元首相岸信介は当時改定に反対であった自民党大派閥領袖大野伴睦との間で密約を結んでいた。安保改定に賛同して国会を通してくれれば、次期総裁として大野を推すことに賛同する、と。この密約は文書の形で残され、当時の政財界の黒幕であった児玉誉士夫が保管していたという。これを信じた大野は安保改定に賛成し、法案は国会で通った。しかし岸退陣後の総裁選では岸は大野に加担せず、結果として池田勇人が総裁になった。岸が総裁選に出たとき、彼に賛同しなかった大野への意趣返しである。一寸先は闇といわれる政界ではよくあることであるが、裏切りであることは確かである(註)。
岸の孫である現在の首相安倍もこの種の裏切りをやっている。二期目の総裁改選の折、安倍は対抗馬の石破茂と会談し、‘次はあなたでしょう’と言って禅譲をにおわせて再選を果たした。そして総裁は二期までという自民党内規を自から変更して三期目の総裁となり、石破の総裁就任を退けた。このやり方は祖父の血を引き継いでいるのであろうか。政治の世界ではこの種の裏切りは日常茶飯事で、口約束を当てにする方が愚かなのであろうが、普通の庶民の感覚では何とも後味の悪い振る舞いである。(註)「独占告白・渡辺恒雄」NHK-BS137

マルクスの資本論                20203月 永野
第二次大戦後世界は資本主義(自由主義)と社会主義(共産主義)という二つのイデオロギーの対立で、東西冷戦の時代を迎えた。この長い対立は1991年のソ連崩壊で決着を迎えた。アメリカのネオコン思想家フランシスフクヤマはその著書「歴史の終わり」で自由主義の勝利を高らかに謳った。しかしその論は安易な楽観主義に過ぎず、その後世界は資本主義の暴走による格差拡大を招き、社会の不安定を生じさせた。この不安定性が共産主義のバイブル的存在であった‘マルクスの資本論’を再び注目させることとなった。
 ではこの資本論とはどのようなものなのであろうか。原著や原訳は極めて難解であるといわれるが、多くの簡約書・解説書が出ておりその概要を把握することは出来る。それらによれば資本論は決して共産主義の妥当性を説くものではなく、資本主義に支配される社会の構造を分析し、そのあり方と将来を論じているものである。まさに資本論なのである。
我々はともすれば資本主義的な社会構造は大昔から人間社会にあるものと思いがちであるが、それは間違いで実は1617世紀に起った地球寒冷化と産業革命により引き起こされたものであるという。寒冷化により羊毛製品の需要が高まり、地主等が農民から土地を収奪し羊牧場を広めて羊毛を生産し、農業従事者は羊毛衣料を生産する工場の労働者となった。その後産業革命により生産技術が向上し、工場などを営む資本家階級と労働者階級が社会で固定されていった。その過程で資本家の富の集積と労働者の貧困の集積が起こり、社会におけるこの二つの階級の格差は拡大の一途をたどる。このマルクスの考えは、2014年に刊行され、一躍世界の注目を集めたトマ・ピケティの「21世紀の資本」で実データの分析により事実となっていることが示されている。マルクスは確かにこの格差拡大により、労働者階級の怒りが爆発し革命が起こる、と言っている。共産主義者はこの一言を金科玉条として、共産主義社会の妥当性を主張している。しかしマルクスはそのことを最大の主張点として語っているのではなく、資本主義がなぜ生まれたか、それが社会の構造にどう影響したか、今後どうするべきか等資本主義社会構造の分析と考察に主眼を置いていた。
労働者は労働力を提供することにより、その対価として資本家から賃金を受け取る、即ち労働力の商品化が起こる。この対価は資本家が得た利益の分配によると考えられがちであるがそうではない。マルクスによれば賃金(労働の対価)は①労働の活力を生むための諸費用(衣食住と娯楽など)、②技術革新についていくための学習費用、③労働者の再生産を可能にするための費用(結婚、子育て、家族養育など)の3要素を満たすための費用で決まる。これが正しく実行されることで資本主義社会は正しく機能する、という。しかし近年はこの考えが無視される傾向にあり、資本家の搾取が横行している。これが格差を拡大し、現代社会を殺伐としたものにしている最大の原因であろう。
人間は本質的に競争欲、支配欲、物欲を持つ。これらは技術開発などで生産力を増大させる原動力となり、上記の3要素も満たされ労働者の生活環境も向上するはずである。しかし現実にはこれらの欲が資本家の過度な搾取を引き起こし社会を歪ませる根源となっている。これからの社会ではこれらの欲望に根ざす価値観からの脱出が必要なのであろう。

経済学者スティグリッツの正論        20203月  永野 俊             

スティグリッツはアメリカの経済学者で2001年ノーベル経済学賞を受賞しており、人類の共生に関して筋の通った全うな議論を展開している。彼の言によれば、アメリカが格差拡大で社会システムを歪めているのは富裕層が経済に貢献する以上に稼いでいることに起因する。従って富裕層に対する増税が必要であり、それにより労働者の労働環境改善や福利向上を目指すべきであると主張し、具体的な運動も起こしている。現在の世界経済システムのあり方に疑問を呈し、新自由主義もグローバル化も失敗である、という。グローバル化の一翼を担う規制緩和についてこう述べている。規制緩和によりバブル経済や世界金融危機が引き起こされた。目指すべきは規制緩和などではない。適切な規制はどうあるべきかということが問題なのである。規制の無い社会が機能するはずもない。問題にすべきことはどのような規制がよい規制であるか、ということである。
彼は世界の指導者たちに、GDPなどの指標で自国の繁栄を測ることをやめて、世界全体の繁栄を測るグローバルな指標を重視するように呼び掛けている。その意味で彼は国連の専門機関であるIMF(国際通貨基金、)などが米国主導の資本主義を押し広げ、貧しい国々が貧しいままであるような制度設計をしているとしてそれらを批判している。アジアの経済統合はアメリカが世界の市場を支配することへの対抗勢力として非常に重要であり、これにより南北の貿易格差や国際的財務不均衡などの是正が可能になると期待している。また経済のマネタリズム(貨幣的な側面重視)化を重視する中央銀行が力を持つことにも批判的である。貨幣操作だけでは実体経済はコントロールできないということであろう。
グローバル化は中国や韓国をはじめとする東アジアの国々の発展で成功したかに見えたが、工業製品の飽和が労働力過剰を生み出し、輸出業者の行詰りを招いている。それにグローバル化の推進国であるアメリカをはじめとする先進国が自国の利益の追求に終始したことで先進国と途上国の間の格差が助長され、その弊害が顕在化した。新自由主義も類似の弊害を露呈している。自国、自企業、自分の利益を最優先して行動するから、国間、国内で格差が増大し一部の勝者だけが利益を占める傾向が強まる。これによる被害を受けているのがアフリカ諸国である。東アジアではその労働力が経済発展を支えたが、アフリカに有り余る労働力は生かされず、それに依存した発展はもはや望めない。このような状態を改善するには世界レベルで分配を機能させ、共生を目指すしかない。しかし現状ではトランプを大統領に戴く米国のように自国中心主義が蔓延している。国際的なルールは先進国中心で決められるからである。これは国内における格差の解消についてもいえることである。政治や経済のあり方は権力層・富裕層の意向で決められてしまうからである。
この弊害を是正するには教育による人々の意識の向上しかない。人は一人では生きては行けない、共に依存しあって生きて行かなければならないのである。この共生の重要性を教育によって普及させて行かねばならない。長い道のりであろうが一歩一歩進めて行くしかないのである。この方向性だけは見失ってはならない。この道を外せば人類の滅亡につながるであろうから。

’203月ミニトーク                    永野 俊
1)戦後処理―日本とドイツの差―
以前このコラムで日本の戦後処理の拙さを批判した(201910月、「シラク逝く―戦後処理のあり方―」)が、戦後処理の優等生といわれるドイツと未だに戦後処理がうまく出来ていない日本との違いを政治学者中野晃一に聞いてみた。彼の見解は以下の通りである。
ドイツはナチス支配の時期にもそれに屈しない政治家がいた。戦後の首相アデナウワーがその代表である。彼らは当然のことながらナチス支配の時代には干されていたが、戦後政治的な力を得てナチスドイツの否定の流れを作ったことがドイツの戦後処理をうまく成し遂げた。一方、敗戦後日本は戦前の多くの政治家や高級官僚が巣鴨に拘留されたが、彼らの力を借りないと戦後の日本社会の運営がうまく動かない。そこで米軍は彼らを釈放してその任に当たらせた。彼らの多くは右寄りの思想の持ち主であったため日本のアジア諸国への侵略を明確には認めず、あいまいな形を存続させた。自民党中心の戦後政治のなかでこのかたちが定着し存続し続けてしまった。
この解釈は納得ゆくものであるが、それ以外に国民性の違いもあると思われる。何事も論理的に考え、白黒をはっきりさせる傾向がある西欧に対して、日本はあいまいでグレイゾーンを受け入れ、お上の考えに従順な傾向があることが、戦後処理の曖昧さを引きずっていると思う。これでは被害を受けた国々は納得できないのではなかろうか。曖昧さということは昨今よく言われる多様性を認めることにもつながり、よい側面もあると思うが戦後処理問題に関してははっきりと国の謝罪の姿勢をあきらかにするべきであろう
2)‘国’は人の人権を守るためにある。
自民党中心の今の政権は国の存続のために国家緊急権を発動して緊急措置をとるというが、それにより人権がないがしろにされることがあってはならない。国は人がその人権を守るために集まってできたものである。国を守るために人権がないがしろにされることがあればそれは本末転倒である。先の大戦などはそれが起こった典型例である。国を守るために3百万もの日本人が犠牲になったのであるから。とくに多くの青年が命を捨てての特攻を強制され、戦地で散って行ったことは人権無視の最たるものである。人があってこそ国があるのである。
最近自民党の重鎮が、コロナウィルス騒動をだしにして、憲法を改正し緊急事態における政府の権限を強めるような発言をしているがこれは問題である。さしたる根拠もないのに緊急事態宣言をして、自衛隊の海外での積極的軍事活動を可能にする可能性が大きい。中央政府に強権を持たせて緊急事態を乗り切ろうという発想がそもそも間違っている。災害などの緊急事態では、その災害のタイプにより地方自治体や専門家集団などに現場を仕切る権限を持たせ、中央政府は後方支援に徹した活動(資金、資源、人材などの提供)をするべきなのである。これは多くの識者により東日本大震災対策やダイヤモンド・プリンセス号対策などで指摘されてきたことである。別稿にも書いたが、災害をダシにして憲法を変えてはならない’ということを我々はしっかりと頭に入れておく必要がある。

悲しみは癒しのもと              20202月  永野
人は肉親などの身近な人と死別すると大きな悲嘆に暮れる。とくに親がわが子を失った場合の悲嘆は大きく、周りの人々がこれを癒すことは不可能に思える。民俗学者柳田國男は子供に先立たれ、悲嘆に深く沈み、死とそれに伴う悲しみというものの本質を考え抜いた。柳田はその思索の結論をつぎのように述べている。悲しみの感情やそれに伴う落涙などの所作は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源となるものである、と。確かに悲しみはそれを負った当人以外には対処しようのないものである。思い切り悲しみ、泣きわめき、その感情を外に発散する。その行為が底しれぬ喪失感を癒し、明日に向かって生きる力を与えるのであろう。周りの人々はそれに寄り添い見守ることしかできない。死んだ人はいかにしても現世に戻ることはないのであるから、諦めよ、忘れよといった安易な言葉は決して当人を癒すことはなく苦しめるだけである。本人は死に別れた近しい人を忘れようとは決して思わない。彼は死者と現世に生きる者とのつながりを‘魂’の存在という形に求めている。自分の中でその死を‘魂’というものに昇華させてその死者との関係を保ち続けたいのである。
では魂とはなんであろうか。現代は物事を割り切って論理的に考え、それにより科学・技術が飛躍的に発展し便利な世の中になった。しかしそれは同時に人と人との交わりのような論理で割り切れないものの価値を喪失させ、それによって人間に本性的に備わる‘こころ’の重要性が軽んじられてきているような気がする。この割り切れないものの典型が魂というものである。現代科学の信奉者は、人間は死んだら土にかえり、そこでは生きていた時に持っていたすべての物(肉体、頭脳などとその働き)が消え去る、と考える。確かに物理的にはそうであるが、生きていた時その人が他の人に与えた諸々のこと(行為、心情、考え方など)は生きている人々に様々な形で記憶され、影響を及ぼす。仏教思想家金子大栄は‘花びらは散る、花は散らない’という言葉を遺している。形は滅びても人は死なない、その人のありし姿とこころは後世に残り、人々と繋がりを持ち続ける、ということである。われもまた仏となりて後の世のこころに現われよう。和やかなる光となり、しのびやかに窓に入り、涼しき風ともなりて声もなく室を訪れる。その時には形もなく名もなければ煩わすこともなくして自在に有縁を慰め、知らるることなくして無碍にその人を護ることが出来よう、という言葉も残している。これが柳田が言うところの魂の姿なのであろう。般若心経の「色即是空、空即是色」の意味もこの考えに則れば理解しやすい。空とは絶対的な虚無ではなく、生きる者の目には見えない純化された精神=魂が棲む空間と考える。この空間は自然界の風景の如きもので、魂はその中に存在し続けるものと考えられる。「色即是空、空即是色」は空と色(現世)の深い関わりを述べているのであろう。一時期はやった「千の風になって」という歌の中に(わたし(死者)は)、千の風になって/あの大きな空を/吹き渡っています、という行があるが、これは空の世界から魂が現世を生きる人に言葉をかけてかかわりを持っている、ということを表わしているのであろう。
参考:竹内整一‘「かなしみ」の力’ワテラスコモンホール、(2020/2/2) より。

自民党の新憲法改正案―問題点その2―        20201月  永野
自民党の改憲案には4つの項目があるが、そのうちの①‘9条への自衛隊明記’と②‘緊急事態条項’ 設定は特に大きな問題がある。①についての問題点はすでに本コラムで指摘した(20201月ミニトーク)ので、ここでは②についてその問題点を記す。
緊急事態条項(国家緊急権の設定)とは大災害などの非常事態において国の存立を維持するために、国家権力が立憲的な憲法秩序(人権保障と三権分立)を一時停止して非常措置を取る権限を設ける条項である。人間の本性には権力欲が潜むから、この権限は統治者に悪用される危険性がある。それにも拘らず新自民党案にはその発動手続き(国会の承認等)とその停止の規定が全く示されていない。内閣の閣議決定だけで発動でき、その停止も内閣で決められることになる。要するに内閣が国会での立法を待ついとまがないと判断すれば発動でき、主権者である国民を代表する国会の承認なく立法できることになる。
さらに問題なのはこの国家緊急権は、自然災害だけではなく、他の災害が起こった場合にも発動できることである。災害という語には自然災害のほかに人為的な事故や武力攻撃事態も含まれる。さらに発動期間の限定がないことは独裁政権の誕生を容易にするという点で極めて危険である。日本人は権力者を信頼する傾向があり、この危険性には鈍感な面があるがこれは反省すべきことである。欧州では長年権力者による圧政で民が苦しみ革命で血を流して権力者を倒した歴史があり権力を疑う姿勢がある。日本も戦前の軍権力の台頭で大戦に突入し300万余の日本人が犠牲になった経験を持っているからこれを踏まえて権力に対して厳しい目を持つことが求められよう。
緊急事態条項案では内閣に政令を発動する権限を持たせている。政令とは行政機関が行う立法形式であり、立法機関である国会によらない例外的な権限である。この案には政令の制定後すみやかに国会の承認を求めなければならないとあるが、国会が不承認の場合この政令は無効になるとは書いてない。政令がそのまま存続する可能性を否定できない。政令は災害事項に限定されていないから報道に自由や通信の秘密などが限定される可能性も生じる。これは内閣の立法に対する国会のコントロールを失わせるものである。繰り返し述べるが、緊急事態条項は政府の独裁を認める条項であると言える。
国家緊急権は災害発生後泥縄式に権力を政府に集中させるものであるが、それはほとんど効果がないと言える。災害対策に関する法律はすでに十分に整備されている。内閣は大災害時には物価の上限や生活必需品の配給などの政令制定権が認められており、防衛大臣には自衛隊や警察の動員権が定められている。要するに既存の法律ですべて対応可能ということである。また実際の災害現場では現場に詳しい市町村が主導して対応を行うべきで、国は上記のような後方支援に徹するべきである。現場の個別事情に詳しくない中央政府が主導すれば個々の災害現場にはそぐわない画一的な施策が強行され現地の住民が混乱に陥る。中央政府は現場の対策を主導するのではなく、人・モノ・金による後方支援に徹するべきである。結論は‘災害をダシにして憲法を変えてはならない’ということである。
参考:永井幸寿‘改正された緊急事態条項の危険’世界、201811

‘20202月ミニトーク                 永野  俊
1)最後の判断は人間が下す
イランが民間航空機を誤ってミサイルで撃ち落とし、搭乗者全員を殺害した事件で、1983年に旧ソ連で起こったある事件を思い出した。ソ連軍の一将校が監視衛星から発せられた米軍からのミサイル攻撃警報を誤報と判断し上司に報告しなかった。これは軍の服務規程を破る重大な行為である。しかし彼は警報内容から判断して監視システムの誤動作であると確信し敢えて服務規程に違反した行為を行った。後の調査で彼の判断は正しく、監視システムが磁気嵐によって正常に作動しなかったことが判明した。彼は米ロによる戦争の勃発とそれにより必然的に起こる第三次世界大戦を未然に防いだことになり、のちに‘世界を救った男’と呼ばれるようになった。
今日の大国の軍事システムは極めて高度な技術で成り立っており、敵の攻撃情報を自動的にいち早く検出できるものである。しかしどんなに高度なシステムでも誤動作による誤った情報を発する可能性を完全に除去することはできない。上記の事件は人間の良識的な判断はどんなに高度な監視システムよりも戦闘回避を可能にする力があるということである。そのことを大国の為政者たちが理解する能力があれば恒久的な世界平和実現の道は探せると思う。核を持つ大国はこのことをよく踏まえて人類の存続という視点でものごとを処してほしい。
2)第三の社会システムを考えよう
最近このコラムで資本主義(自由主義)の欠陥を指摘する記事を多く書いているので、筆者が社会主義者あるいは共産主義者であると誤解する読者もいると思う。しかしそれはまさしく誤解である。資本主義の批判は即社会主義(共産主義)の肯定にはならない。両者とも本質的な欠陥を有している。どちらも人間が本性的に持つ際限のない欲望を肯定するものであり、それらは人々の間の格差を際限なく助長する。前者は際限のない物欲・金銭欲を、後者は際限のない権力欲・支配欲を肯定するものである。他の人々に思いを馳せ、これらの欲望をほどほどに抑えることができる第三の社会システム(以前英首相ブレアが提唱した第三の道とももちろん違う)が求められているのである
3)恩送り
恩返しという言葉はよく使われるが、この言葉はあるいは耳慣れないかもしれない。しかしこれは社会をうまく機能させるために極めて重要な考え方である。若気の至りと言われるが、人は若いころは自分勝手な言動をして他人に迷惑をかけることが少なくない。そして老年期に入ると若いころの行動を反省し、その傍若無人な言動を包み込んでくれた人々(多くの場合自分より年上の人)への恩返しをしたいと思うものである。しかしそのころにはその人々はもういない。そこで恩を受けた相手ではなく、他の人の助けになるようなことをする。それが‘恩おくり’であり、それによって多くの人が恩恵を受け本人も癒されるのである。

気候正義                 20201月  永野
気候正義とは温暖化による気候変動が引き起こす構造的不公正を指摘し、その是正を求めることである。世界のトップ10%の人々による温暖化ガス(CO2など)排出量は全体の半分を占める一方で、下位半分の人々の排出量はわずか10%に過ぎない。世界のわずか100社が全排出量の71%を占めているというデータもある。一部の豊かな人々の過度な物欲と消費が許される現在の社会システムの不合理性は明らかであろう。問題は若者、途上国の人々、先進国の社会的弱者などが気候変動の悪影響に圧倒的に晒されていることが不平等性を助長していることである。気候正義はこのような権力・従属関係が存在する社会のシステムそのものをただすことを求めているのである。気候変動問題の根本的な解決には現在の多くの国が採用している資本主義をベースにした経済・社会システムそのものを変える必要がある。一時期よく言われた炭素税や排出権取引などのような市場原理に即した方法では解決できない。工業製品や食糧の生産と消費、発電方法、移動手段など人類の活動のすべての側面での大転換が必要なのである。1988年にJ・ハンセンによって人間の産業活動が気候変動の主因であることが指摘された。しかしその直後に新自由主義に基づくグローバリゼーションが世界を支配し、現在までの約30年にわたって活発な経済・産業活動が続けられてきた。その結果、現在では気候変動が漸近的な解決策では対処できない状態になっており、世界の社会システムの大転換というラディカルな解決策が必要となった。
解決策として提案されたものがグリーン・ニューディール政策である。温暖化防止と経済格差是正を目指す運動で、かつて世界恐慌対策として採用されたニューディール政策に対応するような画期的政策を環境問題と経済格差問題に対して行うというものである。先進国の発展は途上国からの資源や労力の搾取に依存してきたものであるから、先進国は自らの排出量削減と途上国への無償技術提供の推進でこの借りを返す必要がある。気候変動対策は単にCO2排出削減だけではなく、生産の計画化、市場規制、資源採取是正などが求められる。一言で言えば自然と人間活動の調和の実現が求められているのであろう。
以上の議論からわかるように資本主義は真の民主主義の実現とも顕著な対立関係を持つ。真の民主主義実現には生活の質的改善、人々が足るを知り際限のない消費や利便性以外の新たな生きがいを見出すことが必要である。人間の欲望は無限であるから資本主義を野放しにすれば格差は拡がり民主主義は衰退する。限りある地球で人々が生きて行くためには無限の欲望を助長する現在の経済・社会システムの大転換が必要なのである。これは経済発展至上主義のもとで生きてきた現代人には極めて難しいことで、麻薬患者がその呪縛から脱する苦難と類似している。しかもその大転換は‘麻薬患者’である我々自身が行わなければならないのである。今の世界の流れに乗っている多くの人々は自分が生きている今さえ大過なく過ごせればそれでよいと考え、現在の弱者や未来の人々に思いをはせる人は少数派であろう。人類が‘麻薬中毒’から立ち直るのは絶望に近いほど困難に思えるが・・・。
参考:斉藤幸平、「気候危機の時代における資本主義vs民主主義」世界(2020.1)

気候変動とグラスルーツ運動         20201月  永野
昨年の国連気候変動サミットで16歳のグレタ・トゥンベリ(スウェーデン)が気候変動に対処しない各国政府(特に先進国・新興国)と世界の大人たちを激しく非難して、対策に着手するように求めたことはよく知られている。彼女の言動が注目された背景にはここ十数年世界の若者たちの国境を越えた活動―グラスルーツ運動―があることを忘れてはならない。‘グラスルーツ’とは文字通り草の根民主主義の意味で、一般市民一人ひとりが積極的に政治に参加することを意味する。
気候変動問題の場合、この運動は先住民族出身あるいは過疎辺境地域出身の若者たちによって主導されてきた。それはこれらの地域での人々の生活が気候変動による悪影響を最も多く受けてきたからである。悪影響を受けた原因はこれらの地域の多くは衣食住の資源を自然環境に依存するライフスタイルをとっていることにある。多くの地域が貧しい有色人種が生活する場所であり、このため世界の支配層にあまり問題として取り上げられなかったこと、これらの地域には主流メディアの目が届かないことも被害を拡大させた要因であると言われている。ともあれ気候変動抑止を訴える運動―気候変動ストライキ―は今では欧米諸国にも広がり、グレタの演説後各国で行われた集会には各国それぞれ数十万人規模の参加者を集めているという。
大気圏と海洋という隔てることができない媒体により世界全体に広がるこの問題の本質を真正面から受け止めて、気候変動抑止運動は国境を越えて野火のように世界に広まっている。多くの若者が‘いのち’の価値を‘おカネ’の価値よりも優先しており、その価値観のもとでは資本主義経済は大きな欠陥を持つことを見抜いている。彼らの運動は抜本的な社会変革の必要性の理論的裏打ちをする知識人たちによっても支えられている。この社会改革の代表的なものがグリーンニューディール政策であるが、これは前世紀初めのニューティール政策とは根本的に違う。先のニューディール政策が低所得労働者や異民族などの社会的弱者を排除して行われたのに対してグリーンニューディール政策はこれらを包摂した人類共存の思想をその基盤に置くものであるからである。
最後にこの問題の解決が進まない最大の原因に触れておこう。前世紀後半、国連に気候変動問題を解決するための機関であるIPCCが設けられ、温暖化要因が人類の活動によって引き起こされていることを指摘し警告してきたが、その具体的な対策は今日まで遅々として進んでいない。この最大の原因は化石エネルギー資源を扱う大会社が気候変動否定論者や関連するシンクタンクに多大な資金を投入し。科学的データとその分析結果を捏造し、温暖化否定あるいは温暖化の人類活動原因説の否定のプロパガンダを展開し、為政者や一般市民を欺いてきたことによる。これは‘気候変動を憂慮する科学者同盟’が暴いた報告書(2015年公表)により立証されている。それにも拘らずエクソンモービルなどの大エネルギー会社は今でも気候変動を否定する科学者や機関などに莫大な寄付を続けているという。政治家たちも経済活動の転換には消極的であることも大きな問題であろう。
参考:宮前ゆかり、‘気候変動vs.若者たち’、世界(2019 12月)

201月ミニトーク                  永野 俊
1)サイバーセキュリティ
コンピュータに精通している方には釈迦に説法であるが、ちょっとセキュリティについて述べておこう。他人のコンピュータに入り込んで、その内容の改変、盗用、破壊などの悪意のある行為を行うソフトをコンピュータウィルス(マルウェア)という。この被害からコンピュータを守ることをサイバーセキュリティという。マルウェアはコンピュータの誕生時期から想定されていたが、80年代インターネットが普及したころから具体的に用いられるようになり種々の問題が生じている。
マルウェアは日々新たなものが考案され、セキュリティソフトもそれを追いかけるように進歩しているが、後追いになってしまうのは問題の性質上避けられない。最近話題になっているマルウェアにランサムウェアと言われるものがある。これはコンピュータの中に入り込んで中のファイルを暗号化して読めなくしてしまう。その上で持ち主に復元方法の対価を要求するものである。会社などの大きな組織が狙われやすいが個人も注意する必要がある。重要なファイルはバックアップしておく、などの対策が必要である。なお、ネットの利用が普及するとともに我々は種々のパスワードを設定するが、これにも注意が必要である。同一パスワードを使うことは、一度パスワードを盗まれてしまうと、盗用者に種々の目的での利用を許すことになるから危険である。かといって利用目的ごとにパスワードを変えればその記憶が困難になる。パスワードリストをメモしておくことが必要になる。メモが盗難にあってしまうこともあるのでメモにはパスワードの一部のみを記入する。真のパスワードはそれの頭部あるいは尾部に○○を付けたものにする。○○は何でもよいが、23文字なら記憶できる。

2)自民党の憲法改正案
1
年ほど前に示された自民党案は憲法9条を保持したままで、9条の2という条文を追加するという巧妙な改正案で集団自衛権を可能にしている。それは追加条文で‘国及び国民の安全を保つため’、という記述を入れていることである。従来は自衛隊法三条で国の安全を保つためと規定されている。これを国及び国民の安全とすることは海外にいる日本人救助という名目で自衛隊の海外派遣を行い集団的自衛権を行使できることを意味する。グローバル化した今日の世界では世界中に日本人が居るから自衛隊はどこにでも派遣され集団的自衛に参画できることになる。自衛隊の派遣も国会の承認その他の承認となっており首相の一存で派遣可能となる可能性を認めている。これは一例にすぎず9条の2は様々な問題が存在し、その多くは日本の平和主義を骨ぬきにするものである。現行憲法も施行後70年以上たっており、現状に合わない点も数々あると思うが、安倍政権のもとで改正をするのは甚だ危険である。首相が軍国主義的思想に大きく傾倒しているからである。国民の多くが納得する形で時間をかけて改正したいものである。 なお、自衛艦‘いずも’の空母への改変も、他国への先制攻撃を可能にするためのものと解釈できる。空母とは基本的にミサイルを装備し、戦闘機を搭載して他国を攻撃するものであるからである。

人間が棲める地球を―水素社会の可能性―      201912月  永野
近年世界中で暴風雨や森林大火災、大干ばつなどが頻発し、地球温暖化がその原因であるといわれる。地球温暖化については1990年末に国連がその防止策検討のための会議を設置し検討が開始された。しかし温暖化防止対策の具体的な進展は見られず、今日まで温暖化の主因であるCO2の排出は増加の一途をたどっている。先進国では削減技術の開発などでほぼ横ばいであるので、非先進国への削減技術移転はその一助となるが,彼らはそれを無償提供しようとしない。温暖化には国境がなく世界中の国々が力を合わせて取り組まなければ解決できないものであるから技術提供に見返りを求めるのは筋違いである。なお、人類の化石燃料消費活動以外にも温暖化による海水や永久凍土などからの温暖化ガス(CO2, メタンガスなど)排出の影響も大きいといわれる。いまや世界での排出量をゼロにするだけでは温暖化は止められず、大気中の既存のCO2を回収する必要があるといわれる。
さて、このように山積した温暖化に対する問題をどのように解決して行けばよいのか。技術的な観点からは従来か
らある再生エネルギー(風力、太陽光、地熱などなど)技術の更なる開発と普及はもちろん重要であるが、もう一つエネルギー源としての水素の普及も重要である。水素の利用で排出されるものは無害な水のみである。水素を得るには電力が必要であるが、再生エネルギーは多くの場合生成が不安定で天候や時間帯に依存して供給が過剰になる場合がある。この余剰電力を水素の生産に使えばよい。エネルギー源としての電気の電池による貯蔵は長時間にわたる大きなパワー供給が問題点である。このため大型の輸送機器(航空機、輸送船、大型長距離トラックなど)は全てエネルギー源を化石燃料の依存していた。水素はこの問題を解決できる。

より根本的な問題は人類社会のあり方である。人類は産業革命以来地球の資源を食いつぶしながら経済的発展を遂げてきた。いま世界で主流の資本主義に基づく自由主義経済を踏襲することが問題なのである。これが人々に金銭的価値観、物的価値観を植え付け消費経済を進展させてきた。しかしこの道筋の先に未来はない。資源は枯渇し、人類はその棲家である地球を汚染し続けて、そこでの棲息を不可能にしてしまう。地球という天体は残っても人類をはじめとする生物はこの地球から消え去るであろう。人々はこのことを肝に銘じて社会のあり方を変えて行かなければならない。極めて困難なことであるが・・・。
温暖化を含む環境問題に対して厳しい発言をしているスウェーデンの少女グレタさんに対して、大国のアメリカやロシアの首脳は彼女を見下すような発言をしている。トランプは「明るく素晴らしい未来を夢見る・・・ほほえましい姿だ」と。この言の裏には、君のいうことは現実からかい離している、という見解が見える。笑いものにしているという非難が多い。またプーチンは「優しいが、いま世界が抱えるいろいろな問題を理解していない」という主旨の発言をしている。しかし本当にそうなのだろうか。彼女の発言の方がより広く大きな視点で物事をとらえていると思えてならない。世界の現状の流れを受け入れその呪縛から逃れられない世界の主導者たちとそれを支持する多くの人々こそが破滅を招いていると思えてならないのだが・・・。

グローバル化とダイバーシティ         201912月  永野
この二つの言葉はいま世界での種々の問題を議論するときに頻繁に用いられているものである。この二つは相反する要素を多く持っているので、グローバル化の流れの中でダイバーシティ(多様性)をうまく生かすことは困難なように思える。その問題点と可能性について少し考えてみたいと思う。
ご存知のようにグローバル化とは社会的・経済的に国や地域を超えて世界規模でその結びつきが深まることである。グローバル化には次の3つの側面がある。①帝国主義的側面があり、双方がウィンウィンになるようにはなりにくい、②文化的に異なる背景を持つ地域が交流するのであるからそこには種々の軋轢が生じ、弱い立場の地域の文化の破壊が起こりやすい、③技術や物流の活性化による経済の進展、途上国の文明進展(科学技術、医療など)などのメリットもあるがこれには陰の面が付きまとう。特に経済で先進国支配の傾向が生じてしまう傾向がある。ダイバーシティは金子みすゞの詩にある「みんなちがってみんないい」がその骨格ではあるが、具体的にはそれだけでは機能しにくい。お題目を掲げるだけでは機能しないことは政策や法律などの問題でもよく起こる。いかに肉付けして具体的な形にするかが問題で、色々な考え方、やり方をインクルージョンすることが欠かせない。インクルージョンとは包摂という意味ではなくではなく、広く‘配慮’するという意味である(註1)。骨格だけでは機能せず、建前と本音をどう調節するかがダイバーシティを社会で生かそうとする場合の最大の問題である。
さて、グローバル化は通信技術や移動技術の発展が進む現代ではこれを止めることは困難である。グローバル化が世界でうまく機能するための必須の要件は、ダイバーシティを互いに認め合い共存するやり方を模索していくことである。この模索の過程で必須の要件となるのが、インクルージョンの姿勢である。ある地域の種々の課題の解決に他の文化や文明を持つ者が関わる場合にはその地域の人々に受け入れてもらう姿勢を持ちつつ共に真摯に取り組むことである。そのためには地域の文化や風習を理解し、それらを尊重することが必要である。先に報告した故中村哲さんのアフガニスタンでの活動はその典型的な成功例であろう。このような活動には‘実践智’即ち実際現地で活動して学ぶことが重要であるといわれる。強者の支配をいかの押さえるかも大きなポイントである。自然の成り行きに任せれば、支配的な傾向が生じてしまう可能性が大である。現実に世界はその傾向の流れになってしまっている。この典型的な例はアメリカの種子会社モンサントの遺伝子組み換え作物による途上国の農業支配であろう。人間の根本にある支配欲と物欲をいかに慎ませるかがポイントで、これができない限りグローバル化により世界の人々が互いに満足する形で共存することはできない。人類が支配欲と物欲に駆り立てられて様々な争いを引き起こしてきた歴史的事実を見ればこれは明らかであろう。
(註1)社会活動家(東京大学特任教授)湯浅誠の言
参考:朝日教育会議‘グローバリゼーションforダイバーシティ’法政大学(‘19/11/30)

中村哲さんの死を悼む            201912月  永野
アフガニスタンで人道支援活動をしていた中村哲さんが124日に何者かに銃撃されて亡くなった。この惨劇は新聞やテレビで大々的に報じられているが、小生なりのコメントを少々しておきたい。この惨劇の原因については諸説がある。アフガニスタンは政府軍のほかにタリバーンやIS(イスラム国)などの軍事組織が対立関係にありそれに巻き込まれた;用水路の利権をめぐる部族間対立;政府を支援する米国と日本の親密関係に対する反感;などなどである。その中で、政府と対立する軍事組織が戦闘員として若者を勧誘するためには中村氏の活動が邪魔であったという説が信憑性を持つように思える(註)。アフガニスタンは戦乱や旱魃などで荒廃し、都市部へ出てその日暮らしをする若者が増えた。反政府軍事組織(タリバーン、ISなど)はそれらの若者を戦闘員として勧誘する。中村さんらの活動は荒廃した農地に用水路を設けて農業活動を再開させ、若者を農業に戻らせるものである。したがって若者を戦闘員として取り込みたい軍事組織は彼の活動に反感を抱く。
それにしても自らの命の危険を知りながら人道支援に徹した彼の活動には頭が下がる。彼は医者で医療活動のためにアフガニスタンへ赴いていた。そこで生活の困窮から病に倒れる多くの人々に接し、病の治療をするだけでは本質的な問題解決はできないと悟ったという。人々の病の根本にある悲惨な生活を改善することの必要性を痛感したという。そこで土木工事技術を自ら身につけ、1600本もの井戸を掘ってきれいな飲料水を供給し、多くの用水路を作って荒廃した農地に水を供給して農業を再生させ住民の食料を確保した。彼の残した名言の一つに「100の診療所より、一本の用水路」という言葉がある。まさに戦禍や自然災害による被害で困窮した人々を救うための至言であろう。命を賭してその言葉を実行に移した彼の活動を改めて称賛したい。彼は国際的な平和貢献者に送られるマグサイサイ賞をはじめとして日本やアフガニスタンなどで数々の表彰を受けているが、それに加えて国民栄誉賞やノーベル平和賞が贈られてしかるべき業績である。
なお、彼が長年にわたって紛争が絶えないアフガニスタンで人道支援活動を続けられたのは、現地の人々の信仰や風習、価値観などに最大限の敬意を表しながら活動を続けていたことにあるという。これは海外で支援活動を成功させるために必須の事柄であろう。現地の人々に受け入れられなければどんな支援活動も成功しない。
余談であるが、彼には人道支援家としての血が流れていたようである。彼の母方の祖父玉井金五郎は北九州の沖仲仕(港湾労働者)の一組合の長であったが、厳しい労働と貧しい生活を強いられていた沖仲仕たちの生活向上のための運動を起こした。暴力団との抗争で重傷を負いながら戦ったという経歴の持ち主である。中村氏はこの祖父から弱者救済の血を受け継いでいたのであろう。この玉井金五郎の生きざまは中村氏の母方の伯父である小説家の火野葦平によって長編小説として描かれた。タイトルは花と竜」(はなとりゅう)で、昭和27年(19524月から翌28年(19535月まで読売新聞に連載された。また映画化もされて好評を博した。
(註)師岡カリーマ、‘中村医師が暴いたウソ’、東京新聞本音のコラム(12月第1週後半)

1912月ミニトーク                     永野
1)徴用工問題―日本の対応の不合理性―            
最近の日本と韓国の関係悪化はGSOMIA破棄の延期で一息ついたが、まだ緊張関係は続いている。その発端は徴用工問題である。戦時中日本の多くの企業(三菱重工、現在の新日鉄等々)は韓国や中国の労働者を強制的に徴用して働かせた。その労働は過酷で奴隷のような扱いであったという。その不当な強制労働に対する対価を徴用された韓国労働者が韓国大法院(日本の最高裁にあたる)を通して請求しているという問題である。この要求に対し日本政府は1965年の日韓請求権協定で解決済みであるということを主張し、支払いを拒否した。この対応は多くの日本人によって支持されているようである。
この徴用工問題は以前中国との間でも起こっていた。この場合も日本政府は日中共同声明により解決済みとの見解をとったが、実際は加害企業の謝罪と見舞金の支給などにより民間レベルで和解が成立している。今回の韓国との間の同様の問題も民間レベルで解決できるのではという当然の疑問が政府にぶつけられたが、政府は発言を避けている。それどころか政府は加害企業が独自に対応することを止める発言をしている。中国と同じ対応ができないことを説明できない政府の理不尽さは非難されるべきである。
実は日本も同じような問題を抱えていた。シベリア抑留兵の強制労働問題である。これに対し日本は政府間での問題解決はなされているが、抑留兵が個人として旧ソ連に強制労働に対する謝罪や対価を求めることは出来るという見解を示している。この事実を踏まえれば今回の徴用工問題は韓国側にも一理あるといわざるを得ない。 2)組織をうまく機能させるには
DeNA
はゲームソフトやAI利用ソフトなど種々のアプリケーションソフトの開発を手掛ける会社である。いまや資本金100億円を超える大企業になったが当初は夫婦2人で立ち上げられた小規模な会社であった。この会社を立ち上げ、現在代表取締役会長を務める南場智子氏は小規模な組織をうまく運営し発展させるには、その組織に次の3つの要素が備わっていることが必要であるという。それらは①何か一つ優れた特徴を持つ個性的な人が多くいること、すなわち尖がった人が多くいること、②それらの個性的な人々をうまくまとめる人がいること、③全体の方向性や夢を語れるムードメーカーがいること、であるという。これは会社に限らずNGO、組合などをはじめ友人仲間や趣味のグループなど各種の大小様々な組織に当てはまる。海外ではヴェンチャー企業が誕生して大発展するケースがよくあるがこれらは上記の3要件が満たされていたのであろう。
3)最新のがん免疫療法CAR-T
免役療法では免疫細胞(T細胞)にがん攻撃機能を持ち続けさせるようにT細胞の遺伝子を改変する。この操作には従来はウィルスが用いられていたがこの手法では患者1人分の改変T細胞をつくるのに5000万円の費用がかかる。しかし最近日本人研究者により、ウィルスの代わりに酵素を使う方法が開発され費用が10分の一になった。この手法での治癒率は8090%にも上るという。費用の更なる低下と臨床に応用の認可が待たれる。

眠ることは良いことだ!          201910月  永野
人間は一日に数時間の睡眠をとる。夜になると眠くなって睡眠をとり、朝になると目が覚めて頭がすっきりする。睡眠をとらないと頭の働きは悪くなるし、徹夜を繰返せば体調を崩す。であるから人間には睡眠が必要なことはわかるが、睡眠の具体的な仕組みや効用などはあまり知られていなかった。しかし近年その詳しい研究から種々のことが明らかになってきており、認識が新たにされている。
まず、人間をはじめ哺乳類は主に睡眠中に脳内の老廃物の排泄を行う。この脳内掃除は脳脊髄液が脳内で入れ替わることによりなされる。人間の場合一日に34回入れ替わり総計約500mlもの脳脊髄液が使われる。睡眠中は脳の大きさが少し縮小し、髄液の流れをスムーズにするといわれる。覚醒時の脳は糖質を消費し、その際アデノシンという物質(老廃物)が生成される。これが睡眠を誘起する物質である。これが脳内にたまることにより眠気が起こるのである。仕事で頭が疲れた状態もこの物質の蓄積が関与する。朝起きると頭がすっきりしているのは脳脊髄液によりアデノシンなどの老廃物が除去されているからであろう。前夜に書いた原稿などを朝起きて読み直すと、誤字・脱字、文の繋がりの悪さ、内容のあいまいさなどの不備な点が多く見つかることが多い。これも睡眠時の脳脊髄液による脳内クリーニングがもたらす効果であろう。なお、睡眠は成長ホルモンの生成を促し、脳や身体の種々の傷みの修復にも関与することも明らかにされている。
脳が覚醒しているときには感覚器を通して外界から種々の情報が取り込まれ,蓄積されている。睡眠時には感覚器官は働かず、情報の取り込みがないから、脳は覚醒時に取り込まれた情報の整理整頓と取捨選択を行う。このことからも睡眠の重要性が理解されよう。年齢を重ねると睡眠時間は短くなり、45時間で目が覚めてしまうことが多くなる。規則的な生活と毎日の運動などで充分な睡眠をとることが健康維持の秘訣であろう。
最後に、睡眠に関する一般的な知見を簡単に説明しておこう。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠がある。レム睡眠は浅い睡眠状態である。 レムとはREM(rapid eye movement)のことであり、この状態では眠ってはいるが眼球があたかも何かを見ているような動きをする。ノンレム睡眠は深い眠りのことで、この時は眼球の動きは見られない。この2種類の眠りは約90分周期で起こる。大人ではレム睡眠とノンレム睡眠の一周期での割合は1:45、すなわち約80%はノンレム睡眠である。レム睡眠中では記憶の固定・消去、学習などを行っていると考えられる。夢はレム睡眠時に起こる。一般にレム睡眠時は脳の一部分が覚醒しているが、昼間の覚醒時のように脳全体が活動することはないといわれる。ノンレム睡眠は脳の休養期であり、脳の自己修復などが行われていると考えられている。
余談であるが、夢を見ているときに起こっていることは行動には出ない。行動を抑制する機能が働く仕組みが脊髄のレベルにあるからである。これにより身体を動かす夢を見ていても身体はベッドの上に横たわったままである。しかし稀に夢に中の出来事を行動に移してしまうことが起こる。これは病の前兆であるから早めに治療をする必要がある。
参考:裏出良博、‘聞いて得する眠りの話’東京新聞健康フォーラム、 (‘19/10/5)

Society5.0って何、問題点は?         201911月   永野
最近Society5.0という言葉をよく聞くがこれは一体何であろうか。人間社会は様々な形で段階的に発展を遂げてきたが、それは大雑把に分けると、①狩猟採集社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会の4段階であろう。Society5.0はその次に来るであろう社会形態をいう。具体的には現実世界(フィジカル空間)と仮想世界(サイバー空間)を融合させ人間中心の社会を実現することである。スマート社会ともいわれる。第5期科学技術基本計画において日本が目指すべき未来社会として提唱されたものである。具体的にはIoTAI、クラウド、ドローン、自動走行車、ロボットなどの技術を活用して現社会のいろいろな問題を解決して人間中心の住みやすい社会を実現することである。
目標は立派であるが、従来のモノづくり産業にこだわりディジタル情報社会への転換で世界に後れを取った日本が果たして世界に先駆けてこのような社会を実現できるか否かには一抹の不安を禁じ得ない。
海外ではディジタル情報産業の分野で新しい企業が次々と誕生し、その国の産業を発展させている。米国のシリコンヴァレーなどはそのよい例であろう。いわゆるGAFAと呼ばれるディジタル情報通信企業は全てアメリカから生まれている。日本は従来のモノづくり産業にこだわり過ぎディジタル情報産業分野で大きな後れを取ってしまったが、これもあららしい産業を生むためのヴェンチャー企業をうまく育てられなかったことにある。日本は産業構造における慣性が大きすぎる。新しい産業の発展を阻害する土壌があるようである。あれだけ大きな事故を起こした東電をサポートし企業として存続させるなどがそのよい例であろう。アメリカの場合世界的な金融危機を引き起こした投資会社リーマンブラザースに公的な資金の注入をせず、倒産させている。これは米国史上最大の倒産となった。
なぜ日本は世の中の変化を先取りできないのであろうか。根本原因は日本の教育にあると思われる。新しいことに踏み出す姿勢を抑えるような教育が多い。従来からある決められた考え方や知識をいかに習得しているかのテストを行い、その成績がすぐれたものを重用する。これでは新たな価値は生まれない。日本は保守的に過ぎるのではなかろうか。他人とは違う考え方を持つ人を積極的に後押しし、その考えで進ませてみるというリスクをとらない。だから新しい技術、産業が生まれない。日本が途上国・新興国であったころはそのやり方が一番良かったのであろう。欧米先進国の優れた技術などをいち早く取り入れるためには、それらをマスターし使いこなす能力が求められたのであろう。しかし欧米に追い付き先進国になった時点で、自らが先をどう見据えて何をやるべきかという考え方で行動できる人は従来の成績優良児からは出てこない。あるものを学び取ることには優れていてもそのような頭脳からは新たな発想は出にくいのである。日本はバブルがはじけた頃に、これから先を見据えて独自の発展を遂げることを真剣に考えるべきであった。それができなかったのは、教育がいわゆる優等生の育成に偏重し、従来と違った発想を持つ人材を育ててこなかったからである。このことをよく考えて、Society5.0が構想倒れ、お題目にならないようにしっかり進めてほしいものである。

’1911月ミニトーク              永野 俊
1)プラゴミ問題
よく知られるようにプラスチックの過度な使用が海洋などの環境を汚染している。ポイ捨てのペットボトルやレジ袋だけでなく、人工芝、プラスチックで包まれた肥料(註)、衣服などからも出るそうだ。ポイ捨てされるものは使わない努力をしたり、自然材料を使った代替品に替えることという案を思いつく。しかしそういう発想が起きにくいプラスチック製品(ごみ箱、道路通行経路を示す赤いコーンなど)の氾濫で、それらが劣化してできるプラスチックの破片による汚染も大きい。とくに大都市では舗装による地表の高温化のためプラスチックの分解が早く、ゴミとして飛散しやすい。一時的な経済効果や利便性のみを考えた施策をとるから後世地球全体への被害が広がる。技術の利用にはそれがもたらす弊害を深く考察してから使うことを踏まえるべきである。昔から、我が亡き後に洪水よ来たれ、という言葉があるそうだが、人間は本来自己中心的なものなのであろう。しかし自己中心的で他を顧みない行動は人類を滅亡に陥れるであろう。教育と高度な文化の普及によりこれが止められるといいが、多くの国、特に技術の進んだ先進国のトップがこのことを憂慮しているとは思えない。
(註)肥料をプラスチック製の小さな粒内に封入して、そこから緩やかに肥料が土壌に浸透するようにすることで、長時間の施肥が実現でき作業の労力軽減ができる。
2)人類が共に生きて行くためには
日本のラグビーチームの大活躍が注目されている。ご存知の方も多いと思うが、ラグビーではチームの一員になるのに国籍は問われない。だから今回の日本の代表チームには南アフリカ、ニュージーランド、韓国などの多様な外国出身者が加わっている。多様な国籍を持つ選手たちは互いに協力し、よいチームワークを作り上げ一つの目標に向かって力を尽くしている。
この事実は地球上で人類が共生するためのノウハウを示してくれていると思う。地球上には多様な国々が存在しているが、それらの国々が共生していくためには、その国の人々やその固有の文化が好きで、その国で暮らしたいと思う人が国籍に無関係にそれを実現できるような環境を各国が作ることが必要である。これは一朝一夕にできることではなく、様々な障壁があると思われるが、その方向性を見失ってはいけない。それは政府高官の裃(かみしも)を着ての交渉では実現は困難であろう。スポーツ、芸能,学問などでの一般市民の交流によって時間をかけて培われるものであろう。いま日本は韓国などと緊張関係を持っているが、一般市民の多くが互いの国の風習、文化などを理解し、隣国として共に歩んで行く努力をすれば道は自ずから開けると思う。日本も韓国もヘイトを煽る状況が続いているがその先には何のポジティブな進展もない。政治家は他国を敵視することで自国内での自己の存在感を強めることをよくやるが、この稚拙なやり方は弊害に満ちた愚かなものであることをそろそろ悟ってほしいものだ。
参考:玉川徹‘愛される国に’、105日東京新聞、‘風向計’欄

シラク逝く―戦後処理のあり方―           201910月  永野
フランスの元大統領シラク(19952007在任)が天国に召された。偉大な政治家の冥福を祈りたい。第二次世界大戦中フランスはドイツに占領され、ナチスの傀儡政権であるビシー政権が誕生した。この政権下でフランスはドイツに加担し、8万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んだ。戦後フランスはこのことについて国家としての責任を認めなかった。しかしシラクは大統領になった直後、演説で次のようなことを述べた。「この問題はフランスの歴史を永遠に汚し、過去と伝統への侮辱となる。占領者(ナチスドイツ)の狂気の行為を補佐したのはフランス人であり、フランス国家である。多くのフランス市民や官僚たちがユダヤ人迫害行為に対し黙認あるいは加担をした。我々はユダヤの人々に絶対取り消すことのできない負債を抱えている。国家の過ちを認め、歴史の暗部を隠さないこと、それが人間の自由と尊厳を守り、常にうごめく闇の力と戦うことだ。終わることのないこの戦いは私の闘いであり、あなたたちの闘いでもある」、と(註1)。立派である。
大戦中のナチスのユダヤ人大量虐殺については直接の加害国ドイツからも深い謝罪と反省が行われている。「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」という名言で有名な元大統領のワイツゼッカーは敗戦40周年の式典で、「罪あるものもないものも、老若いずれを問わず、我々すべてが過去の責任を負っている」ということを言っている。ナチスの犯罪を民族・国家として背負ってゆくことを述べているわけで、シラクの言葉と相通じるものがある。また現大統領シュタインマイヤーはポーランドで開かれたドイツ侵攻80周年の式典において、「この戦争はドイツの犯罪であった。過去は終わっていない。ドイツの歴史的な罪への許しを乞いたい」と述べて、改めて国としての謝罪の意を明らかにしている。この式典にはメルケル首相も参列していた。ドイツを代表する2人が式典に赴いて謝意を示したわけである。
さて、日本は戦後被害国にどのような対応をしたであろうか。1972年日中国交正常化交渉にあたって田中角栄首相が責任の痛感と反省の言葉を述べた。それ以来、鈴木、中曽根、海部、宮沢、村山等々歴代の首相が反省とお詫びの言葉を述べている。しかしこれらの多くは、被害を受けた国々のトップとの顔合わせに際して、あるいは国内での発言の機会に述べられたもので、ドイツのように謝罪のためにトップがそれらの国々に赴いて謝罪をしたわけではない。これら日本のトップの言葉からは心からの謝罪はあまり感じられない。謝罪のこころが感じられるのは個人的には村山、河野(洋平)両氏の言葉だけのように思える。なお、天皇は立場上あまり立ち入ったコメントはできないのであろうが、昭和天皇も現上皇も遺憾の念、痛惜の念という言葉だけで謝罪の言葉はない。これらのことが、戦後処理の優等生と言われるドイツとポーランド(註2)と違って、いまだに中国や韓国・北朝鮮とよい関係を築けないことに大きく関係していると思われる。
(註11013日朝日新聞‘日曜に思う’(編集委員大野博人)
(註2)実際は両国間では賠償等での燻りがあるが、現在ポーランドはロシアの軍事的脅威を重大視し、EUの結束を重んじて、ドイツとはもめ事を拡大したくない側面がある。

ノーベル賞あれこれ              201910月  永野
今年もノーベル賞受賞者の一人に日本人が入っていた。物理学賞の吉野彰氏である。2010年代に入ってから毎年のように日本人受賞者が出ている。受賞していないのは2010年から今年まで、111317年の3回だけである。日本人研究者の優れた頭脳を称賛したい。受賞者のほとんどが若い研究盛りの時期に行った業績を認められての受賞である。彼らが若い時に優れた研究を成し遂げた背景には、当時の科学・技術研究に対する官庁や民間企業の手厚いサポートがあったことを忘れてはならない。当時は公的な研究機関も企業の研究部門も研究に打ち込む多くの研究者を正規の職員として雇用していた。彼らは生活が保障されていたので、長期間かかる基礎的な研究に打ち込むことができた。古き良き時代のことである。今は首相の発言にもあるように、基礎的な研究ではなく、すぐ産業に役立ち経済発展に貢献できるような研究を重点的にサポートしていく方針が取られている。この方針では若い研究者は基礎研究には専心できない。事実、彼ら若手研究者はその多くが短期雇用(多くは3年前後)であり、その期間に何らかの成果を出さないと解雇されてしまう。これでは長い期間がかかる基礎的な研究はできず、薄っぺらな研究をせざるを得なくなる。この状況ではノーベル賞に値するような優れた研究成果は望めないことが理解されよう。したがって今後しばらくすると日本のノーベル賞受賞者は減少の一途をたどるであろう。
ノーベル賞がすべてではない、産業に役立つ技術を開発して経済発展を目指すことこそが重要である、という方も居られるであろう。そういう側面もあることは否定しないが、個人的には経済発展により物的に豊かになり便利になる社会を目指すことが人間の幸福感を満たすとは思えない。人間が心安らかに生きて行くことに貢献できる基礎的な学問の追及こそが人類の幸福に貢献するものであろうと思われる。
ノーベル賞はこの方向性をもってなされた研究を讃えるものであろう。しかしこの賞も従来は経済発展、技術革新という視点から選ばれるものが少なくなかったと思う。その代表的なものが1976年米国の経済学者フリードマンに与えられた経済学賞であろう。彼はいわゆる新自由主義の主唱者であり、マネタリズム、市場原理、金融資本主義を主張し経済発展の旗振り役であった。この考えが世界中に広まり富の格差を拡大した。今ではこの考え方は弊害が多く表立っては評価されていない。人類の共生にそぐわないからである。
最近のノーベル賞は視点がこの地球上における人類の共生への貢献ということに変化しているように思われる。吉野彰さんの受賞の対象になった研究であるリチウムイオン電池の性能向上は温暖化などの環境問題の解決につながる。自然から得られるエネルギーは時間変動が大きいことが問題であった。太陽光発電は太陽が出ている間だけ可能であり、風力発電は風が吹いている間だけ可能である。したがって発電可能な時に得られた電気を蓄える蓄電技術の進歩は自然から得られるエネルギーの利用に大きく貢献する。またノーベル経済学賞受賞の3氏は貧困問題が教育問題に深くかかわっていることを明らかにした。平和賞でも環境問題の重要性を訴えたグレタさんが審査の俎上に上がった。この選考基準の変化の傾向は大いに評価されるべきものであると考えられる。

‘1910月ミニトーク                  永野 俊
1)幸福度
現代は定量的な尺度で物事を測り、評価する傾向が強い。しかしこのような尺度では測ることができないものも多い。例えば幸福度である。これは人がそれを感じる度合いの大小で決まる。1981年に行われた調査によれば途上国ナイジェリアと先進国西ドイツのそれぞれの国民が感じる幸福度は同じであった。これは定量的な尺度で計算により出された結果ではなく、聞き取りによるものである。この結果は幸福というものが物的な豊かさや便利さ、科学技術の進展度合い、などとは無縁のものであることを示している。
2)ノブレス・オブリージュ
西欧では富を蓄えたものは、寄付、奉仕活動、投資などで社会に富を還元するのは当たり前と考えられていた。いわゆる‘ノブレス・オブリージュ’と言われるもので、これはキリスト教の教えがベースとなっている。西欧に限らず富の分け合いの重要性は多くの国で共有されていた。例えば日本では近江商人の基本的な考え方として三方良し(売り手よし、買い手よし、世間よし)があった。ところが今では投資などは自己の財を増やすためだけの手段と成り果ててしまった。何か危うい方向へと転換してしまったようだ。人間はいつからこんなに欲張りになってしまったのであろうか。
3AIパートナーは社会を歪ませる
今の若者は結婚をして子孫を残すという考えをあまり重視していない、と言われる。これは世界的な傾向であるらしく日本も例外ではない。現在の非婚の割合は男性の場合25%にも達しているという。また、若い男性の結婚観を調査した結果ではパートナーはAIロボットの方がよいという答えの割合が6割にも達したという。ロボットなら遅く帰宅したときでも文句を言われることもなく、「お帰りなさい、お疲れ様でした・・・」という癒しの言葉で迎えてくれるので心が休まるというのがその理由であるという。これははたして社会にとって有益なことであろうか。これを望む男性はパートナーが自分に従順であることを常に求めているのであるから、自分中心的な考え方が助長される傾向が生じてしまい、社会生活に適合できない歪んだ人間を多く生み出すことにつながる。人間は各々様々な性格や考えを持っており、それらの人々と意見を交わして合意点を模索しながら社会で生きていくものである。AIパートナーを重視することは人が社会の中でもまれて成長することを妨げ、社会を歪ませてしまうのではなかろうか。
4)シンギュラリティ
AIが人間のすべての能力を超えて人類を支配するという、いわゆるシンギュラリティポイントといわれるときが2045年頃には来るという説がカーツワイルという学者により説かれ話題になっている。これに対し「利己的な遺伝子」などの著書で知られる生物学者R・ドーキンスは、AIは認識機能では人を超えられるが、感情・意識・意思などの機能では越えられないという。思いやり、喜怒哀楽、など人間の心に関する機能は持てないであろう、と考えている。この説は彼の近著『神は妄想である』(早川書房)に書かれている。

我々が持つ三権の危機               20197月  永野
三権という語を聞いて何を想定するであろうか。民主主義国に住む我々の多くは政治における三権分立と憲法で保障される人権に関する3つの権利を考えるであろう。三権分立とは治政における立法、行政、司法の相互独立性を謳うものである。それぞれの業務を担う機関、すなわち国会、行政府、司法機関はそれぞれ他の機関に影響されることなく独自に機能しなければならない、ということである。人権保障に関する三権とは生存権、自由権(思想や言論など)、参政権の3つである。これらはさらに細分化されるが、大雑把にはこの3つに分類するのが妥当であろう。
なぜこのような当たり前のことを話題にするのかと思う人も居られると思うが、いま世界ではこの二つの三権がおろそかにされる傾向が強まっているのである。アメリカではトランプ大統領が大統領に与えられた人事権を利用して行政や司法の機関の人事に関与し、自らに有利な判断を誘導している。日本でも官邸が行政機関や司法機関の人事権を握り、官僚や裁判官の忖度を利用して実質的にこれらの機関を支配している。それぞれの機関の人事は最終的な認可は首相や大統領が行うが、これまではこれは形式的なもので実質的にはそれぞれの機関の提案を承認するというものであった。このような不全よりさらに悪いのは、事実に基づかないフェイクニュースで人心を操作したり、客観的な証拠に基づいた事実を公然と否定する言動がまかり通っていることである。トランプ大統領のフェイク発言は有名であるが、日本では森加計問題がその典型的な例であろう(註1)。
人権としての3権についても同様のことが言える。市場経済の放任で格差は拡大する一方であり、下層の人々の生活が圧迫され生存権が脅かされる傾向が強まっている。アメリカでは多数を占めていた中産階級が貧困層に落ち、現在4600万人、すなわち7人に1人が貧困層に属している。一方で上位1%の富裕層が占める富の割合は全体の25%に達するといわれる。日本はアメリカほどの格差はないが、それでも格差は着実に拡大している。政府は働く人々の賃金は上昇しているというが、その一方で社会保障や厚生福祉のための税金徴取も同時に上昇しているのである。このため実質的な可処分所得はむしろ減少していると言われる。政府に批判的な言動を抑圧することが陰に進んでおり、テレビや新聞などの報道にその傾向が表われている。これは自由権の侵害であるといえよう。参政権についても各人の政治に対する考え方が公平に反映されているとは言い難い状況である。
このように民主主義に根幹である二つの三権が侵されていることは憂慮すべきことであり、これを黙認する傾向が日本では特に強いように思われる。我々一人ひとりが政治運営や社会状況を厳しく監視し、批判の声を上げることが唯一の解決策であろう。
(註1)首相は森友・加計問題には一切関与していないというが、獣医学部設置に加計学園が指定される2年近く前に、加計学園理事長と安倍首相の面談結果の報告が学園側から愛媛県自治体にあり、前向きに対応するようにとの首相の意向があった、と自治体の議事録に記載されている。このような客観的な事実を否定し強引に自己の正当性を主張する首相はもはや民主主義の原則を完全に無視しているといえる。

え!国がいくら借金しても大丈夫??
MMTModern Monetary Theory:現代貨幣理論)―   20199月  永野
これは近年話題になっている経済理論で、自国通貨建てで政府が借金して財源を調達しても、インフレにならないかぎり、財政赤字は問題ではないという考え方である。ニューヨーク州立大のステファニー・ケルトン教授などによって提唱されている。わかりやすく言えば、中央銀行が現金を大量に刷って世の中に流せば経済は成長する。それにより税収が増え、国の借金を減らすことができる。さらに借金を重ねてもこのサイクルでMMTはうまく機能し続ける、ということであろう。
素人なりにこの考え方の最大の問題点を考えると、それは大きな経済成長が続くという前提が成り立つかどうか、ということであろう。経済成長は永遠には続かない。現に日本では大企業の利益が社内留保されており、消費は伸びず、成長に必須な新技術の研究開発への投資も十分でないと言われている。経済を発展させうる新しい分野がないからそうなるのである。これでは上記のMMTが機能するための条件が成立していない。
MMT
がうまくいっている例として日本があげられているが、日本はそれほど経済成長していない(註)から、成長で国の借金が返済できるというのは現実にそぐわない。また、現金を刷って国の借金を返済することは、新たな国債を発行することであるから問題の本質的な解決にはならない。金余り現象を生じ悪性インフレを招く危険性もある。この状況になればMMTの前提の一つである‘インフレが起こらないこと’が崩壊する。国債に対する国内需要もいずれ飽和するであろうし、外国も経済が飽和状態の日本の国債は買わなくなる。これもMMTがうまく機能しなくなると思われる理由の一つである。
現在、日本が大金融緩和しても社会が問題なく動いているようにみえるのは、まだ国債の償還時期に入っていないからであろう。アベノミクスによる大金融緩和はまだ6年余りしかたっていない。国債はいずれ償還時期を迎え、その時に使われる資金は国民の血税である。これから本格的な償還時期に入ればその弊害が顕在化するであろう。ちなみに現在でも19年度の国債費歳出(国の借金返済及び利息支払い額)は総予算の4分の一弱を占めている。この弊害は将来世代に借金のつけを回すことであり、それにより彼らに多大な負担をかけることになる。国民が納める税金に手を付けずに、経済成長による企業からの税収のみで支払金をまかなえればよいが、日本を含む先進国がこれから先それだけ大きな経済成長を遂げるということはあり得ないであろう。
要は、先に述べたようにMMTは経済のおおきな成長を前提に議論をしているということであり、その前提は非現実的であるということである。なお、経済成長は無限には続かないという考えは地球上の物的資源は有限であること以外にも、科学技術の野放図な進展が人類にもたらす弊害の顕在化や人間が持つ幸福感、価値観、倫理観といったメンタルな側面からも妥当性を持つと考えられる。
(註)安倍政権は日本が経済成長していることを示すために経済成長指標であるGDPの計算の仕方を変更している。そもそもGDPでは国民の幸福度は測れない。

‘199月ミニトーク             20199月  永野 俊
1)進化し過ぎた動物
生き物の進化はその環境でよりよく生きるためにそれらが備えた機能ある。その例は枚挙にいとまがない。しかし、この進化という機能は本当に生き物の生存におけるもっとも必要なものなのであろうか。これに関し興味深い見解が述べられている(註)。古代アメリカ大陸で牙を異常に大きくさせた剣歯虎(スミロドン)やヨーロッパにいた3mの角を持つオオツノジカなどは進化の末に絶滅してしまった。環境の急変に対応できなかった巨大恐竜の絶滅などもその類であろう。これらの動物は他の動物や同類のライバルよりも優位に立とうとして自らの優れた機能を拡大し、結果として進化の袋小路に陥って滅びたのであろう。今の人類もその轍を踏んでいるのではなかろうか。原子力、遺伝子操作、AI,5Gなど次々と優れた技術の開発を進め、その結果としてそれらをうまく扱えなくなり、結局は自らを滅ぼしてしまうのではないか、ということである。
技術革新を否定するつもりはないが、技術は必ず光と陰の両面を持つ。光に目がくらんで陰の弊害に対する対処を疎かにすれば、必ずそのしっぺ返しがくる。
(註)東京新聞83日朝刊21面、あべ・ひろし‘人間と動物の違いって?’

2TICADTokyo International Conference on African Development
TICAD
(アフリカ開発会議)はアフリカの開発を目指した国際会議で、1993年日本の主導で始まり、国連、国連開発計画、アフリカ連合委員会及び世界銀行と共同で運営されている。日本は初期にはODAなどのよる政府援助が中心であったが、昨今では民間投資に切り替える方向で援助が進んでいる。しかし以前日本をはじめ東アジア諸国が安い労働力で物的製品を生産し、売りさばくことによる経済発展のパターンはもう時代遅れになっている。今は従来の工業製品の需要が飽和に向かっていることとAIやロボット技術などの発達による自動化・機械化の進展で人間の労動力の需要が低くなっている。アフリカ諸国を援助するなら教育、医療、インフラ整備などの分野で力を貸すべきである。日本の経済発展のためにアフリカを利用するという考え方は採るべきでないと思う(註)。しかし日本政府の援助の仕方・考え方はその要素を多分に含んでいる。これは中国の途上国への進出に対抗する意図によるものであろうが、そのようなやり方の先には人類の共生は見えてこない。現に中国の進出には途上国からの警戒感が強まってきている。先進国は国間の格差を是正するために積極的な策を講じるべきである。同時に国内の貧富の格差の減少にも取り組み、その方策を途上国への範として示し、人類共生の先導的な役割を果たすべきである。
(註)戦後日本は大戦被害への償いの意味もあって、企業がアジアの途上国諸国の発展に協力して感謝され、国家間の和解も進んだ。もちろん企業としての利益追求はあったであろうが、そのベースにはアジア諸国への謝罪と今後の共生の意味があったと思う。これがあったからこそ各国との和解が成立したのであろう。(中国、韓国とは未だにギクシャクしているが、これは大戦以前から長期間日本の侵略・支配が続いていたことが大きく影響している。)

終戦記念日に際して一言            20198月  永野
この小文は815日に書いた。戦争が終結し東京裁判で戦争犯罪人は裁かれたが、これは国際的な軍事裁判であり、そこで有罪と認められたものは戦争に対する国際的な犯罪者である。その罪状は日本の国内法による裁きには何の影響も与えない(これは東京裁判記録で文書として明記されている)。巣鴨で刑期を終えた戦争犯罪者は日本国内では裁かれておらず、犯罪者扱いはされなかった。従って彼らは国際法による刑期を終えると社会復帰し、政界や政府機関の要職に就いた。その後、これらの人々の多くは大戦に対する反省を蔑ろにし、軍国主義的思想を復活させる行動をとって行った。この母体となったのが日本会議に代表される右翼活動である。日本は終戦時に国際軍事裁判で有罪になったこれらの人たちの国内的な戦争責任を問い、戦後政治の場での活動を永久に禁じるべきであった。310万人もの日本人を死に追いやったのは彼らなのであるから、国内的にもきちんと裁かれてしかるべきである。
昨今、隣国韓国との間がぎくしゃくしている。両国とも対応が大人げないと思うが、根底には日本の政府や財界が右翼的な考えに支配される傾向が強まっていることがあると思う。日本政府は何か問題があると1965年の日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みである、と言う。確かにそうであるが、紋切り調ではねつけるその伝え方が悪い。大戦で韓国に迷惑をかけたことに対する反省の気持ちを持ち続けることが両国の友好関係には必須であるが、これが感じられないことが彼らの気持ちを逆なでしているのであろう。一例をあげておこう。安倍首相は今年の戦没者追悼式で、300万余の日本人が犠牲になったことを悔やむ言葉は述べたが、他国の犠牲者に対する追悼の言葉は一言も述べていない。先の大戦で2,000万人ものアジアの人々が犠牲になっているのである。加害国としての追悼と謝罪の言葉を述べるのが筋であろう。彼は「歴史教訓を深く胸に刻み・・・」と述べているが、この教訓の中にはアジア諸国にかけた多大な迷惑は入っていないのであろう。先の広島平和記念式典での演説もそうであるが、首相の心の中には日本が起こした大戦に対する他国とくにアジア諸国への反省の意識は全くないと思わざるを得ない。
一般に過去の出来事の加害者はそのことをすぐ忘れるが、被害者はそう簡単には忘れないのである。前世紀まで政治の中枢にあった人たちは戦争経験者であったから、アジア諸国に与えた多大な被害に対する反省意識はあり、多少なりとも抑制に効いた接し方をしてきた。しかし今政治の中枢を担う者たちは全て戦後生まれで加害者意識は低い。これが問題をこじらせる深い原因であると思う。自衛隊に対するレーダー照射や徴用工問題についての韓国側の対応はいかがなものかとも思われる。起こった問題に対してまともに対応せず論点をすり替えてその問題をうやむやにしてしまう。一つひとつ問題そのものを解決する姿勢が望まれる。例えばレーザー照射問題→徴用工問題→東北原発事故後処理問題という論点のすり替えはそのよい例であろう。日本政府はその点をしっかり踏まえ問題のすり替えを排除するとともに、一つひとつの問題に対して謙虚にしかし理詰めに対応して行くことが必要であろう。

理想主義を否定するな            20198月  永野
現代の政治や社会のあり方の不備を批判し、理想的なあり方を説く論説などを見かけることがある。これに対し物知り顔の識者たちは、それは現実を知らない能天気で青臭い理想論であるという批判をすることが多い。しかし理想論を語る人たちは決して現実を知らないわけではない。むしろ良く知っていて、長期的視点に立てばこれでは人類社会はいずれ滅びるという危惧から、あえて理想論を語るのであろう。それを批判する人たちは目先の状況改善や利害にしか考えが及んでいないから、批判的になるのであると思う。理想を語る人たちはそれがすぐに実現されるなどとは決して思っていない。人間社会が長期的な視点に立っての向うべき方向性を論じているのである。それに対し批判者は現実の諸問題を個別に一時的にうまく処理する事しか言わない。これでは本質的な問題解決にはならない。これは例えれば病気の治療に対症療法しか施さないことに相当する。登山で言えば高い山頂を目指すのに、周辺の小高い山をいくら上っても目指す高い山の頂上には到達しない、ということに対応する。
加計問題で政府を強く批判した前川喜平氏(元文部科学事務次官)はつぎのようなことを言っている。教育基本法(2006年の改訂以前のもの)や国連ユネスコ憲章の前文には、世界の平和と人類の福祉の実現は根本において教育の力にまつべきものである、すなわち教育による人類の知的及び精神的連帯によってこそ世界平和が実現されるのである、と書かれている。現実主義の政治家や学者は、現実はそんなに甘いものではなく、軍備拡張による抑止力強化でしか平和は維持できない、というであろう。しかしこれでは真の平和は得られない。理想を持ちそれを追求することをしない人類には進歩はない、と(註)。
 その通りであると思う。人間は過ちを犯す動物である。戦争はいつでも偶発的に起こる可能性を持つ。とくに現代では独裁的な傾向を持つ国家元首が多いので危険性は少なくない。この危険を避けるためにはやはり教育による人類の連帯と共生意識の醸成しかないと考えられる。
現実の社会においてこれは難題である。多くの人々は高邁な理想を理解する余裕もなく現実主義に流されることはやむを得ないことであろう。それを解決する唯一の手段は新自由主義からの脱却である。80年代のレーガン、サッチャー、(中曽根)が世界に広めた新自由主義は世界に三だけ主義(今だけ、金だけ、自分だけ)に代表される自己中心主義を助長し、世界の格差を拡大した。このような考え方がやがては自身の破滅を招くものであることを長い時間をかけた教育により世界に広く知らしめることが唯一の解決策である。この実現にはきわめて長い時間と地道な努力が要求されるが、短期的な視点を捨ててひたすらこの方向で努力するべきであろう。格差の上位に位置する人たちがこの理を悟り、自己の欲望を程々ほどに収め、利益を分かち合うことの必要性を認識することが必須である。あくなき利益の追及は人々を滅ぼし、結果として自らも滅亡の道をたどるということをしっかりと自覚し、共生の重要さを悟ってほしいものである。
(註)東京新聞81123面、本音のコラム

198月ミニトーク                   永野 俊
1)金子勝:反アベノミクスだが経済成長派の経済学者
彼の主張は以下の如くである。アメリカのGAFA4IT企業)並みの技術革新を進めて若者の仕事を増やせ。(このあたりが水野和夫や浜矩子のような低成長分配型経済論者と違う)。日本は原発推進をせず、日本で資源が豊富な再生エネで新しい仕事を増やせ。財政再建は累進課税で行え(昔は上限70%だったが今は45%)。脱税の罰金をアメリカのように高額にせよ。大企業、富裕層に甘い政策を止めよ。アベノミクスの目玉の金融緩和はねずみ講をやっているようもの。原発輸出は倫理観が欠如した大企業支援策である。
彼の主張は的を射ている部分もあるが、個人的には水野や浜のような共生的な考え方に共感を覚えるが・・・(成長は無限には続かない)。
2)安倍晋三の独裁        
昨年12月に配信した‘民主主義のあり方’の稿で、あるジャーナリストが日本は一応民主主義国のように見えるが衣を一枚はがせば独裁といってもいい側面がある、と指摘したことを紹介したがそれを具体的に説明しておこう。民主主義の基本は立法・司法・行政の各機関が独立性を持ち相互にチェック機能を果たすことである。この場合互いの独立性を保つため3機関の人事には他の機関は干渉しないことが前提になっていた。戦後の民主主義政治では政治家はこれを守る矜持を持ち合わせていたようであるが、安倍政権はこの慣習を破って、形式的な任命を首相が行うことを悪用して他機関の人事にも口を挟むようになった。たとえば国会で審議される法律の憲法に照らしての妥当性は内閣法制局が判断するが、この部署のトップを憲法解釈の変更に関する自らの意見を正当化する意見を持つ人にすげ替えた。また最高裁判事も森友加計問題などが裁判になった時に有利な判決が出せるように、自分寄りの人材を登用した。日銀総裁も自らの経済方針に従って大金融緩和をおこなえる人材を登用した。また官庁の人事はその省庁からの推薦を追認するのが慣わしであったが、これにも干渉し森友加計問題が自分に不利にならないように計らえるような人材を登用したといわれる。森友学園問題で関係書類処分に関して虚偽の発言をして政府をかばった佐川宣寿理財局長(当時)を国税庁長官に昇格させた人事は典型的な例であろう。また国会では野党の質問にはまともに答えず論点のすり替え、はぐらかしなどで質問時間を消費させ、強引に多数決で決定してしまう。これは全くの独裁といえるであろう。
3)セルロースナノファイバー
ナノファイバー(極細繊維)と言えば炭素繊維が有名であるが、セルロースナノファイバーというものが最近注目されている。鉄の板の半分の重さで強度は5倍である。セルロース繊維を細くすることで繊維の絡み合いを増して強度を出すという。力を加えると軟らかくなり、放っておくと固まる性質(チクソ性)があるので利用範囲が広いと言われる。将来一兆円規模の市場になるというが、価格が問題である。今は鉄の100倍であるが日本の学者が量産方法を開発し2倍程度に価格を下げる見通しが立っているという。将来はもっと廉価になるであろう。天然素材だから廃棄処理も容易である。

分断か共生か                20198月  永野
ある大学教授が大学の授業で、今の世界は分断化が進んでいるのかそれとも共生の方向に向かっているのか、と学生に問うたところ‘共生’と答えた学生が多かったという。一方、同教授が中高年の参加者が多い市民講演会で同じ質問をしたところ‘分断’という答えが圧倒的に多かったという。これは何を意味するのであろうか。今回の参院選では若者の投票率が3040%と低かったことを考えると、彼らの日本や世界の動向への関心の薄さと現状容認傾向がうかがえる。今何とか生活できている、グローバル化の進展の恩恵も受けている、70年以上日本は戦争に巻き込まれていない、などの情報を拾い集めての判断であろう。しかしこの判断には若者が今だけ、金だけ、自分だけの3だけ主義に染まっていることを表わしているともいえる。中高年はその経験から戦後の高度成長の負の側面の顕在化や国の借金を増やしての大企業優先政策の危うさ、さらにはアメリカやイギリスをはじめとする自国中心主義の蔓延の弊害を憂えての反応であろう。
個人的には中高年の反応が的を射ていると思われるが、同教授はあまり悲観的になりすぎることはないと考えている。それは国家の枠を超えて利害を共有する都市や地域がローカルレベルで協力組織を立ち上げ、共有する身近な問題を解決しようとする動きが進展しているからであるという。このような動きは欧州において最も顕著である。EU自体が国家レベルでの協調体制であるが、それ以外にもいろいろな例がある。最も有名なものがバルト海の共同管理である。バルト海は約10か国と接している閉鎖性の高い海域で、各国の河川などから汚染物質が流入し海洋汚染が進んでいた。この環境汚染対策は各国でまちまちであったため、この問題を解決するために沿岸や川の流域に位置する都市がまとまって組織を立ち上げ、共同管理をして海の浄化を進め、漁業資源を守った。このような動きは世界に波及し、東アジア地域でもいくつかの試みがスタートしている。このように国家レベルの取り決めとは別に地域の相互理解や産業・経済の振興のために地域・都市が協力し合い、共生の道が広げられている。姉妹都市構想などもこの類に属するものであろう。この構想は都市あるいは地域同士が提携し、文化交流、市民交流などで相互理解を深め世界平和に寄与することを目的とする。大戦後に広まった活動で、国間で戦うことが多かったヨーロッパで敵対関係修復に貢献している。日本では現在世界の各地域や都市と1700弱もの姉妹都市関係が結ばれており、国家関係がぎくしゃくすることが多い中国や韓国とも多くの関係を結んでいるという。これらの交流を通じて、東アジアの国々の良好な関係の発展が実現すればよいと期待される。
国のレベルを超えたこれらの協力体制は、ちょうど経済のグローバル化が国家の枠を超えて広がっていったことと同類の現象であると考えられる。このように今後世界では国家の枠を超えた様々な活動が拡大するであろう。経済のグローバル化は我欲が前面に出て、弱肉強食的傾向になるなど種々の問題を生じてしまい、必ずしも人々に幸福をもたらしたとは言えない。しかし上記のような共生システムは欲得で動く要素が少ないので、世界の平和に貢献するであろう。そのような流れで活動が世界に浸透していくことが望まれる。

日ロ関係                  20196月  永野
第二次世界大戦が終了してから74年になるが、いまだに両国は平和条約を結んでいない。サンフランシスコ平和条約(1951年)に基づき大戦の連合国側の多くの国々との国交が回復しているが、ロシア(当時のソ連)との国交は未だに正式には回復していない。ソ連がサンフランシスコ平和条約を受け入れなかった主な理由はアメリカとの対立が顕著になっていたこと、当時大陸の中国を支配していた共産主義国としての中華人民共和国をアメリカが連合国として認めなかったこと、などがある。当時中国は共産党と国民党の内戦状態にあり、台湾には国民党政府があった。こちらが米国と近かったことが大陸の中国を認めなかった理由であろう。サンフランシスコ条約には「日本は千島列島および樺太南部とこれに近接する島々の支配権放棄」が明記されているにも拘らずイデオロギー的対立により調印が拒否されたわけである。なお、北方4島が千島列島に含まれるか否かは当然日ロで見解が異なると思われるが、4島は歴史上一度もロシア領のなったことがないので日本としてはこれらは日本固有の領土であると考えるわけである。
その後、日ソの関係は膠着状態であったが、日本は国連への加盟実現などの必要性から、1956年に鳩山一郎首相が河野一郎農相らを引き連れてソ連に赴き日ソ国交回復のための交渉を行い日ソ共同宣言を行った(当時ソ連のトップはフルシチョフ)。この宣言で日本の国連加盟は支持されたが領土問題については平和条約締結後歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す(註1)こと以外は先送りされた。以後平和条約締結は進展しなかったが、1988年に平和条約締結のための作業グループが設置された。しかしこれもソ連崩壊とその後のエリツィン大統領により棚上げにされた。
さて、ロシアが北方4島返還に後ろ向きであるのには理由がある。ソ連崩壊後東欧諸国はロシアの脅威に対する不安から、NATOに加盟を希望した。ロシアは加盟の条件として新たな加盟国に基地を置かないとの約束を取り付けたが、現在はそれらの国にも基地がある。この失敗を繰り返さないためにも北方4島の権限を持ち続けたいのである。
いまユーラシア大陸とその南部にあるインド・太平洋・アメリカ地域では大きく3つの経済圏構想がある。ロシアのユーラシア大陸構想、中国の一帯一路構想およびアメリカ・インド・ASEANを中心とする経済圏構想である。この南北に位置する大きな経済圏の中で日本が活躍するためにはユーラシア構想の東端に位置する北方4島の経済的な発展は不可欠である。従って先ずこの地域の発展の実現のために日本とロシアが力を合わせることは大きな意味がある。温暖化で北極部の海洋通行が可能になった場合、国後や択捉はヨーロッパと北米の主要ルートの中継点になる可能性が大きい。ロシアの一方的な支配にならないように注意しながらこれらの島々を発展させることには日本にとって大きな意味がある。できるならば国連などの中立機関の管理下に置くという構想もあってもよいであろう。
(註1引き渡しという言葉は元々ソ連の領土であったものを譲渡する、ということを意味する。これに対し日本はこれらは元々日本の領土であったのであるから返還という語を使用したい。  参考:石川一洋、日ロ関係地政学と領土問題北方領土打開の道、望星学塾

ゲノム編集食品が出回る!           2,0197月  永野
ゲノム編集技術(註1)を使って開発された食品が市場に出回る。しかも国への届け出は義務化されないばかりか、食品表示へのその旨の記載も義務化されない見通しであるという(註2)。多くの庶民が遺伝子を人為的に改変された食品に違和感や危機感を感じているのにもかかわらず、である。遺伝子の変異は自然界や人為的な品種改良などでもおこっているので問題ないというのが役所側の説明である。しかし自然界の突然変異や品種改良では遺伝子の改変は制約なしに起こっているのではない。突然変異による改変には淘汰というフィルター(自然環境に適合しないものは滅びるということ)が掛かり、また人為的な品種改良操作には交配の限界(交配可能なものはある程度の近親性が必要である)という規制がかかる。これらの制約はゲノム編集技術による勝手な遺伝子改変では成立しない。しかもこの技術には必ずミス(オフターゲットといわれる)が伴う危険性がありこれを排除することは現技術では不可能である。
人為的な遺伝子組み換えの弊害の具体的な例を一つあげておこう。ストレスを和らげたり、血圧を下げたりする物質(GABA)を多く含むミニトマトをゲノム編集技術を使って開発しこれを市場に開放するという。GABAは抑制性の神経伝達物質、すなわち神経系の活動を抑える物質である。確かにこの物質の多量摂取で精神安定や血圧降下は得られるであろうが、これらの症状に無関係な神経系の機能も抑制してしまうことになる。これにより脳・神経系の機能障害が起こることは十分に想定される。認知症やパーキンソン病などを促進してしまう可能性を否定できないであろう。又早く育つ肉厚の魚類なども市場に出回るそうであるが、これを食することに抵抗感を感じる人は少なくないであろう。事実その傾向は具体的な調査により裏づけられている。少なくとも商品にはゲノム編集したものであることを明記して、消費者の選択権を保障することが必要であろう。
このコラムでは、技術にはその効果とともに必ず負の側面が付きまとうことを再三指摘してきた。新しい技術を世に出す時はその負の側面を十分に検討し、それを世に知らしめておかなければならない。新技術の弊害は原子力技術をはじめ多くの技術で人類が経験してきたことである。それを十分に踏まえず、経済効果だけのために安易に新しい技術を利用することは厳に慎むべきことである。欧州諸国はこの問題を正しく理解し、人為的に遺伝子操作をした食品などの利用には慎重であるが、日本はこの問題でもアメリカ追従的で規制を緩くする方向で動く。関係者はもっと長期的な視点で物事を処してほしい。ロシアでは遺伝子操作による作物の規制を強めているという。ロシアは広大な農地を利用して有機農業を国家プロジェクトとして進めるという。遺伝子操作された農薬や病虫害に強い作物の種子の輸入を一切取りやめ、自国で遺伝子操作の無い作物を自然交配で生産する。これらの産物を国民に供給することでその健康を保護し、さらに遺伝子操作に否定的な見解を共有する欧州諸国にその作物を輸出し、農産業の活性化を図るという。日本政府も国民の健康を優先的に考えるロシアの施策は見習うべきであると思う。(註1)先月の月報又はhttp://t-nagano.ne.jp参照。(註279日朝日新聞朝刊2

197月ミニトーク                                     永野 俊
1)○○89年に起こった出来事の追加
先月の月報で‘画期的な出来事は○○89年に起こる’という拙文を書いたが、一つ重大な出来事を忘れていた。198964日に中国で起こった天安門事件である。ご存知の通り、政府の腐敗に抗議し民主化を求めた数万人の学生や市民が北京の天安門広場に集まり、激しいデモを繰り広げた。これに対し政府当局は軍隊を繰り出し、武力でこれを鎮圧した。市民に対して発砲がなされ、数千人の死者が出たともいわれる。この事件は残念ながら先に記した4つの出来事とは異なり、‘良い方向への歩み’に逆行するものである。しかしデモが起こったこと自体は良い方向へ向かうための第一歩であることは間違いない。これを武力で鎮圧し自国民を大量に殺害し、その事件があったことを封印してしまった共産党政府の行為は決して許されるべきものではない。中国の人々の多くはこの事件をあまり重大であると思わず、あれは仕方がなく起こったものであると考える風潮が広がっているという。その後の急速な経済発展で、多くの人の暮らしが豊かになったことが背景にあるという。暮らしが豊かになることは確かに必要なことではあるが、だからと言って自国民を無差別に殺害する暴挙を‘仕方がない’と認めてしまう感覚が理解できない。これと同質のものとしては扱えないが、最近民主主義国でも経済発展第一主義の人が増えているように思える。なんでも金銭を尺度としてその価値を測ることは人類の堕落の始まりであろう。
2)市場経済が民主主義を蝕む
現在、法整備がなされている民主主義国では労働法により働く者の権利と義務がきちんと規定されている。しかし今日のグローバル化された市場経済はその権利と義務を軽んじ、労働者を圧迫している。市場主義が全てを金銭を尺度として評価するので、労働力もその尺度で評価され、労働者の人間としての価値は評価の対象から外れる。民主主義は個々人の人間としての価値を保障するものであるから、市場経済の支配はこれと相容れない側面を持つことになるのである。市場経済や経済のグローバル化を全否定するつもりはないが、それらを人々の全うな生活に役立てる側面をもっと重視して事を運ぶべきであると思う。
3)社会への批判の姿勢
先日のある新聞でこんな一文(註)を読んだ。‘社会のひずみ、もしくは不全を、憂い顔で、しかも自身は安全地帯に身を置いたまま批判するというのは‘批評家’の偽善であり狡知である’と。確かにその類の論客は多い。しかしそれは偽善・狡知といった言葉で一蹴してよいものであろうか。その批判自体は当を得たものであることが多いのであるからそれを社会に向かって発信することには意味があるように思われる。この発言はおそらくアンダーライン部分が強く引っ掛かってのものであろう。確かにこのような立場にあるものが、テレビ討論などで、したり顔で社会批判をするのは白々しく感じられる側面がある。それは発言者の人間性のなせる業で、心底憂いているのか疑わしく思われるからであろう。小生のこのコラムもそのような批判を受けても致し方がないものであろうが、心底憂いていることだけは信じていただきたい (註)32日朝日新聞朝刊一面「折々のことば」

アメリカの深層                                                                  20196月  永野
同じ民主主義国家であってもその政治の動かし方はアメリカと日本では様相が異なる。もちろん大統領制と議院内閣制の違いはあるが、それ以外にも様々な違いがある。例えば日本では政党は党幹部がしっかり仕切っているがアメリカでは自からが党員であると言えばそれで認められるという。共和党がトランプに主導権を握られたのもそのシステムに起因する。アメリカでは宗教が政治に関与し、教会も決して宗教一辺倒ではなく、政治的、経済的、庶民的にふるまい、選挙にも加担する。例えば前回の大統領選挙では人口の4分の一を占める福音派(プロテスタント系の一派、註1)の8割がトランプを支持した。
アメリカは本来ヨーロッパの階級的社会への反発や宗教的な理由で新大陸に渡った人々の集まりであるから、初期には知識、財産などが平等で、階級もなく極めて民主的な国であったが、今はこれが大きく様変わりしている。アメリカンドリームの追及により次第に格差が進み、落伍者はドラッグなどに浸り、貧困と無教養が親から受け継がれますます格差が開く。アメリカは東北部と西海岸部のいわゆるエスタブリッシュメントといわれる言われる富裕層や知識階級層が住む地方と中部・南部の地域社会を重んじ、古いアメリカの文化を尊重する地方の間の意識的な分裂が大きい。前者は新自由主義的な経済発展を考えのベースに置く層で民主党支持層が多い。後者は伝統的なアメリカ文化を重んじる層で共和党支持層が多い。トランプの当選はエリート層中心に国が動くことに対する反発と、彼らとの格差への不満とアメリカ建国時の平等精神を重んじる人々の支持がその一因になっている。この層の基盤は堅いので、トランプの大統領のあるまじき数々の言動にも寛容である。従って我々はマスコミ報道などでのトランプ批判の影響を強く受けて、再選はないであろうと考えているが、実際はそれほど単純なものではなく、先行きは見通せないらしい。最近の調査でもトランプ再選を予測する人が過半数の54%を占めているという。
アメリカ人はアメリカンドリームが大好きであるが、成功が自分の努力だけで得られるものではないことはよくわかっている。彼ら勝ち組はこれを神のお導きであると考える。しかしこれでは努力をしたが報われなかった負け組を納得させることはできない。彼らの不満が自分たちに寄り添う姿勢を見せるトランプへの支持につながる。本来アメリカではより大きな権力への不信が強くある。国内では州政府の連邦制度への不信、さらには国が受け入れる国際秩序に対する不信などがある。環境問題に対する各州独自の行動、パリ協定脱退、TPP不参加、G7への非協力などの例を見ればこれは理解されよう。これはアメリカでコミュニタリアニズム(註2)が根強くあることの証しであろう。
(註1)この派は宗教の一派というよりは白人中心主義的な社会集団で、インテリ層や権威に反発する反知性主義的性格を持つ。内陸部の田舎に住む農業従事者などに多い。しかしこの中でも若者層はリベラルで柔軟な考えを持つような傾向が出てきており、共和党も福音派を頼りにして勢力を維持することは次第に難しくなるであろう。
(註2)共同体の伝統にこそ人間の生存理由があるという思想。M.サンデルもその一人
参考:森本あんり、三鷹国際交流協会、(’19/3/30)

遺伝子改変(GM)生物の問題点        20195月  永野
近年遺伝子を人為的に操作し、新しい生物を作り出す技術が進展している。この技術は遺伝子組み換えゲノム編集の二つに大別される(註1)。これらの技術は注意深く利用すれば人類の福祉に役立つものであると思われるが、その安易な利用による危険性も指摘されている。その代表的危険性は遺伝子操作による除草剤耐性作物の利用における除草剤の散布が人体にもたらす悪影響と、遺伝子改変作物(含む動物)自体を食することによる健康被害の二つであろう。まず除草剤薬害の例について述べよう。アメリカの主要な農産物である大豆はモンサントという会社により遺伝子操作技術を駆使して除草剤に強い大豆が開発され、これを普及させることにより大豆の生産量を伸ばし、世界の大豆市場を席巻している。除草剤は収穫時に大量に散布されるので収穫大豆に大量に薬品が残留することによる健康被害が指摘されている。例えばフランスではこの影響により奇形児が生まれる確率が高まっている。その他、インドではGM綿花を導入したがその土地柄に合わず、農家がその不作によって大きな打撃を被り、反対運動が激化しているという問題やGM種子の使用によるその花粉や種子の飛散により有機農業の継続が困難になるという問題もある。
次にGM作物を摂取することの危険性について述べよう。その作物は農産物だけではなく、家畜、魚、医薬品など多岐にわたっている。遺伝子操作をした生き物が自然の生態系を乱す、あるいは食料などとして有害であるという批判は常にある。これに対し開発者はその遺伝子操作した生物は不妊化してあるから問題ないし、食材としての被害も出ていないというがそれも疑わしい。ロシアでの研究では、遺伝子組み換え大豆を餌にしたラットは組み換えなしの大豆を餌にしたラットの5倍の死亡率を示しているという実験結果がある。また、ノルウェーの分子生物学者トラーヴィクは遺伝子操作生物を肯定的にみていたが、生態系を乱す可能性に気づき、以来遺伝子操作生物への危険性の危惧を持ちその科学的な検証を行っている、など疑義を唱える学者も多い。
GM
技術で作られた遺伝子に特許を与えるのは問題があるという意見もある。そもそも遺伝子は自然の生命現象であるから人間が勝手に特許扱いをできるものではない、という主張である。モンサント等の大企業は遺伝子操作により新しい動植物を開発し、その遺伝子の特許で巨額の利益を得ている。遺伝子操作作物の扱いはアメリカが推進派で日本もそれに追従する傾向がある。これに対しEUは予防原則にのっとりその利用を抑制している。GM食品を否定する国はEUでは独、仏、伊の主要国をはじめとして十数ヶ国がある。
(註1)遺伝子組み換えとゲノム編集の違いを説明しておこう。遺伝子組み換えは酵素で切ったりはったりして新しいゲノム(遺伝情報の総体)を作り出す。切り貼りは基本的にはランダムに行われるので偶然に期待してよいものを作りだすという側面が強い。これに対しゲノム編集では望む場所に望む遺伝子を組み込むことができるものである。但し目的と違った組み込みミス(オフターゲットといわれる)が起こることを避けられないという重大な欠陥がある。これらの技術の自然交配との違いは、自然交配では不可能な組み合わせを実現できることである。自然交配では近親種でないと交配できない。

画期的出来事は○○89年に起こる       20195月  永野
1720世紀で世の中を変える画期的な出来事は○○89年に起こったといわれている。
先ず1689年にはイギリスで名誉革命が起こった。カトリック系大臣を重用したイングランド王ジェームス2世が追放され、娘のメアリー2世とその夫のオランダ総督ウィリアム3世が王位に即位した。これによりイングランド国教会の国教化が確定した。この革命により権利の章典が制定され、イギリス国王の権限は制約され、英国の立憲君主制の基礎が確立された。この無血革命により今日の議会政治の基礎が築かれたといわれる。
1789年は有名なフランス革命が起こった年である。これはよくご存知の方が多いと思うが一応説明をしておこう。ブルボン王朝の絶対支配を市民が蜂起して倒し、封建的な社会構造を破壊した代表的な市民革命であり、西欧近代史の起点である。凶作飢饉により社会が不穏な状態に陥り、政治改革を主張するものを政治犯として監禁していたバスティ―ユ牢獄を市民が襲って武器を手に入れ、軍事的な革命を推進した。このような状況下でオーストリア、プロイセン、イギリスなどの隣接諸国が軍事的に干渉し、最終的にはナポレオンのクーデターにより収拾された。
1889年は日本で大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法が発布された年である。これはヨーロッパの立憲君主制を範として作られたものである。国の主権者を天皇とし、統帥、外交、などの大権を天皇に与えているが、臣民の権利や司法権の独立など近代立憲制の体裁をとっている。何よりもこれまでの武士階級支配から脱却し、一応近代人権思想を受け入れて庶民の政治への参画も認められるようになっている点で日本の近代化の大きな一ステップとなっていると考えられる。(ただしこの時点では高額税を納めている25歳以上の男子のみの選挙権が与えられているもので、その割合は全人口の1%程度であった。)
最後の1989年は第二次世界大戦の終焉とともにはじまった東西冷戦が終わった年である。この年地中海のマルタ島で西側諸国の代表としてのアメリカ大統領ブッシュ(父)と東側代表のソ連ゴルバチョフ共産党書記長が対談をした。会談では特に具体的な課題についての合意は行はなかったが、東西を隔てたいわゆる‘轍のカーテン’を除く上での問題点について会談を行い解決して行くということの確認を行った。つまり武力の脅威、不信、イデオロギー的な闘争に満ちた冷戦時代を克服し、新たな平和の時代へ向かうことの確認であった。この会談の実現には共産党一党独裁の硬直した政治を民主的な方向(ペレストロイカ体制)に改良したゴルバチョフの英断と西側諸国首脳の賛同が大きな前進をもたらした。なお、冷戦終了の具体的な象徴としてのベルリンの壁崩壊も同年に起こっている。
さて、これら4つの出来事には共通した特徴がある。一部の権力者による独裁の排除と民主化の推進という流れである。人類は長い時をかけて紆余曲折を経て少しずつではあるがよい方向へと歩みを進めている。最近世界ではまた独裁者が台頭する傾向が出ているがこれも一過性の現象で、長期的にみれば民を尊重する政治的・社会的体制が主流になるものと思いたい。その流れを作っていくためには庶民一人ひとりがそれを切望し、声をあげ行動をして行くことが必須なのであろう。

グローバル化の歪み―そのアジアへの影響―     20194月  永野
産業革命以降1920世紀に世界の人口は爆発的に増加し、19世紀初めには10億であったが21世紀末には100億を超えると予想されている(註1)。しかしヨーロッパやアジアの先進国・新興国では減少する傾向にあるという。なぜ先進国と新興国では人口が減るのであろうか。最大の理由は学歴社会の浸透である。文明の急速な進展とグローバル化により若者が身につけなければいけない知識や技術が増加し、大学、大学院への進学が普及した。それにより親が負担する学費も増大する。従って親は経済的負担により子供の数を少なくしなければならなくなったのである。非婚率の増加もその理由となる。若者たちの結婚への意識が大幅に変化している。少し前までは男女とも年頃になったら結婚して家庭を持つのが当たり前であると思われていた。しかし前世紀末からこの考え方は急速に後退しつつある。日本では生涯非婚率は男性では25%にも上っている。理由は色々あろうが経済的理由が最大のものであろう。非正規で働く若者が増加しているが、これは生活の不安定化を助長し結婚への意欲を弱める。ITの普及で一人でいることの癒しに不自由しない世の中になっていることも一つの理由であろう。この傾向はアジアの先進国である日本で顕著であるが、その他のアジア諸国でもこれから同様の傾向が強まると考えられている。
グローバル化がもたらすもう一つの問題は新興国(中国、タイ・・・)の国内地域所得格差の拡大である。急速なグローバル化でこれらの国の大都市では高層ビルが林立し、外国企業の進出が著しい。市内は外国文化が浸透し、先進各国の料理を提供するレストランが増え、コンビニやスタバなどの手軽な店も数多く、バンコクや上海などでは外国にいる不自由さを感じさせないほどであるという。しかし一方でこれらの国では地方で農業に従事する人口も多く、これらの人々と都会で働く人々(多くはこれらの最先端の繁栄に適応できる若者たち)との格差が深刻な問題になっている。グローバル化により地方で農業などの一次産業に従事する人々は圧迫を受けるが、それらの人々の割合が極めて高い。しかもこれらの人々は若者と違って都会に出ての新しい職業には適応できない。彼らの生活をどう保障するかがこれらの国々にとっては大きな課題となっている。人口が多いので充分な年金制度などでは保障できない。現在は高齢者手当などで対応している。しかしせいぜい日本円で23万相当が限度なのでこれでは生活が成り立たない。急速なグロ-バル化の流れに飲み込まれたことによる弊害が顕著に表れている。
日本は早くからこのグローバル化の流れに対応してきたのでその弊害は少ないが、それでもご存知のように都会と地方の格差は開く一方で一極集中傾向は避けられない。高齢者への対応も年金制度を早めに設けた事や高度成長期の遺産で何とかなっているが、これも時間の問題であり、これから高齢者や地方の一次産業従事者の生活をいかに保証するかということは大きな問題として残る。
(註ⅰ)22世紀には減少に向かうといわれる。
参考。大泉啓一郎、「人口からみるアジアの現在・未来」、亜細亜大学アジアウォッチャー2019420

             
日米地位協定の問題点 
              20195月  永野
日本には各地に米軍基地があり、その数は130に上り、広さは1024k㎡に及ぶ。このうちの70%が沖縄に集中している。沖縄県の面積は日本の全国土の0.6%に過ぎないことを考えれば沖縄の負担がいかに大きいかがわかる。この負担の大きさは常に問題とされ、女性に対する暴行や航空機の墜落事故などが数多く起こっている。これらの問題は日本の国土で起こったものであるから、当然日本の法律に従って、原因究明や犯罪者の裁判が行われるべきである。しかし実態はそうはなっていない。日米地位協定により米軍側が強い権限を与えられ、日本がその問題の処理に介入することができていない。NATO の関係で日本と同様に基地を米軍に提供しているヨーロッパ諸国の地位協定の内容を日本のそれと比較すると日本が極めて特殊な協定を結び、自国民を圧迫している実態が明らかになる。
ヨ-ロッパの国々では協定の上にその国の国内法が位置し、協定内容が国内法に縛られている。これに対し日本では協定内容は国内法の適用外である。これは1995年の米兵による少女暴行事件での犯人引き渡し拒否や2004年のヘリ墜落事故で日本の警察、消防、行政、墜落現場の大学関係者などの関与の拒否などの例で我々がよく知るところである。イタリアではヘリの事故では米軍とイタリア当局者が共同で事故の原因などを調査し、その対策はイタリアが主導したという。ドイツでも米軍機の墜落事故などではドイツ軍が現場を支配することがNATOの協定で保障されており、事故調査などすべての権限はドイツの法律に基づいて行われ、費用は米軍が負担することになっている。軍事基地での飛行機の発着の騒音についても、欧州では発着時刻は夜間・早朝に加えて、昼寝の時間帯にも発着が禁止されこれが厳守されている。一方日本は、原則的には夜間と早朝は禁止されているが、例外規定がありこれによりなし崩しにいつでも離着陸ができるようになっており、住民への被害が大きくなっている。首都圏を含む広大な空の領域が米軍の支配下にあることもきわめて異常だと言わざるを得ない。ドイツやイタリアでは軍事基地の設置は事前に住民との話し合いによる合意が前提となっている。日本では、辺野古基地の設置などで見られるように、住民との事前の話し合いなどは軽んじられ、地元の反対が明白なのに政府とアメリカの意向で強引な基地建設が進んでいる。そもそもヨーロッパでは基地は住民の生活圏から離れた荒野に作られ、日本のような住民居住地域との近接は避けられているという。
ヨーロッパの国々では駐留軍に対する国内法の適用が当然のこととして認められている。日本ではなぜそれが可能でないのであろうか。これはひとえに日米地位協定の最初の段階でそれを盛り込むことがなかったことによる。上述の1995年の事件以来日本でも地位協定の改定が交渉されたが、一向に改善は進んでいない。政府の弱腰が招いたことであろう。東西冷戦時においては米軍の後ろ盾が確かに必要であり、それは冷戦終了後も続いているが、その状態はヨーロッパ諸国でも同じことである。なぜ日本だけが屈辱的な地位協定に甘んじていなければならないのであろうか。ヨーロッパ諸国の地位協定を調査した人々は現地で日本は本当に独立国なのか、と問われたという。参考:シンポジウム‘日米地位協定を検証する’日本弁護士連合会主催 (‘19/5/11)

平成の終わりにあたって          20195月  永野
4月末に新聞などの報道機関が一斉に平成とはどんな時代であったかを論じていた。大方の論調は日本は老いてゆく国家の姿を如実に表した時代であったということであろう。産業構造の転換に失敗し、財政も経済もその場しのぎで長期的な方向性を確立できていない。
世界の産業がIT化と再生可能エネルギー技術へと大きくシフトする流れであるのに日本は相変わらず自動車、家電、半導体などの従来からの工業製品に依存する体質から脱却できなかった。これらの工業製品は今や韓国、中国、台湾などの先進・新興国の技術向上と豊かな労働力に圧倒され、日本の優位はとうに失われているにも拘らず、である。また日本は再生エネルギーの天然資源に恵まれているにも拘らず、その利用度は極めて低い。化石燃料(石油、石炭、天然ガス)の使用は地球温暖化や将来の資源枯渇などの問題が深刻であり、原子力発電はチェルノブイリや東北大震災のように一旦事故が起こればその制御は不可能であり人間社会に多大な悪影響を及ぼす。再生可能エネルギーはこれらの危惧を取り除き、しかも原料は自然が持続的に無料で提供してくれる極めてすぐれたエネルギー源なのである。その利用技術開発は極めて将来性に富むものであるが、日本はその支援には消極的である。元々太陽光発電技術は日本で発明されたものであるが、政府がその研究開発の支援を打ち切ったために、あっという間にドイツ、スペイン、中国などに追い抜かれてしまったという経緯がある。風力、バイオマス、地熱などでも日本は豊かな資源を持つが、その利用は遅々として進んでいない。
平成の時代に入った頃は世界の激動期であり、冷戦の終結、グローバル経済の始まり、上記の産業構造の変化などが起こった時代である。日本はこの大変動の中でどう生きていくかという問題を国を挙げて真剣に考えなければならなかった。しかしこの時期日本の政治は長年続いた55年体制(自民党が政権を担い、野党がこれと対立するという構図)が崩壊し、小選挙区制度のスタートなどで混乱し、大局的な観点からの議論がおざなりになり政治が劣化した。この状態は今も続いており、自民党の復権と官邸への権力集中で、政治家や官僚は国の将来を考えることより、自己の保身に走る最悪の傾向が蔓延している。
国民はこのような国家の状態を踏まえて、思考停止をしてしまった30年間を反省し、国を変える意思と力を持って行動するべきであると作家高村薫さんは言う。これまでの常識を打ち破る者、理想を追い求める者、未知の領域に突き進む者の行く手を阻んではならない、と(註)。今年の3月に経済同友会代表幹事の小林喜光氏の‘日本ぬるま湯論’を紹介したが、高村氏も同様にぬるま湯を飛び出さないと日本の明日はないと警告しているのである。個人的にはこの中でも‘理想を追い求める’姿勢は極めて重要であると思う。現代は何事も近視眼的な視点に囚われがちである。長期的な視点に立った考え方で辛苦に耐えながら物事を進める視点を持つことが日本だけでなく世界をよい方向に導くうえで重要である。これからの日本を担う若い人はぜひ彼らの忠告に耳を傾けてほしい。
(註)高村薫、「思考停止 変える力を」、430日朝日新聞朝刊
参考:田中秀征、{政治劣化・停滞の30年}、430日東京新聞朝刊

195月ミニトーク                    永野 俊
1)辛口評論家 佐高信(さたか まこと)
この人物は肩書きは経済評論家であるが、その言動は政治・社会評論家と言った方がぴったりする。歯に衣着せぬ辛口のコメントで政治家、学者などの実名を挙げて批判することで有名である(例:竹中平蔵は経済学者ではなく利権学者だ)。最近の興味深いコメントを二つ紹介しよう。
先ず元号問題である。今の政治状況からすれば、令和の令には雨冠をつけた方がぴったりであろう、という。社会は和からは程遠い分断状態であるから零和、すなわち和がゼロである、という。また彼は元号などは不要であるという。元号が変わることを為政者が政治的に利用するし、歴史の連続性を遠ざけて、過去の出来事を踏まえて現在および未来を考えることを阻害する。元号が変わったのだから過去の政治的に問題のある出来事は水に流して未来に向かって進もうではないか、という様な具合である。しかし現在・未来は過去を十分踏まえなければ正しく思考することは出来ない。終戦後のドイツの大統領ヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目になる」はまさに名言である。なお、元号不要論の元祖は優れた政治家として評価の高いあの石橋湛山であるという。
また佐高氏によれば‘中立’という言葉の意味が正しく使われていないという。この世には常に強者と弱者の対立があるが、弱者に寄り添うことが真の中立であるという。今の日本の新聞などのジャーナリズムでは両者の立場を併記することが中立であると思われているが、これは大きな間違いであるという。強者は常に有利な立場にあるのであるから、それを対立する弱者と同等に扱ってはいけないという。もっともな考え方である。
2)森も国も同じ
 環境問題に関心のある方でならC.W.二コルという名をご存知であろう。若くして日本の山林の自然に魅せられ、日本の森林保護に尽力している人である。この人の名言を一つ紹介しよう。「国も森も本質は同じである。健全に存在するためには光が下まで当たることが必要不可欠なのである」。即ち、森が多様な動植物を育んで豊かで健全に存在するためには木々の間から地表に日光が届くことが必要である。それと同じように国が豊かで健全であるためには多くの庶民の生活が守られていることが必要である、ということである。
彼は国策で自然林が伐採され、重機を運ぶ林道が敷かれ木材が大量に運び出され、その跡地に杉が一面に植林された状況に自然破壊の典型を見た。その非を多くの人に知らせ自然林の大切さを訴えるために自ら広大な森林を買い取り豊かな自然を取り戻すために‘アファンの森’という自然林をつくった。杉一色で多様性に乏しく棲息する動植物も数少ない国有造成林とは異なり、彼の森には昔から森林に生息していた数多くの生き物が戻ってきた。その種類は造成林の数十倍にもなるという。自然林の復元は土砂崩れ、水質汚染などから国土を守ることにつながる。庶民の生活の向上も日本の人材資源の豊かさや経済の安定などにつながる。政治は目先の利益やGDPや株価などのマクロな指標に囚われずに、長期的な視野で国の繁栄の舵取りをするべきである。

人口問題、その新たな側面           20194月  永野
現在世界では爆発的な人口増加で食糧不足、資源不足など人類生存の上で種々の問題が生じている。もうすぐ地球人口は100億を超すといわれるが、これを養うには地球5個分の資源を要するといわれる。元々人口増加が問題であることは18世紀末に英国のマルサスという学者が指摘したことで「マルサスの罠」と呼ばれている。当時はこの問題は、新大陸への大量移民、肥料や殺虫技術進展による農業革命、工業化の進展による産業革命の3つの社会変化で回避された。
しかし、今また世界規模でこの罠が再現しつつある。現代では大量移民、農業改革、工業化でこの罠を回避することはきわめて困難である。移民は、現代では人の居住に適した未開発の広大な土地は少なく、それを求めることは自然破壊と直結する。途上国では人口が著しく増え、それらの国々から先進諸国へと移民が逆流しているのが現状である。農業は遺伝子組み換え技術により生産性の高い品種が開発されているが、このような品種改良は作物の多様性を狭め、病虫害や気候変動などへの耐性を弱める。農薬による自然破壊と人体への影響も危惧される。工業製品は急速に進歩し多種多様化しており、それらを使用する人の数も急速に増大している。これにより工業資源の枯渇という新たな問題が起こる。現にレアアースなどでこの問題が現実となっている。現在の世界人口問題は200年前に英国が解決したのと同じようなやり方で解決できる可能性は低いと考えざるを得ない。
一方で人口は増え続けるわけではなく22世紀には減少し始めるいという試算がある。ヨーロッパやアジアの先進国・新興国では既に減少する傾向にあるという。なぜ先進国と新興国では人口が減るのであろうか。最大の理由は学歴社会の浸透である。文明の急速な進展とグローバル化により若者が身につけなければいけない知識や技術が増加し、大学、大学院への進学が普及した。それに伴って親が負担する学費も増大する。従って親は経済的負担により子供の数を少なくしなければならなくなったのである。
非婚率の増加もその理由となる。若者たちの結婚への意識が大幅に変化している。少し前までは男女とも年頃になったら結婚して家庭を持つのが当たり前であると思われていた。しかし前世紀末からこの考え方は急速に後退しつつある。日本では生涯非婚率は男性では25%にも上っている。理由は色々あろうが経済的理由が最大のものであろう。非正規で働く若者が増加しているが、これは生活の不安定化を助長し結婚への意欲を弱める。ITの普及により一人でいることの癒しに不自由しない世の中になっていることも一つの理由であろう。この傾向は日本など先進国で顕著であるが、その他の新興国でもこれから同様の傾向が強まると考えられている。
人口が減少し地球1個分で養えるほどの値に落ち着くことは人類にとって望ましいことであるが、それがグローバル化などの社会の歪みに起因していることは問題である。人間がこの地球上で自然と共生していくことが本来あるべき姿であるということを悟って現在の経済成長一辺倒の世界から脱却する努力をした結果としての現象ならよいが、そうではないことが大いに問題である。世界はこの点をよく検討し、施策を施さなければならない。

AIと憲法の緊張関係               20193月  永野
近年AI技術が発達しその利点と問題点が顕在化して社会をにぎわしている。利点としては人間にとって便利あるいは危険や苦痛を伴う労働の代替、医療診断・治療などの支援、膨大なデータの迅速な処理とその利用などなど数多くの人間社会への貢献がある。一方で負の側面もいろいろ存在する。人間の仕事を奪って格差社会を助長する、殺人兵器の開発など戦争への悪用、さらには人間の知能を超えて人間社会を支配する可能性(このことはシンギュラリティという言葉で言われることが多い)など多くの危惧が生じている。
これらの負の側面は主に技術的な側面に着目したものであるが、それ以上に本質的に重大な問題をはらんでいる。それは人間が生きていく上での共通の価値を破壊するということである。具体的には現在多くの国が個人の価値観の尊重や平等性を憲法で保障する民主主義社会を持っており、人間のプライバシーの保護などは当然のことと考えているが、これらがAIを用いた情報処理の乱用で破壊される可能性があるということである。一言で言えばビッグデータとAIの利用(註1)によって個々人のプロファイリング(人の諸特性を明らかにすること、元々は犯罪捜査用語)を行い、それを様々な目的で使うことである。例えば、宣伝・広告の送り先、企業の採用活動、裁判所の量刑判断、学生の入試、社内の人事評価などである。これは人の持つ特性を分析してデータ化し、人々をグループ分けすることを可能にする。これは人に対する偏見を誘発し、極端なことを言えば階級社会の形成を助長するものであり、前近代的身分制度への逆行ともいえる。中国などではプロファイリングデータの数値化を行い、その値で個々人の価値を評価することが実際に行われているという。 以前人間の評価尺度としてEQ (emotional quotient )というものがあり、これはIQと違って数値化はできないが、このEQが高いと考えられる人は社会でよい仕事をする傾向があることを述べた(註2)。このように人の価値は数値化できるものではなくプロファイリングによる一元的な評価には問題が多い。とくにその数値により偏見が生じやすいことが問題である。姜尚中が在日コリアンというプロファイルを通してではなく一人の人間として偏見なく見てほしい、と言っていたがまさに正論であると思う。
AI
の利用は個々人への過度な干渉を進め、本来人間がもつ直観的判断力を使わず自動的に機械に判断させることを助長する。政治的には管理社会、全体主義社会を促進し、経済的には人のプライバシー情報を利用した経営手法を進展させる。これらは民主主義の理念と対立することが多い。AI社会と民主主義社会は常に緊張関係を持つのである。
AI
のこのような弊害を除くために、EUではGDPRという制度を導入して重要な決定は人が関与することを重んじ、イギリスではIT課税が導入される。この点は日本でも検討が進んでおり、AIの利用が憲法および国際的な規範の保証する基本的人権を侵すものであってはならない(人間中心の原則)という方向性が出されている。
(註1)これらのデータとAIツールはGAFAなどの巨大IT企業により提供される。
(註2)永野、本コラム201411月、EQ―こころの知能指数―                       
参考:山本龍彦、「人工知能は本当に私たちを幸せのするのか」、日比谷カレッジ(‘19/3/25)

20194月ミニトーク                   永野 俊
1)尾畠春夫さん
 この名前をご存じない方はほとんどいないと思う。昨年夏に自宅への帰り道で迷子になった2歳の子供を山中で発見し救助したボランティア活動家である。彼の、賛辞も謝辞も謝礼も求めず、ひたすら人のため社会のために奉仕する姿勢には学ぶところが多い。その顔は本当に美しい。その顔は悟りを開いたありがたい仏像のそれでもなく、ましてやいわゆる美形の顔でもない。何とも安らかで心温まる顔をしている。何の我欲も邪気もない澄んだ目つきがうらやましくさえ思える。彼は色々な名言を残しているが、その中でも「かけた情けは水に流せ、うけた恩は石に刻め」は至言である。昨今世界中で我欲をむき出しにして我が物顔で振る舞う人々が氾濫している。少しはこの名言を心に留め置いてほしいものである。このこころを持ち続けてこそ人類はこの地球上で生きて行けるのである。
一般にボランティア活動をしていると自分の活動のスケールの小ささに悩むことがよくあるという。しかし1人の人ができることには限りがある。神ではないからそれでよい。また遠くの人より近くの人々のために奉仕活動をする。これも人間社会はそういう形で成立しているのであるからそれでよい。どんなにささやかのことでもよい。人の助けになることはするべきだ。その小ささに引け目を感じることはない。その心が広く伝わってゆけば世の中は良い方向に向かうであろう。
2)意見のきき方で結果は大きく違う
アンケートなどで設問の仕方一つで結果が大きく違うことはよく知られる。ここではその極端な場合として死亡時の臓器提供を例として挙げよう。臓器提供の選択がオプトイン方式でなされるのか、オプトアウト方式でなされるのかで提供の度合いが著しく変化する。オプトインは提供をしたい場合にその意思表示をする方式であり、オプトアウトは提供したくない場合に意思表示をするものである。つまり意思表明がない限り前者ではでは提供拒否と解釈され、後者では提供に賛同すると解釈される。オプトイン方式を採用しているのはアメリカ、イギリス、ドイツ、日本などで、提供は低く十数%である。一方オプトアウト方式を採用しているのはフランス、スペイン、北欧諸国などで提供率は90数%である。どちらを採用するべきかは難しい問題であるが、設問の仕方で状況が全く異なってしまうということは頭に入れておいた方がよいと思われる。
3)別稿「日本ぬるま湯論」の補遺
 今月の稿「日本ぬるま湯論」で経済同友会代表幹事の小林喜光氏の持論に対して経済成長一辺倒という批判をしたが、少々訂正をしたい。彼の技術革新による日本の経済復興論の中身は理療技術、再エネ、環境保全などに力を入れることを重視するものであった(註)。これなら技術的な革新は人間と自然の共生に資するものと考えられるので、この方向での技術革新には賛同する。一つ注文を付けるとすれば新しい技術にはメリットとともに必ず負の側面がついてくるものである。この点をしっかり踏まえた技術開発をしてほしいものである。 
  (註)
32022BS141深層ニュース

政治への民意の反映―他国と日本の違い―       20192月  永野
民主主義国家では市民が政治に対して直接意見を伝える主な手段は選挙とデモであろう。日本では臣民型民主主義と揶揄されるように、このような手段で意見を表現する行動があまり活発ではない。選挙の投票率は国政でも50%をわずかに超える程度で、地方選挙ではこれを下回ることが多い。デモもあまり活発とは言えない(註1)。最近では原発反対や安保法制改訂で大きなデモがあったが、持続性にも迫力にも欠けていた。一方、政府側の対応も冷ややかであまり真剣には受け止めない。民主党政権時代官邸にいた野田首相(当時)が‘外が騒がしいようですね’と他人事のように言った話は有名である。日本では議員が市民に顔を向けるのは選挙の時だけで、あとは街で市民と対話をすることはあまりない。
これは日本だけの現象のようで、他の先進国では政府や国会議員と市民の間の距離はもっと近い。デモで政府の対応が変わったり、政権が変わったりすることもよくある。たとえば最近フランスで起こった燃料税の値上げ反対運動(イエローベスト運動)は執拗なデモの継続により大統領に市民の主張を認めさせこの案を取り下げさせた。またお隣の韓国では市民の大規模デモにより李承晩政権と朴槿恵政権が崩壊している。米国でも市民が政府の施策に不満の意を表すデモはよく行われている。アフリカ系の人々の市民権獲得は一人の勇敢な女性の行動(註2)から始まり大きな運動となってケネディ大統領を差別廃止に動かしたことはよく知られる。ドイツの原発廃止もチェルノブイリ事故を踏まえての市民運動が起点であるという。最終的には原発廃止の是非を決める倫理委員会(註3)の決議を踏まえてメルケル首相が廃止を決めたのであるが、ベースに市民の意思が反映されていたことは確かである。
なぜ日本では市民による強固な意志表現が起こらないのであろうか。一つにはお上の意向に逆らうことを好まない国民性があるのであろうが、国民全体がぬるま湯状態で、どうせ政治は変わらない、生活できているから現状維持でいい、という様な社会的危機感と政治への関心の欠如に起因しているのであろう。日本ではある程度の社会的地位をえた人が雑談で‘政治の話はしない’という意味のことを言うことがよくある。政治的な見解で意見が対立すると人間関係がこじれるから、特に会社内ではそのような話題は持ち出さない方がよいということであろうが、これがぬるま湯状態を作り出す一つの因であろう。諸外国では人と語り合う席では政治の話をよくするという。一人ひとりが自分たちの社会のこと、国のこと、ひいては世界のことをよく考えそれを政治に反映させることを真剣に考えているからであろう。日本人もこの姿勢は見習う必要があると思う。
(註160年代の安保闘争は、学生セクト間の争いで国民にネガティブな印象を与えた。
(註2米国で人種差別が公然と行われていた時代では、バスの乗車席は白人と黒人で区別され、しかも白人の席が満杯の場合は黒人は白人に席を譲ることが義務でけられていた。1955ローザ・パークスというアフリカ系女性が白人乗客に席を譲ることを拒否し、それがきっかけとなって反人種差別の大規模な運動が起こった。
(註3)日本と違って様々な意見を持つ識者と多くの野党議員で構成されていた。

日本ぬるま湯論                20192月  永野
経済界のある大物が日本の経済・社会の状態に対し厳しい批判を浴びせ、日本人はぬるま湯につかっていて温度上昇とともにゆでガエルになるであろうと言っている(註)。彼の見解の概略は次のとおりである。いま日本は二度目の敗北に直面している。30年前世界の企業のトップ10には多くの日本企業が入っていたが、現在ではGAFAIT大手4社)などの米中企業が上位を独占している。物作り産業が衰退し、IT産業、再生エネルギー産業などが大きく進出している時代の変化に日本は完全に乗り遅れている。既存の産業構造に依存し、まさにぬるま湯につかりきっていた。半導体、太陽光発電、蓄電技術など日本が先陣を切っていた技術も中、韓、台に完全に追い越されている。アベノミクスは財政出動・金融緩和により産業振興を図ったが、肝心の生長戦略を具体的に主導しないから独創的な技術や産業を生み出せず経済が上向かない。失業率、株価、GDPなどの数値改善ではなく、産業の中身を改善する必要がある。これは政府の責任であるが、産業界、学問界、ひいては国民全体の責任でもあるのに、国民の約80%がこの状態に満足している。まさにゆでガエル状態に向かっている。特に若年層でこの傾向が強いことが問題である。若者が世界に出て学ばない現状満足傾向がこのことを如実に表している。現政府はGDPを増やそうとして逆に国の負債を増やしてしまった。それなのに5Gや量子コンピュータなどこれからのトップ技術の開発研究費は欧米や中国より少ない。これでは国の技術的発展は望み薄であろう。国の規模の問題ではないことは北欧の国々などの技術進展の素晴らしさを見ればわかる。国の未来図に思いをはせることなく、3だけ(今だけ、金だけ、自分だけ)主義に陥っていることが日本の衰退を招く。この状況を改善するには財界人だけで固まらず、学会、知識人、若い論客を含めた幅広い知的NPOが活動し、政治に強く注文する必要がある。
日本だけでなく世界も自己中心主義が蔓延している。民主主義の原点を踏まえず自己の利益の追求に走る国民が問題なのである。これには国民の‘老い’が底辺にある。勉強しない、考えない、などの老いである。文明は老いるものであり、ローマ帝国や大英帝国然り、日本の戦後の繁栄もそうである。この状態だと日本は米国の属州あるいは中国の一都市的立場になる。5GAIもサイバーセキュリティも技術をこれらの国から入手しなければ経済・社会が立ち行かない。この危機意識を国全体が共有して打開することが必要であるが現状では全く先が見えない。日本古来の‘和をもって貴しとなす’的な共生思想をベースに、閉じこもるのではなく世界と交流し刺激を注入して前に進む事が必要である。さて、この意見は確かに的を射ていると思うが、そのベースに経済成長至上主義があることに違和感を覚える。現世界の流れを踏襲するのであれば確かにこれは正論であるが、このまま経済成長を続けることができるとも人類にとって良策であるとも思えない。物事には必ず終わりがある。多大な世界的艱難辛苦を伴うが、どこかでその方向を大きく転換させることが人類にとって必要であると個人的には思っている。こ点についてはこのコラムで何度も指摘し、最近も今年2月号の稿でそのことを書いた。ご参照いただきたい。
(註)小林喜光(経済同友会代表幹事)、‘敗北日本生き残れるか’1月30日朝日新聞

中道政治退潮と左派ポピュリズム           20193月  永野
欧米諸国での中道政治勢力が退潮著しい。中道右派の保守政党と中道左派の社会民主主義政党が交互にあるいは連合して新自由主義的な政策をとりグローバル化を推進してきたが、この政策で経済は発展するが貧富の差も増して格差を広げた。この格差拡大が退潮の原因であり、ポピュリズムを助長することとなった。具体例を挙げれば、アメリカのトランプ大統領出現、イギリス労働党で左派傾向の強いコービンの党首就任、ドイツのメルケルの党首辞任、フランスのマクロンの挫折、イタリアの反EU政権の出現などである。
これら中道勢力の退潮に代わって勢力を伸ばしているのが右翼ポピュリズムである。この勢力はヨーロッパのほとんどの主要国で目覚ましく進展している。移民・難民排斥の排外主義、EU否定、自国第一主義を主張している。イスラム批判など西欧的なリベラルな価値観に合わない主張も展開し、これが右翼ポピュリズム支持基盤を拡大しているという側面もある。この右翼ポピュリズムの進展の合わせ鏡のように左派ポピュリズムの台頭が起こっていることを我々は忘れてはいけない。反グローバル化や反エリートを旨とし、移民受け入れ、多様性のある社会を目指す点で右翼ポピュリズムとの対立軸を鮮明に打ち出している。左派ポピュリズムの具体例としては米国民主党でのサンダース、イギリス労働党のコービンの躍進がありドイツやフランスでも同様の現象が起っている。
この大きな政治的変動を生んだ主要な原因はグローバル化、金融化、情報化による社会構造の一大変化である。これらにより巨大資本による富の寡占化(GAFAなど)に起因する中間層の縮小と格差の拡大が起き、今まで多数派を形成していた中間層が低所得層に落ち込んでしまったのである。これにより社会にごく一部の富める者とその他の貧しい層との分断が起こった。中間層の縮小はグローバル化による生産拠点の海外移転により引き起こされた中間層労働者の置き去りという事態に政府が適切な対応を怠ったことに起因する。民主主義の屋台骨であった中間層の衰退は民主主義社会を崩壊させる危機を生じているのである。この問題を解消するには格差解消のためのGAFAなど独占的地位を許さない独禁法、ディジタル課税、金融取引課税などの強化が必要である。
これらの問題の解決を極端なポピュリズム政党に委ねることには危惧を持つ人も多いであろう。しかし今欧米を中心に勢力を進展させている左派ポピュリズムは、一昔前のイデオロギー的で中央集権的な左翼思想とは明確に違うものである。富と権力の独占を許す現在の資本主義体制に対する反発がその主たる主張点である。一言で言えば脱中心性と多様性の重視であり、公共性の強いもの、たとえばエネルギー、鉄道、水道などの協同組合的な所有や福祉の充実などである。このような新しい左翼思想のベースは政治哲学者シャルタン・ムフによって与えられた。平等への志向をベースに立憲主義的な自由民主主義の枠組みの中で新しい政治秩序による統治体制を作り上げる、という考え方である。この考えが右翼ポピュリズムとの明確な対立軸となっている。ムフの描いた道筋通り、左派ポピュリズムが健全な発展を遂げ、格差少なく庶民に手厚い政治が実現されることを願う。
参考:①白川真澄、座標塾第15期第1回講義;②東京新聞319日朝刊2425

20193月ミニトーク                    永野 俊
1)統計データ不正問題
最近の官僚や政治家の質の低下は目に余るものがある。数年前からから森友・加計問題をはじめとして、不祥事が絶えない。最近も厚生労働省の統計処理に大きな間違いが発覚し、批判を浴びている。これには2つ例がある。一つは20186月の現金給与総額が前年比3.3%増であるというデータである。これは統計データを出すためのサンプルは500人以上の従業員を持つ会社を全て入れるということになっているが実際はその3分の1を勝手に選んでデータを出したという。これでは意図的に給与の高い会社を多く入れて計算した可能性を疑われる。もう一つは今年1月に発覚したもので、給与の高い企業を多く排除して勤労世帯の平均給与を低く算出し、それを基に雇用保険や労災保険の給付額を算出していたことである。前者は景気の高揚をアピールしアベノミクスの成功を主張するのに都合の良いデータとなっており、後者は給付額が少なくなることにより経費節減を主張する材料になっている。前者は官邸への忖度、後者は厚労省業績のアピールのために意図的に行われた可能性を疑われる。これまでお役所にミスは数多く暴かれているがいずれも政府や官庁に都合の良いようなミスであり、弱者に利するようなミスは聞いたことがない。今回も意図的なミスといわれても仕方がないであろう。事実、首相秘書官が調査対象について‘問題意識’を厚生労働省に伝え、調査方法を変更しないという有識者検討会の結論に対し、引き続きや政治家検討するという案を提示しその後委員会の開催を打ち切っていた。
2)ナショナリズムと愛国主義の違い              
最近各国で自国中心を謳う政党が台頭し、これをナショナリズムの台頭という言葉で表現している。ナショナリズムに似た言葉に愛国主義という言葉があり混同して使われることもある。しかしナショナリズムという言葉には政治的ニュアンスがあり、他国を否定するニュアンスがある。それに対し愛国主義は正しい意味での保守思想であり、自国が培ってきた文化、伝統への愛をいい、政治的で排他的なニュアンスはない。愛国主義を大切にし、それぞれの国の伝統を尊重しあって共生の道を模索したいものだ。
3)戦争責任の負い方
戦争などで他国に被害を与えた場合の責任は後世まで引きずられるのか。戦後生まれの日本の人々の中には生まれる前に日本が起こした戦争について外国からとやかく言われることに不満を持つ人がおおい。この問題について日本の戦後民主主義のリーダー的な存在であった丸山真男はつぎのような考えを述べている。この問題は2つの側面から責任ということを考える必要がある。一つは道義的責任で、これはその戦争が起きたとき加害国の国民であったかどうかということが問題で、そうでなかったならば道義的責任はない。大戦後に生まれた国民には大戦に対する道義的責任はないということである。一方政治的責任というものが考えられる。戦後に国民となったものでもその国家の歴史に無関係に存在はできない。その国家の文化、伝統をベースにし、それに依存して生きる側面があるのであるから、政治的責任は後世に人々にも存在する。

がんゲノム医療                20191月  永野
最近のがん医療の進歩は目覚ましいものがあるが、遺伝子を調べその変異からがんのタイプを特定し、それに合った治療を施すゲノム医療はその代表的なものの一つであろう。ゲノムとは細胞内の核にあるヒトの身体の設計図1セットをいい、20,00025,000個の遺伝子と呼ばれるユニットからなっている。その内容は遺伝情報のすべてである。
がんはゲノムの異常―ゲノムの一部の正常でない変異―で起こる。この異常は一般に遺伝要因で起こるものと環境要因で起こるものがあるが、多くの場合生後の環境要因で起こる。環境要因としては食生活と喫煙が共に30%ずつで最も大きく、運動不足やウィルスなどが5%前後、飲酒は量と飲み方にもよるが3%前後である。この異常は多くの場合修正されるが修復されなかった異常が数個重なるとがんを発症するという。がんの因子が卵子や精子の中ですでに存在する場合にはそのがんは遺伝する。乳がんや卵巣がんは遺伝要因で数10%の高い確率で発症するが、大腸がん、肺がん、肝がんなどは環境要因で発症することが多い。遺伝要因の検知はがんの早期発見や予防的臓器切除などを可能にする。アンジェリーナ・ジョリーの乳房切除はその一例である。
がんは個性豊かでがんの種類によって特性が異なり、同じ種類のがんの塊の中でも異なる性質を持つがん細胞が複数ある。がんは多種多様なものなのである。従って患者個々人のがんの特性を明らかにすることが重要で、ゲノム(遺伝子の総体)を調べることによりこれが可能となる。例えばそのがんに効きやすい薬、その副作用の可能性、がんの進行速度・転移可能性(ドライバー遺伝子の有無)などを知ることができる。その結果を用いて個々人に合った治療(個別化医療)が可能になり、より有効な治療ができるようになる。
ゲノム解析によるがんの詳細な診断は病理組織からなされることが多いが、膵臓がんなどは病理組織の採取が困難であることが多い。この場合には血液サンプルからの検査から得られる情報が有効に使えることもある。また、がん組織の遺伝子だけでなくヒトの正常な遺伝子を調べることも薬と患者の相性などを知ることに役立つ。
 ゲノム医療にはそれを支える技術の進歩が欠かせない。ゲノム解読技術(シークエンサー)は今世紀初頭では27億ドルという膨大な費用がかかったが、現在では1000ドル以下でゲノムの解読ができる。解読時間も当初は約10年であったが今では12日で行える。そのデータから異常遺伝子の有無など様々な情報を得る技術はワトソン(IBM 開発)などの人工知能が有用で、これを使えば容易に必要な情報が得られるという。解析技術の進歩で個別化治療の進展とともに治療のメニューが増え、副作用の回避も進んできた。
最後に、遺伝子検査にはビジネス的なものと医療のためのものがあることを述べておこう。ビジネス的なものは個人がそのビジネスを行っている会社に直接唾液などを提供して、病気になるリスク、肥満などの因子とそれに対する対応、性格診断など日常生活に関する情報とそれらに対するアドバイスを受けるものである。誇大広告や科学的根拠の有無などに注意を払う必要がある。医師の指示で医療機関が行うものは本稿で説明したように病気の診断と治療に使われるものである。この区別をしっかり認識しておくことが必要である。

国家間対立と和解への道筋                                            20192月  永野
近年のナショナリズムの台頭は各地で軋轢を生じている。米国の自国中心政策、イギリスのEU離脱問題、EU内での移民問題、東アジアの日韓不和問題、中国・北朝鮮問題など大小さまざまな衝突が起こっている。これらは主に当面の経済・社会の問題によるが、北東アジアのように過去の経緯を引きずった問題もある。とくに北東アジアでは19世紀終末から20世紀前半において加害者と被害者がはっきり分かれた関係が続いたので、この遺恨が真の和解を困難なものにしている。和解には相互の信頼関係が築かれることが重要であるが、加害と被害が一方的である場合はこの信頼の構築が困難である。単なる謝罪の言葉や賠償を支払うだけでは真の信頼は得にくく、特に北東アジアの和解問題についてはこのことがいえる。西洋の場合は長い敵対の中で相互に被害を被った過去があるから和解が成立しやすいが、北東アジアの場合は加害者と被害者が歴然としており、お互いに謙虚さが欠けている側面がある。加害国は国のトップのやや形式的な謝罪、賠償の支払いなどの交渉による合意の成立で問題が解決したという意識があり、心からの謝罪の気持ちに欠けるところがある。被害は元に戻すことは出来ないのであるから、相手に許しのこころを持ってもらうことでしか真の和解は出来ない。このことを心の奥に刻み謙虚で真摯な姿勢を取ることが必要である。また被害者の側は自分たちに非はなく絶対的に正しいという意識がある。確かにその通りである。しかし自分たちも同じ人間であるから、立場が異なれば自分たちも同様な加害者になった可能性を否定できない、という謙虚な姿勢で対応する必要があろう。これは加害者側から言えることではないが、その心がないと問題は根本的には解決されない。要は両国民の共生関係を築くことがこの地球上で共に生きて行くための唯一の策であるということをしっかり認識することである。なお、この北東アジアの問題では被害者がその立場を利用して自国に有利な国際的振る舞いをするということも垣間見られる。これも真の和解の成立にはマイナス要素として働く。ヨーロッパでも世界大戦の後のドイツとポーランドのように加害者と被害者が一方的であった場合があるが、この例ではドイツの大統領の謝罪の言葉とポーランドの被害者の墓碑に跪き、心からの謝罪をしたことで真の和解が成立した。ドイツの加害は多くの近隣諸国に及んだが、それらの国々との和解を真摯に進め、それを成立させた。ドイツがナチスの暴挙を真摯に反省し、ナチスの行為に加担したものを執拗に追及し断罪したことでその反省の深さが理解されたものと思われる。また、和解が成立した背景には被害を受けたヨーロッパの国々がキリスト教国であったことが幸いしているという。キリスト教では罪に対する許しのこころが説かれている。許しは正義に反するが共存を可能にする。完全な償いをすることは不可能(たとえば殺された人を生き返らせることは出来ない)で、正義を振りかざすだけでは永遠に和解はできない。だから被害者の許しのこころは必要であり、それでないと真の平和は訪れないのである。
参考:‘ナショナリズムと和解’IAMSCUリサーチ大学シンポジウム、青山学院大学本多記念国際会議場、(‘19/1/12)

‘192月ミニトーク              20192月  永野 俊
1)人々が幸福感を感じるには
現代のグローバルな経済成長競争の中ではそれに適合するという意味での有能なトップ10%が重用され、そのタイプを育てる人材育成に力がそそがれる。しかし、大事なことは残りの90%の普通の人が普通に生きられることである。過剰なまでの英才教育指向は中間層の没落を招き、格差を助長し社会を歪ませる。結果として多くの人々に苦痛を与えてしまい、人々に幸福感をもたらさない。これは社会の正常なあり方を阻害する。
ところで、幸福感は多様な要素からなる。とくに国間、地域間でその差は大きい。例えばアメリカは個人の欲望が満たされる度合いであるのに対し、日本ではバランス指向で他との関係性の良さが幸福度につながる。即ち自分とまわりの人のつながりの良さが幸福感につながる。日本で格差が小さいのはその考えがベースにあるからである。最近はこの傾向が薄れてアメリカ的になっているが、基本的には共生的価値観がベースであろう。この例のように幸福感は国、地域によって大きく異なるから、過度のグローバル化でこの差異の重要性が尊重されなくなることは、人類の共存にとってマイナスになる。他の国々との交流は歓迎するべきことであるが、国、地域での価値観の違いを尊重して交流をすることが人々の共存にとって重要なファクターであろう。
25Gってなに?
最近5Gという言葉をよく聞く。これは次世代高速移動通信技術のことで、現行(4G)の数十倍~百倍の通信速度を持ち、遅れ時間もわずか1ms1000分の1秒)であるという。これにより機械の遠隔操作もスムーズにでき、過疎地での診療や手術、救急車内での応急措置などの遠隔の医療が可能になる。乗り物の遠隔操作なども可能になり種々の自動運転機能の向上につながる。現在は中国のファーウェイ、スウェーデンのエリクソン、フィンランドのノキアなどが大きなシェアを有しており、日本はNECと富士通合わせてわずか2.3%であり韓国サムスンの3.2%にも届かない。日本の先端技術開発に翳りが見えている。朝日新聞19日朝刊8面より。
3)こころは進化するか
ダーウィンの進化論でよく知られるごとく、生き物はその環境に適応して生存できるようにその身体の形、働き、食性を変えて行く。この進化機能が人間のこころにも備わっているということが基礎心理学の分野で議論されている。人間が身を置く社会的環境が変化すればそれに適応するようにその心、考え方も変化して行くというものである。確かに昔はマルクス主義など社会主義的な思想がかなりの勢力を持った時期もあったが、現在の世界は自由主義、資本主義が行き渡り、多くの人々がそれらを是とするように変化している。はたして身体的な進化と同じように、脳内の神経機構もこの考え方に適応するように変化し、遺伝的に伝わるものなのであろうか。これを学問的に解明することは難しいと思われるが、社会環境は時代とともに変わってゆき、その速さは脳内に構造的変化をもたらすには早すぎると思われる。脳内の変化はあるだろうがそれは柔軟で適応的な変化であろう。

経済成長で人類は幸せになれるか        20191月  永野
我々人類はこの地球上に誕生して以来、より便利に、より物質的に豊かになることに知恵を使い発展してきた。産業革命以来その傾向は強まり、前世紀末に冷戦が崩壊し、資本主義経済が世界を支配するようになってからはその発展に拍車がかかり、経済的な成長が人類が追い求めるべき唯一の価値観であると思い込むようになった。しかし現在先進国では一様に経済成長は飽和状態に向かいつつあるというのが現状であろう。それはある意味では当然のことである。この地球の資源は有限であるし、人々の物的な欲望も豊かさの上昇とともに減退するのである。これは収入がある程度に達すると多くの人々はそれ以上の収入を強くは望まなくなるという調査結果で立証されている。人々は生活の質の向上を求めるようになり、清浄な空気や美しい自然などの心のなごむ環境が重んじられ、家族・友人などとの交流、仕事の内容的満足を求めるようになったのである。経済発展が自然と人類の共存を困難にするという問題もある。市場競争、経済成長は公害、自然破壊などの環境問題を引き起こし、人に過度のストレスを与え、生活の質を低下させる。このようなマイナスの経済価値を外部不経済という。GDPのような経済発展指標の中に外部不経済はマイナス面としてカウントされないのである。また、人々の良質な生活には公共財の充実が必要である。しかし経済成長は私的財は充実させるが公共財への投資は市場価値としてカウントされないので、結果として公共財が弱められ人々の生活の質が低下する。
1970年代半ばにこのような経済成長を目指した工業社会(大量生産、大量消費)を反省し方向転換をするべきであるという意見が学者や政治家などから出てきた。しかし80年代に入り、新自由主義がレーガン、サッチャーらによって推進されるとこの70年代の方向性は、徹底した市場競争政策によって押しつぶされた。そしてこれがグローバル経済、金融経済の肥大化を生み、その後のIT革命へと繋がり利益追求の過激な競争を招いた。資本主義の先進国内での行き詰まりにより生じた余剰資本は本来公共財の充実に充てるべきであったが、これは途上国などへの投資による更なる利益追求に向けられてしまった。
人の生の基本的な要件である生命、自然、世界、精神の尊重は定量的には計測できない。経済成長は金銭的尺度で量的に測れるものしか見ないから当然これらの要件に対する配慮はなされない。経済成長を牽引する人はごく一部の人間であり、大多数の‘普通の人’はそれに引っ張られているだけである。それらの多くの人々はこの4要件を大切にするが、成長の牽引者はこの要件に全く配慮しないことが問題なのである。成長主義を信奉することは人間にとって重要な要件を無視することになるのである。
今の世界経済の最大の問題点は、経済的な豊かさやその成長が大多数の人々の幸福感には繋がらないということである。経済的な発展のために日々長時間労働を強いられる現状では多くの人々は幸福にはならない。しかし成長主義を金科玉条として経済活動をする今の世界の傾向を変えることは極めて難しい。今の世界の首脳たちが人類の未来を考えて方向転換することができるとはとても思えない・・・。暗澹たる思いである。
参考:佐伯啓思、「経済成長主義への決別」、新潮選書

理想を語ろう               20191月  永野
EUは欧州で二度と戦争が起きないように民主主義と自由を原則に国家間の垣を取り払ってできたものである。その理念は気高く、これが他の地域、国々に広がり世界平和をもたらすきっかけになるのではと期待された。しかし、いまその理念は世界に広まることはなく、EU自体がその牽引者であったメルケルの退陣やブレグジット問題などでうまく機能せず、崩壊の恐れすらある。歴史学者E.H.カーが指摘するように、理想主義は常に現実主義に圧倒されてきた。それが現実である。では、理想主義的な理念をかかげることには意味がないのであろうか。否、現実の追認だけでは何の進歩も得られない。理想主義は現実主義に押さえこまれながらも、現実の不合理をいろいろな手段で紆余曲折を経ながら改めてきた。それにより我々は少しずつよりましな世界を得てきたのである。理想が現実に押し流されるからといって、理想を語ることをあきらめるというような短絡的な考え方では人類は早晩滅亡するであろう。国の大小に関係なく多国間で話し合い、共に生きるための国際ルールを決めて行く。それが我々人類がこの地球上で生きて行くことができる唯一の手段である。理想を放棄すれば人間は未来の姿を思考することもなくなり、この地球上では自己中心的な考えに基づく争いが絶えず、ついには滅亡の道をたどるであろう。EUの基本理念を擁護し、これを世界に浸透させることをあきらめてはいけない。日本はこれまでのアメリカ追従型の外交姿勢を改めて、アメリカとは是々非々でしっかりと対応しながらASEANなどを基盤としてアジア諸国の協調体制を築くことに尽力するべきである。
上記のような理想主義的な考え方を述べると、現実追認的な考え方を持つ人々(これが意外と多い)から、嘲笑的な意味での‘理想主義者’、‘おめでたい’、‘青臭い’などと批判される。このような現実主義者は現在の比較的満たされた自分の地位や生活を維持することだけしか頭になく、自分の子孫の代の多くの人々の生活のことまで考えが及んでいない。このタイプの人間が政治家、官僚、財界人に多いことは誠に憂慮すべきことである。国ひいては世界の舵取りをするこれらの人々がこのような考え方に囚われていることは極めて危険なことである。これらの人々が高邁な理想を持って長期的な視点から行動しないことには世界の潮流は変わらない。彼らにそのような行動をさせるには一般市民がそのような視点を持つ人を積極的に支持し、そうでない人に対して厳しい批判の態度を示すことが必要である。すなわち我々市民の民度の高さが必要で、これがないことが日本だけでなく世界をまともな方向に向かわせない最大の原因である。多くの知識人や新聞のオピニオン欄に投稿される市民の意見の多くは、現在の経済成長至上主義的なグローバル経済の流れに対する危惧を述べているものが多い。この危惧を多くの市民が共有して流れを変えることが必要である。いま世界では強権的は指導者が続出し、国のあるいは自分の短期的な利益の追求をして行動しており、世界の協調を乱しているがこれを止めるのも市民の力以外にないことをしっかりと認識する必要がある。流れを変える過程で我々市民は様々な犠牲を受け止める必要があろうが、それに耐える覚悟も要求されるであろう。
参考:13日朝日新聞朝刊社説「民主と自由の命脈を保て」

191月ミニトーク                   永野 俊
1)寺院と鐘
寺には大きな鐘があるのがふつうであり特別に何のためにとは考えない。ゴータマ・シッダールタが仏教を始めたころ(紀元前6世紀)ではその基本的な教えである無所有(物欲を捨てること)に従って、三衣一鉢を持つことすなわち平常の二つの衣類(下着と上着)と外出用の上着、それに托鉢用の鉢だけを所有すべきであると教えられていた。従って修行の場には鐘などは備わっていなかった。しかし始祖亡きあと、弟子の修行僧が増え、座禅などを行うために集まるときには召集を知らせるものが必要となり鐘が使われるようになった。鐘はこのように多くの人に行事や時刻を知らせるための物であったが次第にその音色が、諸行無常を伝えているというような宗教的な意味をもつものとされるようになった。鎌倉時代のことである。
なお、キリスト教の教会等にも鐘があるが、これは仏教をはじめとするインドの宗教が西方に広められ、キリスト教と併存するようになった時にキリスト教に取り入れられたものであるという。中央アジアのシルクロードのトルファンあたりで6世紀頃のことである。
2)がんの放射線治療
 がんの三大治療法といえば、手術、抗がん薬投与、放射線照射である(註)。日本ではまだ手術が主要な方法であると考える人が多く放射線治療を受ける患者は25%前後である。しかし欧米では5060%の患者が放射線治療を選択しているという。その背景には近年放射線による治療技術が著しく進歩していることがあるという。照射技術としては放射線のビームを多くの方向から患部で交わるように当てることにより患部に集中的に照射する方法が考案され、幹部周辺の正常な組織への照射量を大幅に減少させることができたという。また照射時に患部の位置をCT画像で正確に把握し照射ミスを除去する技術も確立された。この技術では患者の呼吸などによる患部の動きもリアルタイムで把握し患部の時々刻々の位置を正確に検出することができるという。手術は執刀医の技術の個人差の問題が常に存在するが放射線治療の場合にはそれはあまり問題にならないという。
放射線治療は手術が困難な場所にあるがんにも適用できる。また照射は正常細胞にもダメージを与えるが、正常細胞はそのダメージを自ら修正する能力がある。一方がん細胞ではその機能が欠落しているので照射が有効に働くという。なお放射線治療の進歩により、より強力な重粒子線治療の必要性は減少する傾向にあるという。このように多くの利点を持つ放射線治療は日本でも大いに選択されるべきであろう。
(註)最近ではこれに免疫療法が加えられ、四大治療法といわれている。
3)人間と機械の対戦の意味
最近囲碁や将棋などでの人とコンピュータソフトの対戦でコンピュータ側の能力が人を上回ることが多くなった。では、人がそのようなゲームをする意味がなくなるのであろうか。そんなことはない。コンピュータとの対戦で様々な新しい戦い方を学び、人間同士の対戦でその成果を生かすことができることが最大のメリットなのである。
ニューロ・ダイバーシティ―知の多様性―    201812月  永野
 ニューロ・ダイバーシティという一般にはあまり聞きなれない言葉がある。意味は人間の知の多様性、すなわち人間の頭脳は個々人で異なりそれぞれ多様な機能を有しているということである。その多様性を尊重する語として使われる。その重要性は、個々の人間は様々な知的能力を有するのであるから、そのことを理解しそれを生かすことによって多様な人間が調和して暮らせ、‘誰も取り残されない’社会を実現できることにある。現代の社会ではともすれば学校の教科の成績などで人を評価し、その物差しに合わない人を能力欠如あるいは神経疾患として差別する傾向がある。単一の物差しで人を評価する悪しき慣習であり、それが社会の分断につながる。
しかしそのような評価の仕方を乗り越えて社会にその存在価値を認めさせた例はいくつもある。例えば落語家の柳家花緑はいわゆる識字障害があり小中学校の殆どの教科の評価が最低ランクの1であった。(ただし音楽と図工だけは5であった)。通常このような子供は落ちこぼれとして扱われ、社会では受け入れられない。しかし彼は中学卒業後落語界に入って修行をし、22歳の若さで真打(落語家の最高ランク)となっている。それ以外にも自閉症で一般社会に溶け込みにくい若者が優れた仕事をする例は数多くある。複雑なコンピュータプログラムのバグ(欠陥)を見つけることは通常の人には極めて困難な作業であるが、ある自閉症の若者はプログラムを一目見ただけでバグを発見する優れた才能を持つという。また自閉症気味で社会に溶け込めず自分の世界に閉じこもる人は多数いるが、彼らは自分が想像する世界に没頭し、その中に自らを住まわせて安らぎを見出している。その中には優れた芸術家、作家、科学者等も多くいるといわれる。作家のルイス・キャロルは「不思議の国のアリス」という小説で有名であるが、この小説はキャロルが上記のような自分の世界を想像する能力にたけていたことにより生まれたものであるといわれる。この例に限らず多くの芸術家や科学者などにはこのような特殊な能力を持ち合わせそれが優れた業績につながった人が少なからずいると思われる。人々が脳の多様性を正しく理解し、これを十分踏まえた社会を形成することが人類の平和な共生に必須のことであろう。
このような脳機能の多様性はことなった人々の間に存在することはもちろんであるが一人の人の脳にも多様性は存在する。この典型はレオナルド・ダ・ヴィンチであろう。彼はルネッサンス期の優れた芸術家であることはよく知られるが、物理学、医学、天文学等数多くの学問分野で優れた業績を残している。彼ほど多能でなくても、人は複数の分野で優れた能力を持つことが多い。会社員として優れた能力を発揮する傍ら、小説家や俳人としても名を残すなど本業以外でも能力を発揮する人は結構いる。他分野に通じることは人の思考の幅を広げ、他の人々との共生能力を高めるという意味で人間にとって必要なものであろう。江戸時代の人たちは本業以外にも‘連’といわれる種々の団体に属し様々な異分野の人たちとの交流を大切にしていたという。これが江戸時代の安定した社会の形成に一役買っていたことは確かであろう。現代人もこの生き方を見習うべきではなかろうか。
参考:朝日教育会議、江戸から未来へアバタ-forダイバーシティ,法政大市谷(‘18/12/9)

生命って何だろう?―福岡伸一の生命論―      201812月  永野
生命とは一体何であろうか、それはどう定義されるのであろうか、ということが話題になることがある。よく知られている生命体すなわち生物の定義としては、①自己と外界の境界の保持、②エネルギーと物質の代謝、③自己複製、④恒常性の維持、の4つを備えていることが生物の要件である、というものがある。①は自己の固有の形を持ち環境との境が明確であることを意味する。水や空気などは自己とまわりの他の物とのはっきりした境界を持たないので非生物である。但し、当然のことながらはっきりした境界を持つが生物ではないものも存在する。②は自己を保つための必要なエネルギーを生成し、自己を形成する物質を絶えず更新することである。③は自己と同一なものを再生できることを意味する。すなわち生殖能力である。④は自己の形と機能を維持することを意味する。
ところで、この世は‘エントロピー増大の法則’という物理学の法則に支配されている。いきなり小難しいことを言うようで申し訳ないが、要するにこの世に存在するすべての物は何らかの手を加えられなければすべて崩壊してミクロな微粒子になってゆくということである。食糧も放置すれば腐敗して土に戻り、家屋も放置すれば崩れて土に戻る、岩石も時とともに風化して砂になる(註1)、などのことを考えればこの法則の普遍性が理解されよう。エントロピーとはまとまりの無さ(ランダム性)の尺度と考えていただければよい。ところが生命体だけはこの法則に逆らって、崩壊することなくその形と機能を維持して存在し続ける。これは生命体にだけ存在する特質であり生命の本質である、と生物学者福岡伸一はいう。従って生命とは、エントロピー増大の法則に逆らうメカニズムを内蔵するもの、と定義してもよいであろう、と彼は言う(註2)。生物を構成している細胞は短期間で古いものから新しいものに入れ替わる(註3)。細胞がエントロピー増大の法則に従って崩壊する前に生物は自ら古い細胞を破壊し新しいものに置き換える。この機能によって生物はその個体としての形と機能を維持し生き続けるのである。ただし、この置き換え機能も時とともに衰え、やがて個体は崩壊する。これが老化過程を経て死に至る現象である。生物も最終的にはエントロピー増大の法則に逆らえずに崩壊するのである。
(註
1)全くの余談であるが、国家‘君が代’の歌詞に‘・・・石の巌(いわお)になりて・・・’という行がある。これはエントロピー増大の法則に反しており現実には起こらない。石が集まって自然に岩になることはないのである。
(註2)福岡伸一、‘AIは生命を理解できるか’朝日教育会議、青山学院大学本多記念国際会議場、20181215日。生命に対するこの考えは著名な理論物理学者シュレディンガーが最初に言及したものである。彼は晩年理論物理学者から生物科学者へ転進したといわれる。それ以前に1930年代後半にアメリカの生物学者シェーンハイマ―は生物が体内の細胞を絶えず入れ替え、古くなったものを廃棄し新しいものへと変えていく機能を持つことを実験で確かめている。
(註3)人間の消化器系の細胞は毎日入れ替わる。但し脳神経細胞や心筋細胞は一生入れ替わらないものがある。

‘1812月 ミニトーク                   永野 俊
1)坊がつる讃歌
この歌は古くからある広島高等師範学校山岳部の歌をもとに前世紀中頃に大分県にある坊がつる(山々に囲まれた盆地)の山小屋で九大の学生3人によってつくられた。あまり有名ではないがよい歌である。芹洋子やコーラスグループ‘フォレスタ’により歌われている。表面的には山男の心情を謳ったものであるが、その歌詞は、際限のない我欲に囚われた現代人の愚かさへの反省、自然との共生、人々の共に生きる心、地球と人類の未来を見つめて現世を生きること、等々人間のあるべき生き方を指摘しているように思えてならない。以下に歌詞を記しておこう。
1.人みな花に酔うときも、残雪恋し 山に入り、涙を流す山男、雪解の水に 春を知る
2
.ミヤマキリシマ咲き誇り、山くれないに 大船(たいせん)の 峰を仰ぎて山男
  花の情(なさけ)を 知る者ぞ (註)大船:坊がつるから望める山
3
.四面山なる坊がつる、夏はキャンプの火を囲み、夜空を仰ぐ山男、無我を悟るは
 この時ぞ
4.
 出湯(いでゆ)の窓に夜霧来て、せせらぎに寝る山宿(やまやど)に 一夜を憩う山男
  星を仰ぎて 明日を待つ
一度聴いてみて下さい。フォレスタ版(www.dailymotion.com/video/x3c73ys)がおすすめ
2)権力の行使
ご覧になっている方もあると思うが、BS11に寺島実郎の未来先見塾(金曜夜9:00~)という番組がある。先日の番組で対談者として招かれた評論家・ジャーナリストの佐高信がこんなことを言っていた。元首相の宮沢喜一が最も尊敬する歴代首相はとの質問に、吉田、佐藤、田中などの際立った首相たちではなく、鈴木善幸であると答えた。この地味な首相が選ばれたのは意外であるが理由を聞けば納得がいく。彼は権力の行使に最も慎重であった人である、すなわち権力行使の怖さを最もよく知っていた人であるからであるという。この件に対する意見を求められた安倍首相は即座に宮沢氏の考え方は間違っていると答えた。権力はそれを持った者が行使するためにあるもので特に人事権の行使を重要視していると答えたという。これは安倍の政治運営を象徴している。自分の考えだけで政治を進めると言っているわけで、多様な意見を踏まえて慎重に権力を行使するという民主主義の基本理念を全く無視している。民主主義国家の長としてはふさわしくないと思われる。
余談であるが、寺島が日本外交は日米と日中の一方だけを解決すればよいのではなく、両者が絡み合う二次方程式(註)を解かなければならない、という見解を述べた。これに対し佐高は、今世紀初めの自民党首相は誰もこれをなしえなかった、と応じた。小泉は日米間だけに力を注ぎ、安倍(第一次)も解を求めることができず、福田は何もせず、麻生は二次方程式の意味さえ理解できなかったという話を講演会でして聴衆に大いに受けた、という冗談を言っていた。冗談ではなくまさにその通りである。その後の民主党の3人も解けなかったが・・・。 (註)‘二元連立方程式’の方がふさわしい表現であると思うが。

民主主義のあり方―日本と韓国を比較して―      201811月  永野
日本と韓国は共に民主主義国家であるが、民主政治に対する国民の意識はかなり異なるようである。その違いを見て日本国民の政治意識を少し批判してみよう。
1948
年に大韓民国(韓国)が成立するが、その実体はアメリカを背景とした軍事独裁政権であった(註)。1950年に朝鮮戦争が勃発し、1953年に停戦が成立するが、韓国は以後も軍事政権が続く。軍事クーデターにより大統領は替わるが相変わらず軍部による支配は続き、クーデターによる戒厳令の発令などで市民の行動は大きく制限されていた。これに対し市民は真の民主化を求めて反発し、強い行動を起こした。これが光州事件(1980年)である。当時韓国は全斗煥将軍が起こしたクーデターにより戒厳令が布かれ民主化運動が弾圧されていた。これに反発した学生を主体とした市民が街頭デモを行い、軍と武力衝突を起こして2000人を超える死者を出した。この事件は後に盧泰愚政権(1988年)により韓国の民主化運動の起点として評価され、責任者の追及と被害者への補償が行われた。韓国の市民は自ら血を流して民主政治への道を切り開いたのである。光州事件では武力衝突に至ったが、その後韓国の民主化運動は進化し、最近では100万人のキャンドルデモにみられるように、より全うな形でデモ行動を行い政府の非をただすようになっている。
一方日本は政府に非があっても市民が強い反対行動を起こすことはない。韓国の方が民主主義に対する意識が進んでいるともいえる。ある日本人ジャーナリストは日本は一応民主主義国のように見えるが、衣を一枚はがせば独裁と言ってもいいような側面があらわになるという。よく言われることであるが民主主義には杖が必要である。杖とは国民の政治意識の高さと具体的な行動である。民主主義は憲法や法律に謳ってあるからといってそれが正しく機能するわけではない。国民がそれを実現する意識を持ち、投票やデモなどの行動でその意思を示さないことにはまともには機能しないのである。民主主義は行動しなければ守れない。日本は選挙の投票率は最近の国政選挙では50%をわずかに超える程度である。しかも小選挙区制により死票は極めて多い。これでは自ら行動して民主主義を守っているとは言えないであろう。ちなみに韓国の大統領選挙は文在寅大統領の場合70数%であったという。
日本は国民の政治意識が低く、政府の施策の非に対する反発行動が弱い。どうやっても政治はあまり変わらないだろうと諦観し、流れに任せてしまうぬるま湯的傾向がある。日本の政治家は自分が政権に関与している短期間の間だけ経済や社会が一見うまく動いているように見せかけることだけに関心があるようである。これではぬるま湯が知らぬ間に温度を上げ気付いた時には大やけどを負うことになる。政治家も国民も長期的な視点で国の運営を進める必要がある。今だけ、金だけ、自分だけの3だけ主義の陥ることの非を常に意識しておかねばならない。
(註)韓国の民主主義は欧米や日本とは全く異なるものであったという。韓国の場合は南北の対立を背景に北朝鮮の共産主義を非とする考え方を国民に持たせるために持ち込まれた側面が強くあり、実際に真の民主主義を広めるための施策ではなかったという。

がんの免疫治療               201811月  永野
よく知られるように今年のノーベル生理学・医学賞はがんの免疫治療の進歩に貢献した二人が受賞した。一人は日本の本庶佑博士であり、もう一人はアメリカのJ・アリソン博士である。 がんの免疫治療とは免疫細胞であるキラーT細胞によりがん細胞を死滅させるものである。従って二人ともT細胞を活性化させる物質を発見したと思われがちであるが、実は二人ともT細胞の働きを抑制する物質を発見したことで免疫治療の進展に貢献したということが誠に興味深い。本庶氏はPD-1、 アリソン氏はCTLA-4という物質を発見した。この二つの物質がどのように免疫療法の進展に貢献したのであろうか。以下にその違いについて簡単に説明しておこう(註)。がんはT細胞の攻撃から逃れるためにPD-1を使う。したがってこの物質の働きを抑制する薬品を開発することでT細胞のがんへの攻撃力を維持することができる。一方CTLA-4はがんが異物であり攻撃すべき対象であるという情報をT細胞に伝える機能を抑える。従ってこの物質の働きを抑制する薬品を開発することでT細胞のがんに対する攻撃力を増すことができる。例えて言えばPD-1を抑制することはがん細胞の楯(相手の攻撃を防ぐ武器)を奪うことであり、CTLA-4を抑制することはT細胞に矛(相手を攻撃する武器)を持たせることである。このような説明をすると、この二つの物質を抑制する薬を併用すればより治療効果が増すであろうと考えるのが当然であろう。しかし実際は併用効果は薄く、副作用が増大するという。人体の機能の複雑さをあらためて思い知らされる。なお、T細胞の機能を抑制する物質が免疫系内に存在する理由は何かという疑問を持たれる方が多いと思う。これはT細胞の機能を程々に抑えておかないとT細胞が働き過ぎて自分の体内にある正常な細胞も攻撃してしまうからである。
さて最近よく聞く免疫療法のオプジーボという薬は本庶博士と日本の製薬会社の開発によるものであるが、この薬品で治療効果が出る患者の割合は2割程度であるという。これは免疫治療がうまく働くためにはいくつもの段階が全体としてうまく機能する必要があり、その一段階の機能向上だけでは治療効果が期待できない場合があるということである。免疫治療は、がん細胞が異物であるという情報を死亡したがん細胞から抽出する→それをリンパ節にあるT細胞に伝える→その情報を得たT細胞をがん患部に運ぶ→がん細胞の防御機能を突破してがん細胞を死滅させる、などのプロセスがすべてうまく機能して初めて効果が表れるのである。これらの一つのプロセスをうまく動かす薬品を投与してもそれが全プロセスを働かせることにはつながらない可能性があるのである。
薬品と個々の患者の相性もあり、また薬品には副作用がつきものであるから、その問題を投薬の前に調べておくことが重要であるが、このあたりの研究はまだ進んではいないようである。先に述べたように人体の機能は誠に複雑であり、身体の各部が複雑に絡み合って相互作用を持っているので、この問題の解決は容易なことではないことは理解できるがこの方向の研究の進展は今後の医療にとって非常に重要であろう。これはがんの免疫療法に限らず一般的な薬剤治療について言えることであろう。
(註)専門家ではない小生の大雑把な理解であることをお断りしておく。

朝日地球会議‘2018報告その1       201810月  永野
この会議は朝日新聞社主催で毎年開かれているもので、地球の保全、人類の持続性、人間社会のあり方、環境、エネルギーなど様々なテーマについて内外の第一線の論客(著名な学者、評論家、ジャーナリストなど)を招いて中身の濃い議論を展開し、多くの情報を提供してくれる。その内容はこのコラムでも何度か紹介した。今年は‘次世代への約束 もっと寛容な社会に‘というテーマで問題を取り上げていた。興味のあったいくつかについて私見を交えて報告しておこう。
(1)中東はどこに向うのか
これはセッションのタイトルであるが。話は国際秩序の今後につてであった。
1990
年ごろソ連が崩壊(1989年の1991年の2説)して冷戦が終了した時期に、今後の世界秩序の行方について2つの考え方が提示された。一つは米国の政治学者フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」であり、他の一つはこれも米国の政治学者サミュエル:ハンチントンの「文明の衝突」である。フクヤマは資本主義(自由経済)と民主主義の普及を予測し、それにより世界は永遠の平和と安定とを獲得し、戦争やクーデターなどはなくなる、と予測した。一方、ハンチントンは宗教を中心とした文化・文明上の対立(主にキリスト教とイスラム教、西欧文明と非西欧文明)を予測し、両文明の中軸国が国際平和を指向する姿勢を持つことの必要性を強調した。2つとも部分的には当たっているが、全体としてはその流れでは動いていない。前者ではアラブの春が好例であり、チュニジアは民主化されたが、起点となったエジプトなどでは反動が起こって逆戻りしている。後者では大きな宗教が全体として対立する構図にはなっておらず、一つの宗教内の宗派対立(たとえばイスラムのシーア派とスンニ派)や部族間の争いが顕著になっている。
この二人のすぐれた学者の予測が当たらなかったように、世界がどう動くかは全く予測できないものである。このあとの動きとしては、人々は国家から離れて自由な思想を持つようになり国民国家は弱体化するが、それにより国民国家がなくなることはないであろう、というのが一般的に受け入れられそうな考え方である。これはグローバル化により国への帰属意識の減退することにより必然的にもたらされるものであろう。また為政者が国民の多くのための政治を行うという政治の基本を重要視しない傾向を持つようになったことも一つの原因であろう。これは憂慮すべき大問題であり、個人的にはこれは今の日本にも当てはまると思う。よく言われることであるが、この問題の解決には国民の民度と政治家の質の向上しかない。
なお、日本について以下の指摘があったことも付記しておこう。日本もいずれ移民・難民の受け入れを増やさざるを得ないだろう。移民・難民に対する欧州の対応の仕方が20年後の日本の政治・社会のあり方の参考になる。今すでにアジア地域の人々の働きなしには日本の社会が成り立たなくなっている。スーパー、コンビニ、製造業、農園などの現状を見ればこれは理解されよう。単なる労働力の確保という考え方ではいずれ行き詰まる。包容力のあるしっかりした受け入れの理念と体制の確立が必要である。

朝日地球会議‘2018報告その2         201810月  永野
1)台頭するポピュリズムと危機の瀕する民主主義
この問題は今まさに多くの人々が懸念しており、先行きの見えない難題であると思っている。経済的にも軍事的にも世界最大の国である米国のトランプ政権をはじめとして欧州各国でもポピュリズム的政党が台頭し、一般市民の考え方へ影響が起こっている。これには根底にグローバル化により起こった政治的、経済的、文化的な不安の生起がある。これが国民の団結や国家の解体のなど様々な主張でまとまった組織を生む。しかしこれらのポピュリズム組織は多様で、組織間の連携により大きな力となって国や世界を動かすことはないと思われる。自分たちの主張以外は許容しない偏狭さ、即ち反多元主義がポピュリズムの顕著な特徴であるからである。ではなぜトランプが政権をとり得たのであろうか。それは米国の誕生にある特殊な事情によるとある米ジャーナリストはいう。米国はヨーロッパのいくつかの国々からの移民がそれぞれ違った場所に住み着き、それぞれの伝統に従って暮らし始めた。これが州の、そして合衆国という国家形態の起源である。それらは共同体の価値を重んじるものと個人の自由を尊重するものに大別される。それが共和党と民主党という2つの勢力の原型である。その2大勢力の一方の支持が彼を大統領に押し上げたのであり、決して困窮した白人労働者の票をかき集めたからではないという。
世界的なポピュリズム台頭の背景には中間団体と呼ばれる政党や組合などの勢力の減退がある。これらの組織の力を復活させることが民主主義を機能させるためには必要であるという。国家でも個人でもない多様な組織の充実が健全な政治には必要であるという。もっとも今の自民党のようにある一つの組織が肥大し過ぎ、その組織の主張のみを重んじた強引な政権運営をやられてはたまらない。この問題の解決には、政治家の質と国民の民度を高めることしかないであろう。これは我々一人ひとりに課せられた問題であるのだ。このことを理解していない多くの国民が日本の政治を不健全なものにしているのである。
よく言われることであるが、日本の民主主義は臣民型であり、政治家や官僚の施策に従順であり過ぎるといわれる。いい例が税に対する考え方である。長い間日本の民は領主に税(年貢)を納めその使い道は領主が決めるというやり方で支配され、それが当然であるという思いが浸透している。これに対しヨーロッパの先進諸国では税は自分たちの生活をよくするために政府に委託したお金であり、その使い道については自分たちがしっかり監視する必要があると思っている。したがってオンブズマン組織が充実し、監視システムが整っている。政治を行う側にも国民のためという意識はしっかり根付いているようである。政府と国民の間の信頼関係がしっかりし、高い税をとられても、それが自分たちのために使われるという信頼があるからこそ国民は高税・高福祉社会を受け入れているのである。日本はこの信頼関係が希薄であるから増税にはいつでも反対があり、国民の不満が高まる。しかし国民が臣民的で大勢順応指向が強く、不満が行動につながらない。それが政府の税の使い方をよりいい加減にしているのであると思えてならない。ヨーロッパの民主主義は参加型であるといわれ、政府の施策が悪ければそれがすぐに選挙結果に反映される。

朝日地球会議‘2018報告その3         201810月  永野
1)再生エネルギーの活用
日本は再生エネルギーの宝庫であるがあまり利用が進んでいない。中でも風力発電の潜在能力は15億Kwもあるというが、現在その利用率は日本の総発電量のわずか0.6%を占めるに過ぎないといわれる。ちなみに欧州連合では12%であるという。風力発電の利点の一つは太陽光発電との相補的関係である。冬は太陽光が弱く太陽光発電量は減少するが、風が強く風力発電量は多い。夏はこの関係が逆になる。太陽光発電や風力発電は天候に左右されるので電力の安定供給が難しいといわれる。しかしこれは配電網の整備と天候の予測システムの進化で解決できる問題である。これらはヨーロッパでは進んでいるが日本では十分とは言い難い。各地での日照や風の量などの天候推移が明らかになればその地域のその時々での発電量も事前に予測でき、電力供給のやり取りもスムーズに行える。ヨーロッパでは送電網と天候情報網が整備されており、太陽光発電や風力発電などの再生エネルギー利用による電力供給の不安定性は解決されているという。日本ではこの問題は未解決であるが、これは再エネ普及政策に政府が後ろ向きであることが大きい。 風力発電はいま風車の8.5回転で一家の一日分の消費電力が賄えるほどに技術も規模も進化している。日本は島国で海からの風の利用が容易である。いろいろな問題があろうがこれを発展させることが重要である。ヨーロッパをはじめ世界の潮流に習い太陽光や風力などによる再生エネルギー利用を発展させるべきであろう。広い領域で相補的に電気を自由にやり取りするには日本の得意分野の一つであるIoTシステム技術の活用が大いに役立つであろう。
(2)水素エネルギー
最近次世代エネルギーとして水素が注目されている。これは水素がCO2を出さないクリーンエネルギーであることももちろんであるが他にもいろいろな利点がある。まず蓄電機能である。自然エネルギー発電などである時期に過剰な発電が起きたときにそれを使って水の電気分解をし、発生した水素を貯蔵しておいて電力不足の時にそれを発電に使う。電気の蓄積は蓄電池や水をダムに組み上げることでも可能であるがこれらよりは費用的にも利便性の観点からも優れているといわれる。また燃料電池車(註)の動力源として使えば電気自動車の充電よりも速やかにエネルギー補給ができるという。電気自動車の充電は数十分であるのに対し、燃料電池車における水素の補給は数分である。水素は引火性が強く危険であるといわれるが、軽いので万が一漏れてもすぐに空中に拡散する。水素利用は危険という社会的通念を払拭することが必要で、この危険性に関する懸念はガソリンの自動車への利用の時にも問題になったが、その心配は今では完全に払拭されている。なお、水素発生には電気を使うので、発電時にCO2を発生させればクリーンエネルギーではないという意見もあるが、上記の余剰再生エネルギー電力の利用や生成時にCO2が出ない科学的方法もあるということであるので問題にはならないであろう。
(註)これも電気自動車であるが、水の電気分解の逆過程で水素と酸素が結合して水になるときに発生する電気を使って自動車を動かすものである。

1810月ミニトーク                   永野 俊
1)一党支配の正当性?
ある中国人識者が共産党の一党独裁の利点を以下のように説いていた。独裁であるからこそすべての課題を迅速に解決することができる。例えば四川大地震では壊滅状態になった地域の住民をその意向に関係なく強制疎開させて人々の生活の回復を迅速に行った。その地は廃墟にし、埋もれた人々の死体探しなどは行わなかったという。日本の東日本大震災では回復が遅々として進まず、未だに仮設住宅で暮らす人がいる、と批判している。我々からすると、単に日常生活が回復するからそれでよいというものでもないと思うのだが。
2)リニア新幹線って本当に必要?
著名な評論家寺島実郎がリニア新幹線プロジェクトを高く評価していた。その理由は移動の早さ、新駅設置で過疎解消、東南海地震時の交通機関確保などである。しかしこれらの理由は的を射たものであろうか。移動の早さは通信技術の発達した現在ではその必要性が高いとは思えない。過疎解消は東北、北海道新幹線で新たにできた新駅(たとえば新函館北杜駅や新花巻駅)の近辺が未だに過疎状態にあることで疑問符が付くであろう。東南海地震の際の東西の交通確保は中央線や北陸新幹線などがある。確かにこれらでは時間的な問題があるが、建設にかかる超莫大な費用、電力を含む維持費の大きさを考慮すれば建設の必要性は薄くなるであろう。それだけの金があれば社会保障の充実などに充てるべきであろう。寺島氏は在来線の補完としての新幹線の役割の成功を引き合いに出し、リニア新幹線も成功するというが高度成長期にできた新幹線と低成長時代に入った現在におけるリニア新幹線では役立ち方が大きく違う。成長至上主義の再考、新しい技術の負の側面への配慮、国民の格差解消への配慮に欠けるプロジェクトであると思われる。
3)おとしまえ
この語には何やらおどろおどろしい響きがある。しかしこの言葉は自分のしたことに対して後始末をつけるという意味であり、やくざ世界の専門用語ではなく、普通に使われる例もある。ある核物理学者は若いころ原発の有用性を信じて人々にそれを説いた。しかしその後その有害性を認め、原発反対運動に身をささげたという。勤務先をはじめ世間の風当たりは強かったが彼はそれを自らのおとしまえとして受け止めたという。またある作家は、母が引き揚げの際に病に倒れたとき一滴の薬も与えられなかったことを悔い、以後自ら医者にかかることをしなかったという。これもおとしまえのつけ方の一例であろう。ある知り合いの老人がこんなことを言っていた。若いころ俺は自分勝手で社会常識にも欠け、周りの人々に迷惑のかけっぱなしだった。この齢まで生かされているのは、神様が過去に世間に迷惑をかけたことに対するおとしまえをつけてから死ねと自分に言っているのだと思う、と。今は出来るだけ人の役に立つようにと思って生きているらしい。
ところで今の政治家は政治家としての矜持を著しく欠いているように思える。自らの政策の結果を客観的に評価しそのおとしまえをつけるべきではなかろうか。そもそも自己中心的で、客観的評価ということの意味もその大切さも理解していないのではなかろうか。

ベーシックインカム                20187月  永野
最近ベーシックインカム(BI)という言葉をよく聞くようになった。BIとは全ての国民に一定額のお金を支給するものである。今、自由主義経済のもとで社会に格差が広がり、貧困層の増大が大きな社会問題となっている。BIはこの格差解消の一手段として考えられている。BIは各人の収入、財産に無関係に全ての人に対して行われる。収入の多い人への支給はその妥当性に疑問を持つ人が多いと思われるが、この点は生活保護などの受給者に対する偏見の解消、生活保護支給にかかる多額の行政コストの縮小、税が生活保護受給者などの一部貧困層に使われることへの納税者の不満解消、などで説明される。
BIの導入の必要性は近年著しい発展を見せているAIと人間社会との融合とも関係している。1020年後には現在ある職業の約50%がAIに置き換えられるといわれる。多くの雇用が失われることになるが、それらの人たちの生存権を保証する意味もある。また、労働に対する考え方の変化にも対応できる。今までは「働かざる者食うべからず」的な考え方が普遍的であり、健康であれば自分に合わない仕事にでも従事して収入を得なければならない人が多くいたと思う。BIが導入されれば生活に余裕ができ時間をかけて自分に合った仕事を探すことが可能になり、より人生を豊かに過ごすことができるというメリットも生じる。即ち労働の価値観の転換である。古代のギリシャでは労働は奴隷がなすもので、市民は哲学などの学問や政治のあり方を議論するものであると考えられていた。ある意味それに近い価値観で労働を捉えるという転換が起こりつつあるという側面もある。
 BIに対する批判や反論も多い。BIは働かなくても一応の生活は保障されるのであるから就労の意欲をなくし、人間を怠惰にし、社会の活力を低下させるという。しかし支給額だけでは貧しく慎ましい生活しかできない。もっと余裕のある生活をするために働いて収入を得たいという人は多いはずである。しかも自分に合う仕事を探す余裕が持てるから心豊かに生きられる。生活保護の状況下では働くとその収入分だけ支給額が減額されるが、BIではこの減額はないから就労への意欲は高くなる。最大の批判は財源である。国民全員に一人当たり最低でも数万円/月を支給するには膨大な予算が必要であり、その財源の確保は現実的にはできない、というものである。確かに8万円/月を支給すれば年に約115兆円が必要になる。しかし次のような試算がある。現在国民の総所得額は約276兆円であるが、これに対する課税には多くの控除があり実際の税収は約18兆円である。所得総額に一切の控除をなくして一律に40%課税すれば税収は110兆円になりほぼ8万円/月のBIを支給できる。税率40%は現在の所得税率と比べると極めて高い率であるがBIが支給されるから可処分所得は現行のそれとほとんど変わらないという。AIに課税し高所得者の税率を累進課税にすればBIはより実現性が増すであろう。
BIはすでに世界各地でその効果の実証実験が行われている。欧州先進国のいくつかの都市でBIにより彼らが長期的・安定的な仕事を持てる可能性を調査している。国全体としてはスイスで2016年にBI導入の是非を国民投票にかけ、23%の支持を得たという。しかし富裕層に手厚い現在の日本政治ではBIの導入は残念ながら極めて難しいであろう。

心に寄り添うことの大切さ            20188月  永野
作家遠藤周作の代表作の一つに‘沈黙’という著作がある。これはキリスト教徒である彼の神の存在に対する考え方(弱者の神、心に寄り添う者としての神)を語ったものである。彼は幼いころからキリスト教信者の母の影響を受けキリスト教を教え込まれたが、この教えには違和感を持っていた。それはキリストという絶対的な神が存在するならば、罪もないのに不幸な目に合う人々をなぜ救済しないのか、なぜ沈黙を続けるのかということであった。神の存在に対して多くの人が持つ根本的な疑問である。江戸時代初期にこの禁止された宗教に殉教した多くの人たちがいた長崎五島列島を訪れ殉教者の末裔などのキリシタンにインタビューしてその答えを探した。その結論を書いたのが‘沈黙’である。結論としては人間は弱いものであり、過ちを犯すものである。その弱い心に寄り添い、苦悩を共にするのが神であるという。威厳をもって人間を統率するものではなく、母のようにすべてを受け入れ包み込んでくれるものが神であるという。最後の晩餐でキリストがユダに言った「立ち去って汝のなすべきことをせよ」という言葉も彼を責める言葉ではなく、弱さに負けた彼の行動を許す、という意味であるという。この小説で、日本に来た宣教師が密告されて踏み絵を踏むことを強要された時に彼が「踏むがよい」という神の言葉を聞いたという記述もこの解釈に沿うものである。キリスト教に対する彼のこの理解は日本では多くの信者の反発を買ったが、アメリカなどの外国では高く評価されているという。
余談であるが、金子みすゞの詩の中に‘私がさびしいときに、仏様はさびしいの’という行(くだり)がある。彼女も仏を‘寄り添う神’であると考えていたのであろう。
さて、それでは神というものは弱い心に寄り添う、ただそれだけの存在なのか、と考える人も多いであろう。自分にはそのような寄り添いはいらないと思う強い心を持つ人も多いであろう。しかしこの‘寄り添い’こそが人間社会をうまく機能させるために極めて重要なことなのである。様々な理由で社会に適応できずに心が折れてしまう人はこの世に少なからずいると思う。そのような人たちが一番望むものは、物的な援助でもなく叱咤激励の言葉でもない。その苦悩を理解しそれに寄り添い包み込んでくれる温かさなのである。